帰り道はあっという間であった。
ロフェが持っていた青い鉱石は、転移の魔法を込めたものであるという。鉱石を用いた魔法が得意分野であるのだと説明してくれた。これを片手に呪文を唱えると、無事に転移が発生した。魔法コンパスは正しく方向を指し示し、空は夕闇に染まっている。現世に帰還すれば、後はコンパスに従って進むだけだ。程なくしてトネリコの巨樹を見つけた時、ミミは大きく安堵の息を吐いた。
「あれ、君の保護者じゃないの」とロフェの声に目を向けると、そこには一人の人影があった。
「兄様……!」ミミは飛び上がって駆け寄った。
「全然帰って来ないから心配したよ。森の中を探査しても見つからないし」
「探してくれたんですか?」
「そりゃ、今のところ唯一の妹弟子だからな」カルロは微笑んで、手を差し伸べる。「師匠もお前を待っているよ。君も晴れてアンブロージオ門下生だ。これからよろしく」
ミミの顔がぱっと輝いた。勢いよく兄弟子の腕を取り、ぶんぶんと振った。「はいっ、よろしくお願いします、兄様!」
それから、今まで一緒に連れ立ってくれた少年にもお礼を言わねばと振り返り、
「ロフェ――?」
首を傾げる。つい先程までいた筈の少年は、跡形もなく姿を消していた。
「転移魔法だろうな。魔力の残滓も漂っているし」とカルロ。ひとまず新たな問題に巻き込まれたわけではないようだ。
「お別れもお礼も禄に言えなかった……。また会えるといいな」
「あの少年がお前を助けてくれたのか?」
「はい、兄様。迷ってしまったところで、ロフェと会って。森を抜けるまで、一緒にいてくれたんです」
カルロが目を見開いた。思わず足を止めて、まじまじとミミを見つめた。
「ロフェって……あのクロイセン家の息子か?」
「知っているんですか?」
「……まあ、詳しい事情は師匠も混じえて聞こうか。取り敢えず家に戻ろう」
二人でアンブロージオ邸に帰った頃には、日はとっぷりと暮れきり、月が仄かに夜空に浮かんでいた。〇〇草を納めるのもそこそこに、渋面で待っていたアンブロージオに急かされながら、カルロとミミは夕餉の支度をした。三人で食事を囲みながら、ミミは事の顛末を話した。
「お前たちはおそらく、常世にでも踏み込んじまったんだろう」ややあって、アンブロージオは重々しく結論付けた。
「常世」
「妖精の存在は聞いたことがあるな」
「御伽噺に出てきますよね」
妖精郷に入り込んだ者たちの話。秘宝を手に入れたというもの、美しい妖精の嫁を娶ったというもの、妖精に呪われて死んでしまう話。悲喜交交、様々な話が語り継がれている。
妖精は本来、ミミたちのいる世界――“現世”には存在していない。彼らは妖精郷――魔法使いたちは“常世”と呼ぶ――で暮らしており、逆を言えばそこでして生きられないのだ。
「我々魔法使いが用いる魔力は、放出したらすぐに消えてしまう、保持しておくことが難しい代物だ。」アンブロージオがスプーンをくるりと回す。ぽうっと光の粒子が一瞬灯るものの、瞬く間に空気に溶け消えていく。「――だから、魔力を溜める器が必要となる。これは生身の身体や魔法具が当てはまる。我々はそれらによって、生きる上で必要な魔力を保持し得る」
「だが妖精は違う。彼らは身体の九割九分が魔力で構成されている。魔力が脆くも結合し、形どっているだけ。いわばむき出しの精神体に近いんだな、これが。だから、そもそもが魔力に満ち溢れた常世でしか、生きられないというわけだ」
「それだけじゃない」とカルロ。「現世の生き物にとって、常世は逆に危険なんだ。魔力中毒に陥って死んでしまいかねない」
「下手すりゃ死んでいたぞ。良く無事だったな」
「師匠、明け透けすぎですよ。ミミが怯えますよ」カルロが師を窘めた後、首を振った。「それにしても、おかしいな。コンパスが狂うなんてこと、滅多にないはずなんだけど……ミミの呪文は間違っていなかったはずだし」
「お前の想像(イメージ)が足りなかったんじゃねえのか。さては食い物のことでも考えたとかな」
「ジオ様、黙って聞いていたら失礼ですよ!」大人しく聞いていたミミはたまらず反論した。「あたしそこまで食い意地張ってないですよぉ」
ミミの文句にアンブロージオは涼し気な顔で、食後の茶を啜っている。しまいには何食わぬ顔で新たな話題を投じる。
「まあだから、疑問点としては2つあるな。まずひとつは、何故お前が無事だったかっつー話だ」
「……ロフェのことは言わないんですか?」
「あの坊っちゃんは心配無用だからな。クロイセンの息子は特別だ。そう焦らずとも、いずれここにいりゃあ分かる」
どうやら師匠はこれ以上話すつもりはないらしい。とはいえ、本題については、本人にも分からないことだった。少しでもいいから心当たりを絞り出せと言われ、うんうんと考えるものの、
「何か懐かしい感じがした、くらいかなぁ……って、これだけ言われても、どうしようもないですよね」
我ながらあまりに陳腐な感想だ。これでは馬鹿にされてもやむを得ないと苦笑したが、思いの外アンブロージオは神妙な顔をしていた。
「ほおー……。その心象は大事にしろよ。魔法使いにとって、重要なものの一つだからな」
「は、はい」
「この点は現状据置だな。ただまあ、2つ目――お前たちが対峙した獣型の妖精については、分かることがある」
アンブロージオはひたとミミを見据えた。
「そいつは、お前を器に選んだんだ」
いつになく真摯な眼差しに、ミミとカルロは息を呑んだ。
「師匠、それは、そいつがミミの中にいるってことですか」カルロが問うた。「ミミに危険はないんですか。乗っ取られてしまうとか……」
対して、当人は平静に、
「兄様、大丈夫だと思うよ。あの魔物からは敵意は感じられなかったし、苦しそうだったもの……。でも、本当にいるんですか、あたしの中に?」
胸に手を当ててみるものの、これといった何かは感じられない。
「お前は妙な所で能天気だな……」アンブロージオは呆れたようにため息をついた。
「一度喚べるか試してみるか。それが手っ取り早い」
「今からですか?」
「喜べ、特別授業だ」
食卓が片付けられ、テーブルを隅に寄せられた。アンブロージオとカルロの二人がかりで、結界を床一面に描いた。塩を円形に振りまき、随所に鉱石を配置した代物である。万が一妖精が暴走していたときの対策だ。ミミは結界の真ん中に入るよう指示された。その手には、ロフェから手渡された羽入りの小瓶がある。
(中略)
ごうっと風がミミを中心に渦巻いた。結界外の二人が身構える中、渦は一つにまとまり、獣を形どる。現れたのは、常世で見た鹿型の妖精であった。未だ毛並みが乱れ、角は折れているものの、その双眸は美しい蒼を湛え、理性を宿していた。
(我ガ主)
脳裏に直接響く言葉に、ミミは首を傾げた。
「森でも思ったけれど……あたし、あなたの主じゃないよ?」
(我ガ主。我ガ身ハ御身ニヨリ保タレタ。服従ノ誓約ヲ)
ミミは困った。助けを求めてアンブロージオたちを見遣るが、特に反応はない。二人には声が聞こえていないのかもしれない。妖精に敵意はなく、むしろ進んで頭を垂れている。しかしどうにも、彼が求める服従に、躊躇いがあった。縛りたくない。彼らは縛ってはいけない存在の筈だ。何か上手く事を収められないだろうか。
「――それだったら、あたしのお願いを聞いてくれる? それで、あなたのお願いをあたしが聞く。これでお愛顧にしましょうよ」
(願イ、トハ)
「お友達になってよ。あたし、ここに来て何もわからないことばっかりで、ちょっぴり寂しいの。だから、話し相手になってほしいな」
果たしてこれで納得してくれるのだろうか。不安に駆られるが、妖精は素直に頷いた。
(ソレガ主ノ望ミナレバ)
「ううーん何かズレている気もするけど、まあいいか。じゃあ、これはあなたに返すね」
小瓶から羽をそっと出し、差し出す。羽は妖精に吸い込まれるように消えていく。心なしか、妖精の毛並みに色艶が出てきたようだ。妖精はしばし首を傾げ、やがて再び頭を垂れた。何かを問いかけるような目に、何となく両手を差し伸べる。角の支枝がぽろりととれ、手の中に落ちた。驚いている間に、妖精の姿が霧のようにぼやけ、ミミの胸中に吸い込まれていった。あっという間の出来事である。
ミミはまじまじと手中の角を見つめた。小さな円錐型のそれは、ほんのりと熱を帯びている。
「物々交換かな……」
一方、見守っていた二人はと言うと、予想もつかぬ光景に声もなかった。
「師匠、今のは森の主じゃないですか? 姿かたちが伝承と一致してましたよ……」
「これが【揺り籠】ってやつか」
「聞いてないっすね……揺り籠?」
「知らねえのも無理はない。滅多にいない存在だから、伝承にすら殆ど見られないからな。妖精と意思疎通し、使役すらできる存在。アカデミアが知ったら大騒ぎだろうぜ。俺はどうやらとんでもない奴を弟子にしちまったらしい……」
アンブロージオは顎を撫で、今後のことを思った。