山育ちの竜胆と不殺の彼岸花   作:トウチ亀

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幕間
「There in body, but not in spirit ①」


 

 

 

 

 

 

 

 

 ゆっくりといくらか軽くなった目蓋を開ける。

 思わず溜息をつきたくなる気怠い目覚め。開けた視界が捉えたのは木目の天井。

時間を置いた所為か、いささか埃っぽく感じるその場所には、和室特有の畳の香りが朧気な思考を横切っている。

 病院らしい清涼感のある白いタイルでなく、見慣れた風景から生まれる無機質な既視感が大らかに胸へと着地した。

 

「――――退院したんだっけか、一応」

 

 全て世はコトも無しと言うべきか。

 包帯を解き、担当医からは苦言と言う名の説教を粛々と反芻する過程を経て、昨日ようやく住み慣れた我が家に帰って就寝に相成ったわけだ。

 

 ……言うほど好きじゃないけれどさ、この家。

 珈琲の匂いもしないし、客の笑い声が聞こえるわけでもない。人が一人暮らすにはあまりにも広いから色んな意味で手入れに手間がかかる。

 罠とかそういうのを考慮すれば妥当な作りなのだろうが、家というにはあまりにも人間としての情が薄すぎる。唯一の趣向スペースと言える庭だって、よく見れば見た事ない植物が生えていたりするのだから恐ろしい。

 

 こういう場所に千束が居てくれれば、なんて何度思い返したことか。

 

「……病院に居た方が楽しかった、なんて言ったら怒られるだろうな、うん」

 

 というか実際に口にして怒られたばかりなのを思い出す。千束だけじゃない、たきなや店長も、ミズキさんもきっと怖い顔して怒るに違いない。

 そんな奇妙な確信が妙に嬉しくて、思わず湧いてきた温かな嬉しさに口角が緩く弧を描くのを覚えながら布団から立ち上がった。

 

 そこに、あるべき筈の感覚(モノ)はない。

 

「痛みはなくなった、けど」

 

 各方面の尽力により結果として――異常は存在しない、ということらしい。

 僕の回復力に驚いているのか、それとも父の技術に驚いていたのか。真実のほどは定かじゃないが、安静にしていればいずれは元の生活に戻れるだろう、とのことだ。

 

 その筈……なのだが……。

 

「うぉ、っとと」

 

 重心を少しでも右側に傾ければこの通り。

 どさり、とか、すてん、みたいな軽くてやっすい効果音が聞こえてきそうなくらい間抜けに身体は顔から布団と畳に転がった。

 先日ビル移動を肉体一つで行ったり銃弾を躱したり斬ったりと、普段の戦闘であれば信じられないほど無様に運動機能を失っている自分の姿を見て改めて驚愕する。

 

「参ったな……やっぱ駄目か」

 

 右腕、というか右半身は相変わらず応答せず沈黙を保ったまま。

 体勢を整えながら僅かに痛みが奔る左手で右側を抓れば、痛みはおろか掴んでる感覚すら感じ取ることは出来ない。

 

 完全に神経がやられている証拠であった。

 

 ……いや、本格的にどうしようかこれ。

 現状は好転するどころか寧ろ悪化している。担当医である山岸先生には騙し騙しで退院してきたツケを払う時が来たというべきというか、なんというか。まだ退院したての頃の方がマシにすら思えるくらいだ。

 まだ入院中は良かった。担当医から見ても手術後は健康そのものだって言うし、実際に僕はこうして退院できたワケで。

 

「けどこうして右半身は動かないし……専門家でも見抜けない身体的異常ってなんだよ一体」

 

 調べど調べど出てくる結果は『健康』そのもの。

医者が、しかも公的機密組織の実働部隊の治療を担うべく見出され抜擢された人たちがそう仰るのだから、掲示された結果自体に間違いはないのだろう。

 つまりは現状の結果と釣り合わないのは全くの無問題ということだ。

 とにかく、これじゃ戦闘はおろか日常の生活にすら影響が出る。

 

 ……いや男、ひいては日本男児なら這ってでも平気なフリをすべきか。否、すべきだろう。

 

 猛ろ大和魂。頑張れ僕。燃えろ僕の中のナニカ。

 

 自分にそんな気高いものがあるかどうかわかんないけど、また千束に迷惑かけるくらいならこんなの――。

 

 

 

「――――おっはよー、カナメくんッッ!!」

 

 

 

「………………ふぅ」

 

 

 

 ………………なんだ、色々おかしいと思ったらただの夢オチか。

 

 

 

「――――寝よ」

「寝よ、じゃない! ほーらぐーたらしてないで起きる! 今日職場復帰or学校でしょ!」

「勘弁してくれ、今日は火曜だよ? ゆっくり休ませてくれ……」

「ド平日じゃろがいッ! なに堂々とズル休み満喫しようとしてるの! ほれ、起きる!」

「おぼふ」

 

 朝の静けさを貫かんばかりの勢いの至極真っ当なツッコミが炸裂する。

 二度寝を試みても勿論だめ。曰く伝家の宝刀の『今日は〇曜日だよ』も平日ど真ん中の学生という立場のため全く効力を発揮せず、僕はごろごろと布団から引っぺがされる羽目になる。

 よりにもよってズル休みを喜んで歓迎しそうなリコリス筆頭の千束に。

 

「朝ごはんも出来てるから。あ、『日課』のメモが居間に散らばってたけど、片付けて問題なかった?」

「え……めっちゃ散らかってたでしょ。あの部屋」

「ご飯食べられないくらいだったねー……もしかして動かしたらマズいものあったりした?」

「あー違う違う。そこは全く問題ないよ、ありがとう……え、マジで見ました? あの散らかり具合」

「ムフフフ~、今度は片付けてから寝ることだなカナメ隊員」

「ウス……」

 

 ついでに汚部屋同然であった居間を見られていたとか、違う意味で二度寝したくなる問題に直面した。女子に散らかった部屋を見せるのは男心的に結構堪えるのである。

 

 にやにやと明らかに小馬鹿にしているであろういやらしい笑みを浮かべる千束。それを見て思わずふて寝したくなる気持ちを、欠伸と一緒にどうにか噛み殺しながら半ば本能的に居間へ向かう。

 

 ――麻痺した右半身を千束の『眼』から欺けるよう、重心と歩き方を絶妙に調整して。

 

「おお……本当に出来てる」

 

 焼き鮭に味噌汁、できあいのきんぴらごぼうと白いご飯が、隣合わせで並んでいる。

 なるべく自分のことは自分だけでやるように心がけて来た身としては、女の子が……ひいては千束が僕に用意してくれた朝食という事実はこう、男子高校生的にも心にクルものがあった。

 

「んじゃ食べよっか。私もお腹空いたし」

「いや、千束も食べるのか……」

「え、もしかして一人で食べたい系?」

「……いや、一緒に食べよう。うん、そういうものだよな本来は」

 

 いやはや、誰かと一緒に朝食を摂るなんて何年……いや、もしかしなくとも初めてだったので思わず変な言葉が口から零れてしまった。

 

 ご飯、作っても放置とかザラにあったし。

 

 相も変わらず顔も思い出せない父親の記憶はずっと、論文やら研究やらに勤しんでいる。

 それで当時の僕はまぁ……悪い意味で従順だったから、特に何の感慨もなくいつしか作るのをやめてしまったんだっけか。

 

 そんな記憶に耽りながら、世の学生であればこのぐらいの時期はまだまだ家族と一緒に食事を摂るのが普通なのだろうと思い直す。

 

「おお、しゃけだ」

「そ、しゃけしゃけ」

「おかか」

「アニメ見た?」

「うん――じゃ、いただきます」

「はい――んじゃ私も、いただきます」

 

 中身をまるで感じない茶番を挟みながら改めて目の前で陳列する朝食に二人しておじぎをして、箸で皿をつつき始めた。

 ず、と手始めに味噌汁を口に含めば、ほうと思わず息が口から漏れ出るのがわかる。

 絶妙な塩梅で溶けた味噌の味がじんわりと口から胃へと広がっていき、柔らかい表情で箸を進めていく彼女のことをおのずと理解できるというもの。

 僕の隣でこくりこくりと頷きながら食事を摂る千束の姿は、いたって満足気である。

 

 ……うん。

 

 だからもう、聞いて良いだろうか。

 

「ねぇ」

「んー、なにー? お味噌濃かった?」

「いえ、絶妙なお加減で大変美味しく……じゃなくて、このタイミングでこんなこと聞くのは変なことだとは思うんだけど」

「ほうほう」

なんでいるんです?

「あ、ほんとだ味噌汁おいしー」

「聞けよ」

 

 そもそもどうやって入った、なんて聞くと、返ってくるのは何を言っているんだと言わんばかりの呆れ顔。

 ……なんだろう、千束がその顔になるには明らかにターン数が足りていない気がする。

 

「相変わらず野暮なこと聞くねぇーカナメくんは。そんなんじゃ生え際が後退しちゃうぞ」

「やかましい……そもそも言うほど野暮かこれ」

「朝にカナメくん家で私が朝食をすみやかに作っていた……まさに完璧な理論武装でしゃー」

「一番知りたい部分が意図的に伏せられている気がするんですが……」

 

 あなたは何故にこの物件として一銭の価値もない我が家へ? という至極単純な疑問。

 少なくとも人の家に気づけば見知った人が我が物顔で居たとなれば当然の反応だと思うのだがそれは。しかも結局侵入方法に関する答えになっていないのが地味に気になる。

 なにせもしかしなくともこの家、出るのは簡単だが入るのは難しいという女子受けどころか一般受けすらしないドン引き確定の問題物件ですので。

 

「私をキャッチしたかったら最低でもあの三倍は欲しいところだねー」

「問題物件を問題発言で返すな……これだからファーストリコリスは」

「あ、今の録音でフキに言っておくね」

「やめて?」

「はい送信」

 

 すい、とあまりにも軽い送信音が聞こえて軽く絶望した。

 ノータイムで行われる鬼畜の所業に朝とは思えない溜息が零れる。後悔で沈む僕を見て目の前のあかいあくまは実に満足気だ。

 

 ……でも、まぁ。

 

 やっぱり家に人が居るというのは悪くない。

 特に千束がいればこの広くて人情の無い家にだって価値が生まれる。表情を感じなかったこの部屋だって、彼女が居れば陽だまりみたいにこうしてあっという間に温かい場所になる。

 

 ――それは僕には決して生み出せないもので。

 

 ――――壊すことでしか自身の価値を見出せないとあの戦いで理解した僕には決して、届かないものだから。

 

 

「あ、お米ついてるよ」

「え、なにそれ恥ずかしい」

 

 なんてぼんやり考えながらお米をつついていたのが駄目だったのか、そんな子どもみたいな失態をやらかしてしまう。

 どこだどこだと両手を右往左往に泳がせると、千束は何が面白いのかそのまん丸の赤い瞳を爛々と輝かせて――。

 

 

「――食べて良い?」

 

 

 ――なんて、爆弾発言をすれば一応は健全な男子高校生がどんな反応をするかなど検討が着くだろうに。

 

 

 ひと際大きく聞こえる心臓の音が、千束の言霊と一緒になって音もなく爆発する。

 にぱっと花咲く笑顔には少しの照れと、それを押し切る大きな喜びが乗っているのが否が応でも伝わってくる。

 

 その反応が示す一つの可能性に、ぼんやり理解し捉えた頭は暗転していた思考を裏返す。

 一瞬のうちに悶えそうになる真っ赤な熱を迎え、一秒と立たず僕の男子としての理性を焼き切らんとしていた。

 

 

「………………別に、好きにすれば良いのでは?」

「……ふひひひ……では失礼しまーす」

 

 

 愕然とする僕に構わず、何かを言うまでもなく頬に付けてしまった米を取ってくれる千束。

 

 それはもう、自分の食事に手を付けるより嬉しそうに笑みを浮かべて。

 

 ………………うん。

 

 可愛い女の子が自分ちで美味しそうにご飯食べてるって、良いよね。

 

 そんなちょっと嬉しい、久しぶりの落ち着いた朝食でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いらっしゃいませー」

 

 からんと、来店を告げるベルが鳴った。

 千束や店長から鉄面皮と呼ばれたのも今は昔。すっかり様になった接客専用の外行の顔で新たな来店者を迎える。

 店は夕日の気配がする営業終盤の喧騒で賑わっており、ホールに満ちた香ばしい珈琲の優しい香りは来店者をことごとくこの店の虜にすることだろう。

 そこに戦いの気配はない。

 老若男女、幼子から高齢の方々まで争いとは無縁の穏やかな顔でリコリコの目玉である和菓子と珈琲を傍らに談笑し、楽し気な雰囲気で各々の時間を過ごしている。

 

 それが『DA』の支部としてではない、『喫茶リコリコ』の本来の姿だった。

 

「三名は上の階へ案内するとして二名は……ミズキさん、席を確保しておきたいんで、手前の座敷を片してきてくれません?」

「断るっ!」

「断んな」

 

 あまりにも清々しくサボり宣言を披露するミズキさんも相変わらずの平常運転。なので僕も心置きなく雑に扱えるというもの。

 そもそもこの混み始めて忙しくなってきた時間帯に酒盛りとか許されると思ってるのか。

 

「ただでさえ店長いなくて厨房回らないんですからお願いしますよ……一応とはいえ僕が現場のアレコレを任されてるといっても、ミズキさんいないと困ること………………ないことはないですけど、頼りにしてるんですから。ほら、ミズキさんヨゴレとか率先して請け負ってくれるとこありますし」

「好きでやってるワケじゃないわっ! 前々から思ってたけどアタシに対して言葉のブレーキ壊れ気味になるのどうにかならないワケ!?」

「そんなことないですよ。営業周りとか依頼発注の管理とかミズキさん以外に出来る人この店にいませんし」

「存外に接客あてにしてないだろお前」

「得意分野の違いですね……あと酒臭いのはちょっと」

「ブレーキどころかアクセル利かせてるんじゃねーよ」

 

 カウンターで突っ伏してぶつぶつ文句を言うミズキさんを(まく)し立て、渋々ながら彼女をホールスタッフとして出動させることに成功する。

 

 これが『喫茶リコリコ』の店員としての今の僕の役割。

 千束と出会って一年近く経過した現在、下っ端も下っ端から随分と出世したもので、立ち位置としては指揮官というか、バイトリーダー? 的なポジションに落ち着いていたりする。あくまで店長不在時という条件付きで。

 

 というのもそれなりに理由があって、

 

「カナメくーん。エスプレッソとスペシャルエレガントパフェ、注文入ったよー」

「了解。エスプレッソは僕が淹れるから、パフェは千束に頼んで良い? 新規のオーダー取ってこないと」

「マジで!?」

「言っておくが、トッピング必要以上に盛らないでな? お客様はその人だけじゃないんだ」

「むぅー……」

「むぅーじゃない」

 

 おおむね、こんな感じ。

 ストッパーと言うべきか、ブレーキというか。

 現場責任者と言う名の、先程の様に隙あらばサボろうとするミズキさんや、気分次第でサービス精神過剰になる千束のお目付け役だったりする側面があったり。

 千束とのやり取りだって今に始まったことじゃない。これまで繰り返した回数と比較すれば、簡単に引き下がってくれた辺りまだ可愛いものである。

 

 そこでまたちりん、と来店を告げる音が入り口から聞こえる。

 

「カナメ、カップルが、カップルが入ってきた! 労災案件よ!」

「ならないだろ」

「アンタらだけでも胸焼けしそうなのに此処に来て燃料投下されたらアタシは……! アタシは……ッ!」

「ええい、アンタいくつだ……そんなめでたいことを呪い殺すテンションで僕に報告してこないでください。言いたかないけどそんくらいの年齢になったら応援してサービスするくらいの度量をですね」

「はー!? アタシだって最近意外なくらい頑張れてるしぃー!? 年齢開示してこのテンションで接してもドン引きしない年下が現れたのよ! 年下だけど! 年下だけど!」

「本気で何の話してるんですか……!」

 

 ……うん、まぁ恥ずかしい話これも実はいつも通り。

 若人の青い春に対してアレルギー反応を起こすミズキさんを諫める役割。終わってんなぁって、しみじみ実感して死にたくなるまでがセットである。

悲しいことにコッチの方が現場責任者としての振る舞いより先に板についてきてしまったというのだから皮肉というか、間抜けな話だ。

 そしてそれを周囲は見応えがあるのか、見世物としては上等なのか、くすくすと珈琲と和菓子を食らいながらがーがー言い合いをしている僕達を見ているのがなんとも。

 

 

 そう、いつも通り。

 

 

 だがそのいつも通りの光景には、普段とは異なる視線を混じっていた

 

 

「――――」

 

 

 青い視線が賑わいで交錯する店内で静かに僕を見据えている。

 リコリスとしてではない、リコリコの店員の一人として青い和風の装いした少女――たきなが、回収した皿を厨房の洗い場へ運びながら僕を見ている。

 そこに言葉はない。

 だんだんと柔らかくなってきたと思っていた表情はまるで何時ぞやの出会いの様に堅く、僕の一挙手一投足に至るまで視線を巡らせていた。

 

 気遣われているような、そうじゃないような。

 リコリスとしての使命感に燃えているたきなに通じる部分があるというか。

 そんな曖昧ながらも強さを感じる目線には、どうにも『心配』というのが透けて見えていた。

 

「……なんか挨拶も素っ気なかったしなぁ……」

 

 珈琲豆を挽きながら、聞こえるわけもないぼやきを口にする。

 

 別に侮っているわけじゃない。

 事実としてあの戦いで僕と千束が無事だったのは、たきなによるところが大きい。

 たきなの献身と生真面目さが、あの誰が欠けても可笑しくなかった状況で『生存』というたった二文字の在り得ざる結果を勝ち取ったのだ。

 

 だからこそ解せない。

 僕と千束を逃げずに護ってくれたという事実を、たきなはもっと誇っても良い筈なのに今の所そんな感情は一切感じさせなかった。

 リコリスとして鍛えられた監視の目を全力で使っているんじゃないかという確信を伴う程度には、僕の一挙動を見逃さないという気概を感じる。

 

 だからだろう。

 そんな年下の子に慣れない気遣いでどこか気の緩みが生まれたのか――

 

「あ」

 

 ――ぱりん、と我ながららしくないミスをしたりする。

 

「お、破壊神の再来か? 大丈夫―?」

「……いや、別にそんなことは」

 

 そんなことはない、と思いたいところだ。

 だが床で無残に暖色系のマグカップをバラバラにしてしまったところを見るとそれも否定できないところがなんとも。

 

「いますぐ片付けて――あれ」

 

 右手で拾い上げたカップの破片を再び落とし――指に切り込みが入った。

 

「……結構深くいったな」

 

 だけど相変わらず、痛みは感じない

 ぽたぽたと右手の切り口を伝って床を撃ちつける様に反して、来る筈の痛みがないというのはどうにも違和感を感じずにはいられない。

 

 ……きっと皿を落としたことに僕自身が思っている以上に動揺してるのかもしれない。

伊達に僕も『DA』で爆弾魔やら破壊神やら好き放題に言われてるわけじゃないということだろう。あんまり認めたくない事実ではあるけど。

 その所為で飲食店の店員にあるまじき、接客の命である指先へ血を滲ませるなどという失態を犯してしまっているのだから是非もない。

 

 ……原因なんて考えるまでもないんだけど。

 

「――――大丈夫ですか、カナメさん」

「あ……うん。まぁ、なんとか」

 

 そして破片集めに四苦八苦していたのが行けなかったのか、たきなが心なしか血相を変えて僕の方へ駆けつけてきた。

 

 そしてそれを、千束が見逃す筈もなくて。

 

「どしたどしたー……カナメくん、指切れちゃってるじゃん。うわ、結構血ィ出ちゃってる」

「これじゃ接客はともかく洗い場もこなさなければいけない厨房は難しいですね……取り敢えずタオルで恰好つけておきますね」

「そんな……大袈裟じゃない? すぐに血止めて『DA』から支給された()()()()塗りつけておけばこんなの――」

「「こんなの?」」

「あ、ハイ」

 

 ずいっと一瞬にして巨大化した千束とたきなを幻視する。

 予想外の圧が僕を襲って、反射的に返事をしてしまう。

 なんだろう、それほど間違ったことは言っていない気がするのだが……確かに珈琲や和菓子という香りと風味が命の代物に血の匂いやらが混ざるのは確かにいただけない。

 だがそれで接客まで下がるのはなんかこう、やっぱり大袈裟なのではないだろうか。

 

 そう伝えると、千束とたきなはこれ見よがしに呆れて溜息を零した。

 その意思疎通っぷりはどうにも見解の一致というものが見て取れた。

 ……おかしいな。もしかしなくとも喧嘩っぽいことしてなかったっけか、二人とも。

 

「まったく……千束さん。カナメさんは任せます。私が厨房を担当しますので」

「ごめーん。手当が終わったら私もすぐに復帰するから」

「……いえ、ゆっくりでも良いので千束さんはカナメさんを優先してください」

「いや、この混み具合じゃそういうわけにも――」

「――――やってみせます。千束さんの手を借りずとも、やってみせます」

 

 ……特に変化が顕著に感じるのはたきなだった。

 以前より前に出るようになったというか、違う意味で遠慮がなくなったというべきか。千束より先に僕の元へ駆けつけたのが何より証拠だ。

 

それは心配というには少し過剰で。

 

 それを良い変化と捉えるのは、たきなが目指したものとは違う気がするのだ。

 

「――――」

 

 そしてそれを憂いを帯びた視線で見つめる千束が――見ていて痛々しかった。

 

「奥の居間へ行こっか、カナメくん」

「……いいの?」

「たきなのこと? 大丈夫大丈夫。それよりカナメくんは自分の心配をして。今から救急箱取ってくるから」

「わ、わかったから押さないで」

 

 がやがやとして喧騒が遠ざかって、あれよあれよという間にタオルを患部に当てられて『リコリコ』の居住スペースである奥の居間へと押しやられる。

 ぽつんとその場所に一人。

 こういう時こそ仕事に集中したいのに、今の僕にそれは許されていないのが現実で。

 そのままならなさに思わず溜息を零し、押し入れの襖に背中からもたれ掛かって脱力する。

 千束やたきなの反応を見て思うことは一つだった。

 

「――見事なまでに心配されてるな」

「言わないで……情けなくてどうにかなりそうだから」

 

 背後から聞こえた声に半ば反射的に返答する。僕の内心をそのまま語ってくれたかのような内容に、返す言葉なんてものがそれくらいしか思いつかなかったからだ。

 小さくキーボードを叩く音が聞こえる。

 襖に見える僅かな隙間からは青白い電光が漏れ出ており、そこにいる人物の性質を考えればある意味呼吸にすら等しいであろうソレらに、思わず苦笑いした。

 

 何を隠そう――我ら『喫茶リコリコ』の電子戦担当となった新戦力、クルミさんである。

 

「そんな狭い部屋で良かったの? 店長に言えばもう少し広い部屋も用意出来たのに」

「コンピュータに触れられるならVRでもスーツケースの中でも大歓迎だ」

「本格的にリス染みた生態になってきたな……」

ウォールナット(クルミ)だからな」

 

 冗談を交えつつ画面を見つめて作業に勤しむその様子は、ハッキリ言って此方への興味があるのかないのか判別が出来ないが、今はその素っ気ない態度が何となくありがたかった。

 

 あの任務が終わってしばらくして。

 ウォールナット――もといクルミさんは『喫茶リコリコ』をしばしの拠点にすることに決め、こうして今も『DA』関連の仕事を手伝って貰っているのが現状である。

 今になって国外に出ても命を狙われるだろうし、むしろクルミさんほどのハッカーが味方になってくれるのは正直心強いなんてものじゃない。

 

 ――クルミって名前が本名だと知った時は流石にヒヤッとしたけど。

 

「……もしかしなくとも初対面で名前呼んだ時は滅茶苦茶警戒してた……?」

「当たり前だろ。ボクの同類でさえ知らないボクの本名を言い当てられたんだからな」

「いやだってそこまで安直だとは思わなかったし。僕だってテキトーに付けたあだ名が当たってるなんて夢にも思わなかったというか……そもそもネットリテラシ―なんてものがクルミさんほどのハッカーに必要かどうかわかんないけど……こう、ねぇ?」

 

 というかクルミさんほどの人間なら一度くらい安直だなって思ったりしなかったのだろうか。

 

「安直なぐらいがちょうど良いんだよ。最近の連中はなんでも勘ぐって単純なことをややこしくするからな。時代と技術が進むほど、ボクのネットリテラシ―はより強固に確立されていくわけだ。あと誰も知らないってのが地味に強い」

「強いっていうか無敵じゃ……」

 

 クルミさんのことだから自分の本名をダークネットで晒すなんてことしないだろうし。仮に出来たとしたら逆に彼女からの報復によって少なくとも下手人はとんでもないことになるに違いない。

 

 皮肉にも、実際にそうなった人間がこの場にいるわけだし。

 

「さて、と」

 

 どういうわけか、クルミさんは作業を中断して押し入れから降りてきた。

 

「クルミさん……?」

「着替えてくる」

「なんで?」

「人手不足なんだろ? だからボクもホールに出て手伝うことにしよう」

「え」

 

 予想外の発言に意図せず言葉に詰まってしまう。

 理由はいわずもがな、アンニュイな印象をそのまま体現したかのようなクルミさんからそんな発言が出てくるとは思わなかったからに他ならなない。

 

 こう言っては失礼だろうが、遠からずミズキさんと同類くらいには考えていたからである。

 

「底意地の悪いハッカーだとは思われたくないからな。少なくともお前が全開になるまでは手伝いくらいはするさ」

「……流石っす」

 

 感銘がそのまま口からするりと出てくる。

 僕自身が迷惑をかけたという実感が強いのもあるかもしれないが、その幼い見た目からは底知れぬ頼もしさを今の僕は感じている。是非ともどこかの酒飲みに聞かせてやりたい台詞だ。

 

 ……まぁ、ミズキさんはそういう欲望の開放に躊躇が無いのが味なんだけどさ。

 

「ああそれと、お前も右側気を付けておけよ。たきなやミズキはともかく、千束は多分気づいてるからな」

「……ウス」

 

 しかも見抜かれてるとか、ますます頭が上がらない。

 これでも必死に隠していたんだけどなぁ、なんて苦い思いを口の中でまごつかせていると、退室したクルミさんと入れ替わる様に『喫茶リコリコ』の特徴的な赤い和服が視界に入った。

 

「お待たせー。救急箱なんて久しぶりに使うから……ありゃ、クルミはどしたの?」

「僕の代わりにホールに出張ってくれるんだって」

「……流石っす」

「わかりみ」

「なぁにそれ」

 

 同じ言葉、おそらく同じ意味を伴ったその言葉に表情が柔らかくなったのを覚える。

 千束もそんな僕の反応に困った様に笑ってから、救急箱を開いて僕の手に開かれた傷の治療を開始した。

 

 千束の白い細い指先が丁寧に、感覚の無い右手をなぞっている。

 赤く染まったタオルを除けて、消毒して。

 そして『DA』特製の軟膏――つまりは伊之神幹也の論文より生み出された成果の一つを傷口に塗り付ける。

 何も即効性がどうとかなんとかで採用されるに至ったらしいが、詳細は傷ついた人間のみぞ知るのだとかなんとか。

 

「カナメくん」

 

 そうしてガーゼを張って手に包帯を巻いて治療完了と思いきや、静かに名前を呼ばれる。

 真面目くさったその様子に面食らいつつも、返答替わりに視線を向ければ――嘘を許さぬという真っ直ぐな瞳が僕を見据えていて。

 

「右半身、動かないんでしょ」

 

 知られたくないことを、迷わず追求してきた。

 

「……やっぱ気づいてた?」

「そりゃそうだよ。カナメくんドアとか慣れないもの壊すことはあっても、触り慣れた皿を割ることだけはしなかったし」

「なにその嫌な覚えられかた」

「過去の自分に嘆きなさーい――ま、こうして触ってて痛がらない時点で異常なんて見抜いてるんだけど」

「それもお見通しなのか……」

 

 そこまで観察されていたという事実に僕は内心呆れ顔である。つまりは午後から、学校から帰ってシフトに出てくるまでの隠蔽工作の全ては無駄だったということが証明されたからだ。

 

 だから色々とあっぴろげに話した。

 朝から体が可笑しかったこと。

 入院していた頃の方がむしろ体調が良かったこと。

 

 実は――午前中の授業のほとんどは意識が朦朧としていたこと。

 

 おそらくは病み上がり特有の症状だろう、ということを千束に説明する。

 

「……それって……」

 

 千束は戦闘中かと言わんばかりに真剣な目で僕の事を見つめだした。

 

 僕はそれに対してなんて答えようか、と思考を巡らせたその時。

 

 

 

 

「――――体の大部分が麻痺したままみたいだね? 竜胆くん」

 

 

 

 

 居間の入り口にはある意味で僕がこの体になった原因となる男――吉松シンジが立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




今回はここまで。

あと一回幕間やって、アニメ三話に突入。

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