「あっれ~……どこ行ったっけなー……カナメくんそっちあった?」
「こっちもないなー……もう一時間近く経つけど本当に見つからないとなると、片っ端から箱の中身を確認するしかなくなってくるぞ」
「えぇー、一年前のものなのにこんなに見つかんないってある? 誰かが整理しちゃったとか?」
「まぁ、此処で豆の選別しようとして拳で砕いていた頭のおかしいヤツもいたし、見るに見かねてそういうことも起こり得るかもな」
「ものスゴイ自白してる自覚ある……?」
「ある」
――店長のありがたき号令からしばらく。
背中に張り付いていた千束の全く以てけしからん感触から解放されたことを嬉しいのか嘆かわしいのかよくわからん感情でごった煮になっていた僕は現在、千束と共に地下倉庫に居る。
既に梅雨の終わりを宣言されて久しい。紫陽花も花びらを散らしこの国特有のじめっとした空気にぎらつく太陽の灼熱を感じる季節は文字通り目前である。
つまりは何が始まるか?
喫茶リコリコ、夏への模様替えである。
季節ごとのイベントを楽しく大事に過ごすのが千束流だ。当然、食器も店内の飾りつけなどは抜かりなく、その拘りは見事という他ない。
特に日本における四季とは特別だ。花鳥風月を愛でるという言葉がある様に、季節という大きな時間の流れにわびさびを見出す価値観が、千年という歳月を経てこの国の人間には培われてきている。
つまりは上手く拘れば、和風というコンセプトを持つこの喫茶店においては営利的にも満足度的にも大きな意味を持つと言えるのだ。
しかしながら、今はその準備が早速頓挫の兆しを見せていたのだった。
「あの時は此処が射撃場に繋がっているなんて思いもしなかったな」
「まだ一年だけしかたってないけどねー」
「もう一年も経つのかー……」
なんて感慨に耽ってみる。いやはや、時が経つのは早いものである。立場も状況も違い過ぎて、たとえ未来予知されたとしても今の状況を信じ切れたかと言われれば判断に困るところだ。
実際、僕の学校での一件が無ければ一年前の僕では知る由もないだろう。千束たちも上手く隠したものだと今では感心さえ覚えるほどだ。まず僕ならどこかでボロを出すかもしれない。学校への誤魔化しも『DA』の情報操作あってのことだろうし。
とはいえ、これに気づけというのも無理な話だ。
射撃場と併設するこの場所は、本来の用途と一緒に射撃場のカモフラージュも兼ねているとか何とか。
表向きとはいえ、曲がりなりにも喫茶リコリコは飲食店なのだ。東京の狭く限られた敷地で食品やらなにやら、季節ものの小道具やらを保管しやりくりしようとすればこうした工夫を施すのも納得がいくだろう。まずもって誰もそんな場所に射撃場があるという発想には至らない。こういったところでお金を使うのは何とも店長らしい。
少なくとも千束に同じことをさせたら『喫茶店の地下にある隠し部屋』という胸アツ要素の存在のみでビリヤードやらダーツやらソファーやらを持ち込まれて娯楽部屋と成り果てるのは確かである。
「……って、僕が此処に居てホール回るかな? 上でまたミズキさんがひぃひぃ言ってるんじゃ」
「いや、別に今日は暇だし? 問題ないよ……それに」
「それに?」
「――今日はカナメくんから目を離さないって決めてるし」
「……そっか」
……不意打ち気味に放たれたその言葉に、きっと赤く充血してるであろう耳と顔を隠すみたく備品を探すフリをする。
一瞬だけ見えた柔らかい笑みに、本当に綺麗だと場違いながら思った。
何やら生暖かい視線を隣から感じるので、少なくとも僕がほんの少しだけ千束を見たことはバレている。僕が考えていることはバレていないと思いたい。
だがまぁ、やはり嬉しいものは嬉しい。
その何気ない一言に、いつもどれだけ救われるかわからない。
なにせ僕が自身を奮い立たせる時に思い返すのはいつも、こうした何気ない日常で零れ出た彼女の言葉がきっかけなのだから。
そして、だからこそ。
今の千束に感じている『違和感』を、僕は無視してはならない気がするのだ。
「――よしっ、そうとなれば総がかりといこう! 手始めに上の棚から順番に片っ端から調べる! ついてこいカナメくん!」
「あー……張り切るのは良いけど、頼むから整理し直しなんて事態は勘弁してくれよ……え、届く?」
ほとぼりも冷めやらぬうちに千束のそんな嬉しそうな声を聞いて振り返るが、わりと無理のある高さに置いてあるその箱の位置に訝しむように僕は唸った。
いや、千束ならこんなの大丈夫だとは思うが、先程感じた『違和感』のこともある。
よし行ってこい、なんてことはとてもじゃないがすぐには言えなかった。
「むふふ、ファースト舐めんなよ~? 本部でもっと高いところまで吹っ飛ばされたし」
「その件に関してはホントにノータッチで頼む……それにファーストでも身長の壁は突破できないだろ」
「わかんないよー? もう少し立てば一八〇センチのないすばでーになってるかも知れぬ」
「それは成長じゃなくて変異だ」
というか身長というよりは物理的な高さが今必要なわけでして。
それに僕としては今の千束が緩やかな成長曲線で色々と育ってくれた姿になってくれた方が嬉しい。今の彼女も大変素敵だが、現実的なラインを辿った成長も大変グッドである。
――――と。
そんな能天気なことを考えていた時だった。
「大丈夫大丈夫。脚立使えばこんくら――、ぃ」
「……おい、千束?」
突然軽口が途絶えたことに感じていた違和感がより大きくなった。
知らずと声が硬くなる。呑気な頭の中は瞬く間に冷却されて、意識せずとも起こりうる『次』に備えて身体が強ばる。
千束の表情は固い。脚立を持った腕が突然ぴきんと針で突かれた様に一瞬だけ震える。声至ってはまるで、突然の突風に吹かれた火みたいに尻ずぼみになっているみたいだった。
彼女はそんな自分を自覚し、僕の変化を感じ取ったのか、それらを覆い隠すように一瞬で笑顔を作り上げた。
不思議だ。
作りものだというのに、その笑みに込められた優しさは本物であると断言できる。
「――ううん、大丈夫。だって、私が見るって決めたんだから」
「……」
間違いない。
やっぱり、様子がおかしい。
今、見間違いじゃなければ――千束、ふらついてなかったか。
それだけじゃない。
千束が言葉に詰まってから……否、今日店で会ってからだ。
どうして僕は、千束の存在にあんなギリギリまで気づけなかった?
だって、千束だぞ。リコリスとして活動中ならともかくとして、オフモードの彼女の存在を僕があれだけ接近されて気づけないのは可笑しい。
ましてやあの一件以降、よりその反応の鋭さを増しているこの身体でだ。
気配を消していた? まずもって在り得ない。理由がない。いや、しょうもない事にその能力の高さを活用する様を大分見てきたことはあるが、今回に限って言えばそれは在り得ないと断言できる。
ならばどういうことか。
そこで一つの可能性に考えが至った。
「ん、しょっと」
脚立を組み立てる様子を、後ろから言葉なく見据える。振る舞いこそいつも通りだ。完璧とすら言える。だが拾い上げた違和感をきっかけに、その考えに対する確証が見れば見るほど解かれ、確信に近い疑念として積み上がっていく。
もしかすると。
今の千束は相当、弱っているのではないだろうか。
それを示す様に、あれだけしっかりしていた千束の足取りが、どことなく覚束ない。
芯を感じさせないというか、千束もファーストリコリスとしての規格を超えた身体能力を持っている筈なのに、今ではその強さを一切感じさせないほど隙だらけだ。
だから、考える。千束がそこまでしてそれらを隠している理由を。ミズキさんやクルミは気づけていなかった。彼女らは非戦闘員だ、仕方ない。店長なら違和感程度は拾い上げているかもしれないが、言及がないのを見るに……多分だけど僕ほどそれに勘付いているわけじゃない。
――――そしてそんな風に思考を巡らせた、その直後だ。
箱を手に取った千束が乗る脚立が、乱れる重心に振り回され傾いた。
「うわっ――」
「――千束っ!」
瞬間、衝撃。
箱を抱えたままの千束を地面と接触前に、その衝撃を殺しきるように抱え込む。
後ろへ倒れる様に落下した彼女の背中と膝の順に、腕を差し込んだ。
伊達に戦闘経験を積んじゃいない。
ましてや脚立からの落下程度の衝撃、『魔風』を行使するまでもない。
だが、いつもなら受け身くらい取れそうな千束はそれをする余裕もなかったのか――驚くほど普通に僕に受け止められた。
落下の慣性も、衝撃の受け流しも出来ていない。
あんなにも強く隙を感じさせなかった彼女が、今は見る影もない。
身体が普段通りに使えていない、動かない証拠だった。
「び、びっくりした……えっ、カナメくん大丈夫? 私、今思いっきりカナメくんの上に落下したけど……?
「いや、問題ない。それより、千束は大丈夫?」
「あ、うん。大丈夫。えっと、箱の中身は……」
「抜かりないぞ」
千束を抱え込むとほぼ同時、不要になった片手で棚の上から危うく床へ落下しそうになっていたところを受け止めた箱を見せつけるように置く。中身が万が一皿だったりして彼女に切り傷を作ったら大変だ。
って、箱の中身なんて今はどうでも良くて。
「……」
「…………、えっと……カナメ、くん? その、近くて、……私――」
「動かないで」
「ひゃっ、さ、触ってる。触ってるって」
じっと、千束を見据えて――彼女の頬に手を添える。
ヘンな声に反応する余裕は今の僕にはない。千束を背中から支えていた腕をもっと僕の方に寄せて、吐いた息を肌で感じれるくらい近づけて彼女を見ることだって、いつもの僕だったら絶対できない。
……何やら左手以外でも異様に柔らかいものを触ってる感覚が右手にあるが、それも今は気にしない。下手をすれば一大事になりかねないからだ。
今やっているのは触診の真似事。
医療の知識がない事はないのだ。『伊之神幹也』が残した論文を対価として提供するにあたって、内容の取捨選択は必須だ。提供した技術や情報が万が一『DA』の誰かによって悪用されようものなら目も当てられない。
必要なものとそうじゃないもの。あらゆる要素の切り捨て、取り上げ、選別が可能であるということはその内容を理解していなければならないのだ。
そこに僕の『触覚』があれば、それはただの触診に留まらない。
「い、いーよーカナメくん、これくらい……い、息があたって――」
「大丈夫、任せて」
「うぅ……違くってさぁ……」
視線を逸らして僕の腕から抜け出そうとする千束を動けない様にがっちりと抱え込む。
今は『解析中』なのだ。物体ならともかく、生物へ行うソレはただでさえ不慣れなのに下手に動かれては今の僕では精度を著しく落としてしまう。
今まで戦闘において役に立ってきた僕だけの特性。千束の『眼』の様な何か。
ナイフを握る時も、敵の銃を握る時も、僕にはそれが人間に使われたものであれば共感し、自身に技量として還元することが出来る。
本部での戦いで――あの短剣を握った時の様に。
今回行っているのはその応用。かなりの時間、
診ているのは内臓。
千束の異常は外傷によるものではない。血の匂いはしないし、そんなわかり易いものがあったら店長やミズキさんが見逃さない。
……そして案の定、である。
「――今すぐ布団用意して、寝かす」
「え、でもお店は、お仕事どうするの」
「……今の自分の顔をよく見てみろ、ばか」
見下ろした千束の顔は――病的なまでに白かった。
それからというもの、色々大変だった。
まず、血相変えてたであろう僕が抱える千束を見た今回シフトの面子。
そこからは、流石は『喫茶リコリコ』を代表する大人組とも言うべきか、実に見事な連携を見せた。
ミズキさんとクルミさんの女性組が千束の着替えと布団のセッティングを担当し、その間に店長と僕で店を回したり熱を出した時に必要なゼリー飲料と言ったそのほか諸々を買い出しに行ったりなどして、どうにか現状維持を務めたのである。少なくとも、これ以上の悪化はないと思いたいとは希望的観測だろうか。
そして現在。
店長と千束の命――何より僕からの強い要望により、僕が寝込んだ千束の看病に勤しんでいる。
「――三十八度七分……ほとんど三十九度みたいなものじゃないかこれ」
「へ、へへっ、なんか久々だなぁー、こういうの」
「笑いごとじゃないだろ……何かあったらどうするんだ」
体温を測ったらご覧の通り。
いやいやと言う千束にゼリーと混ぜてどうにか飲ませた熱冷ましと鎮痛剤がよく効いているのか、死に顔同然だったさっきより顔色は全然良いが、体温は異常に高いのに汗もかいていない。
予断を許さない、とまでは行かないだろうが、かといって目を離せるような状況でもない。あとは千束の身体次第なのが何とももどかしい。
加えて――。
「んー……んん?」
――さっきから
だが見えない。
僕と千束が居るこの場所はリコリコの中でもクルミさんが根城にしている押し入れの更に向こうにある居住スペースの畳部屋だ。
窓はあるにはあるが、隣の物件がある影響で日当たりが良いとは言えない。逆を言えばこの部屋に限って言うとその窓くらいしか経路が無かったりするのである。
だから、人の気配があればまず気づく。
気配を感じないのに、視線だけは拾えている。
そんな奇妙な感覚に違和感を抱くなというのは流石に無理な話だった。
「……カナメくん? どしたの?」
「いやー……なんか、感じない? 幽霊じゃないけどこう、なんか視線みたいなの」
「……どうだろ……? わかんない」
「……まぁ、そりゃそうだろうな、うん」
病人なんだから当然と言えば当然の反応だった。普段の千束なら僕も風邪ひいたんじゃないかなんて煽りが返ってくるとことだが、今の素直な反応を見るにそんな風に茶化す余裕も元気もないのだろう。何より今の千束の体調で普段通り気配を拾うことは出来ない。
だが、これだけは確信を持って言える――やっぱり、見られている。
「(……あ、消えた)」
そしてそんな風に感じたかと思えば、こうしてそれらは感じ取れなくなる。先程からこれの繰り返し。加えて、
僕も本調子に戻れていないのか、逆に拾わなくても良いものまで拾ってしまう様になってしまったのか、どちらかなど僕には判別がつかない。もしかしたら両方やもしれぬのだ。
というか、そこに害意というか敵意があれば僕でなくても店長が気づくだろう。
何より、今の千束を一人に出来ない。
……『触診』の結果は、正直なところ口にするのは憚れるというか、口にしたくない。鎮痛剤と熱冷ましなんて千束の現状を鑑みれば気休めにすらなるかどうかもわからないくらいなのだ。
敢えて一言で言うなら――どうして普通に生活出来ているんだろう、この子という感想が出てくるくらいには酷かった。
「……」
「……」
重くも軽くもない沈黙が僕と千束の間で流れる。
重くもないので気まずさはない。軽くもないと感じているのはきっと、僕が一方的にどこか躊躇いを抱いているが故の感覚なんだろう。
言うなれば、どっちかが口を開くのを待っている状態。なんとも不思議である。あの病室で散々後ろ向きな発言をした所為なのかはわからないが、少なくともあの状況ほど切羽詰まったものを感じていないことは紛れもない事実である。
どんなことだって聞けば答えるし、答えないかもしれない。あてにするにはあまりにも脆弱で曖昧なモノ。
だというのなら話は早い。
目の前には病人な女の子。それを看ている健康な男子。この均衡で口を開くべきなのはどちらかなど言うまでもない。
だから手短に、核心に迫った話をすることにした。
「――千束。怪我、治りきってないだろ」
「……」
「千束」
「へ、へへ、やっぱカナメくん凄いや。なんか、お医者さんみたい。カナメくんが居てくれる病院だったら、いくらでも行くのになぁ。楠木さんに言って来てよ」
「茶化さない」
やっぱり、そういうことらしい。
つまりはなんだ、この子は僕に気を遣って。
こうして僕がつけた傷によってこんなにも苦しそうにしているのか。
なんだよ、それ。
「隠しごと、しないんだろ」
「……うん、そうだったね。私から言ったんだった……でも、カナメくんがリコリコに来てくれるか、不安だったし。すごく、怖がってたから」
「――――」
それは、そうだろうとしか言えない。
今、僕が許されているのは千束の情量酌量と、それを受け入れる店長達の類まれなる器の大きさがあってこそだ。
僕だって、そんな皆を知っていたから、此処にまた来れた。
本当に大事で、一つだって失いたくない日常に戻ることが出来たのだ。
「私って、基本『待たせる』側じゃん? だから……いざ、待つってなった時、どんな風にしてれば良いかわからなくて……きちゃった」
「……それは僕も同じだよ」
僕が仮に逆の立場だったら、どうしていたかわからない。
ソイツを殴るのか、怒るのか――店長の様に許せるのか。
わからない。
わからないから、今はそんな思考にいったん蓋をした。
「けどね、カナメくんはちゃんと帰ってきた」
「……うん」
「ミズキにカナメくんが世話焼いて、クルミがそんな二人にツッコんで、先生がそれをカウンターで見てる――それがなんか、良かったって思っちゃったから、安心しちゃった」
「……たきなは、居ないけどな」
「外周り中だもんねー」
穏やかに笑う千束。
それに対して……努めて、僕は自分の胸の内がバレない様に表情を凍てつかせた。この穏やかな空気を壊さない様に、そのまま、そのままといっそ臆病なくらい慎重になる。
たきなほどでは無いとは言え、僕の表情の硬さには未だ定評があるのだ。上手くはないかもしれないが、下手とも言われない自信がある。
――なんて、そんな心境を茶化す自分を嘲笑った。
彼女をこんなにしたのは紛れもない自分なのに、どの口がそんなことを言うのか。
ただそこに居たから傷つけられただけの女の子に、それでも生きて欲しいと言ってくれた女の子の言葉を投げかけられた自分を、そんな風に茶化している。
だというのに、それでも千束は楽しそうに、本当に安心ように暖かに笑っているのだ。
そんな顔をされたら、そんな後ろ向きな考えを捨てるには十分過ぎるだろう。
いや、捨てるのではない。
抱えたまま、前を向いて歩くしかないのだ。
「……ねぇ、寒い」
「……布団、足すか? それとももう一枚服を取ってくる?」
「ううん――手、握って」
「……うん」
布団の脇からちょこんと出る白い指先。彼女の体温は異常なまでに高いというのに、それは異様なまでに白く寒々しい。
布ずれの音と共に寂しげに差し出されたそれを、まず指から握る。
冷たい指先を、関節の一つ一つを辿って、全体を包み込んでいく。
たった指一本、僅か一センチにすら満たないそれらの感触に、いつもの陽光が如き強さは感じない。
手から鼓動が聞こえる。静かに流れる熱を、その小さな身体から感じ取る。
機械の心臓だから、もしかしたら脈というものが存在しないのかもしれない。ならばそれはきっと僕のもの。
交換した鼓動は一方通行。僕が都合よく感じ取っているだけの眉唾物。けどきっと、それを彼女も感じてくれていると信じたいだけの、幼い子ども染みた願望だ。
だがそれでも、今はこの目の前にいる女の子が酷く愛おしい。
「もっと」
そう言われたので、もっと握る指を増やす。
一本。二本。三本。四本。
隙間なく、抱え込んだ温もりが逃げないように。最初は浅かったソレを深く深く、離したくないという意思を以て強く握り込む。
視線を送れば、相変わらずその瞳は赤く、熱に浮かされている。
上気した肌は赤く熱を抱き、とろんとした視線は上昇した体温による苦しみを僅かに感じさせつつもぼんやりと僕に向けられ、見る対象を溶かす様に僕を見つめていた。
高熱なのだ。意識だけじゃない、彼女自慢の視力だってその本領を発揮することはないだろう。
だから、空いた手で千束の頬に触れた。
先程の様な触診ではない。
明確な、僕がそうしたいという望みを以て、赤らんだその白い肌に手を這わせる。
「――――」
愛おしいその女の子の顔を梳いて――彼女も同じ様に、その手を重ねた。
「――良かった、寝てくれて」
そろーり、そろーりと忍び足で音も無く襖を閉じると、ふーっとこの数時間で濃縮された緊張と疲れが肺を伝って外へ吐き出した。
戸の向こうからは、静かなら穏やかな寝息が聞こえてくる。
一先ず、今のところは問題ないだろう。気休めとは言ったが飲ませた解熱剤も僕の家に置いてあったものをかっぱらってリコリコに忍ばせていたものである。効果が出ているのなら僥倖であった。
本当は眠った後も一緒に居てやりたいところだが……たきなが今日はシフトではない以上、一応は動ける人員としてホールに僕は居るべきだろう。
こう見えて風邪を患った時の異様な苦しさと寂しさには一家言持っているのだ。
体調が悪く誰もいない時、独りであることを自覚すると特に理由も無いのにめちゃくちゃ心細くなるアレである。特にリコリコに通うようになってからは体調を崩してなくてもそう感じることがあるくらいだ。
千束が僕と同じタイプだとは限らないが、もし起きた気配がすればすぐさま駆けつけてみせよう。
「……と言っても、今日本当に暇だったみたいだし、僕の出る幕なんてなさそうだけど」
窓から覗く外を見れば既に太陽は沈んでおり、陽光の名残である夕焼けが下りた夜の帳を僅かに色づけているだけだった。
営業終了まではまだまだ時間があるが、この具合だといつもより早く店を閉じる形だろう。今日みたいな日にこそ次のシーズンの準備に当てるべきではあったが、千束の体調には代えられない。
であるのなら、午後に手伝えなかったぶん仕込みに力を入れねば。
それに、店長と相談したいこともあるし。そう息を巻いてホールへ顔を出した。
「「「……」」」
――――が。
そんな僕の意気込みは、何やら疑問に満ちたリコリコ大人組の視線をいの一番に浴びて、停止を余儀なくされた。
「……あの……? なにか?」
音の無い集中砲火染みた三人の目線に耐え切れず、僕は困惑を隠さずそう告げた。
予想通りホールに客足はなく、店内にはリコリコメンバーによって収集された店の雰囲気を壊さない程度に趣味趣向を反映させた音楽だけが流れている。
この時間帯にも客はいないことはないのだが、そうじゃない場合は大概ミズキさんや店長による談笑だったり、クルミさんがあの押し入れの中で作業をしていたりするのだが、今日はどうにも毛色が違うらしい。
「あー……いや別に。ただ……」
「ただ?」
「まーまーまー、クルミ。ここはアタシに任せなさい。というか任せろ」
僕の困惑をよそに、クルミさんが僕より更に戸惑った様子で頭を捻っているのでそのわけを聞こうとすれば、ずいっと身を乗り出して遮ったミズキさんによって阻まれた。
……嫌な予感がする。
いつもだったら僕がそう感じた辺りで止めに入る店長も、何やら粛々と珈琲豆を挽いている始末。お客が居ないこと、クルミさんやミズキさんの座席にはカップが置いてある点からして、誰の為に淹れているかは聞かずともわかる。
「ちょいちょいちょい、カナメ――いや、竜胆さん」
「ミズキさん? また変な男でも当たりました?」
「んなスナック感覚で男が釣れるなら結婚雑誌なんて買うかっ! ってそうじゃなくて、うん……どうぞ」
「……?」
「どうぞ」
謎のごり押しに恐怖を覚え始める。
それだけじゃない。カウンターでミズキさんと隣り合わせに座っていたクルミさんが一つ席を空けて真ん中へあからさまに空席を作っており、そこへ淡々と無駄に洗練された仕草で珈琲を配膳する店長の姿。
完全かつ意図的な袋小路の形成にツッコむ気すらわかない。その理由を頑なに話そうとしないのが妙に恐ろしい。
有無を言わさないソレに対抗する術がない僕は、言葉もなくカウンター席に腰を下ろすしかなかった。
「で、自覚はあるのかコイツ」
「んー、あるようでない、無いようである。敢えて口にしてないってカンジ? 魚の小骨もこいつだったら引っ掛かったままでも問題ないですー、みたいな? スカしてんなー」
「アレでか……どうしてだミカ」
「お互い意識してるのは間違いないだろうな。あまりこういったことに首を突っ込みたくはないんだが……アレを見れば流石に、な」
「って言うかもしそうなってたとしたらもっと千束は浮かれてるでしょ。こいつも一応カテゴリー的にはクソボケだし、やっぱそういうかもよー?」
「うーん……」
「むぅ……」
……僕をこうして座らせたのだから会話くらい参加させて欲しいものだが、そうはいかない理由があった。
ぐりぐりと僕のほっぺに指を突き立てるクルミさんと、げしげしと僕の脛を蹴り続けるミズキさん、極めつけに珈琲を前に腕を組んでそびえ立つ店長の姿。寺の門に飾っても違和感はないだろう。
ここまでしておいて口を開くなとはどういう了見だろうか。残念ながらこの場で拒否権と発言権は悲しい程に効力を発揮しない。
発揮しないので――何となしに、玄関へ視線だけ寄越した。
さっきの『視線』の正体が気になる。
この三人か一瞬考えたが、店長はともかく他二名の視線はもっとわかりやすい。
敵意は感じない。
殺意でもない。
ただ『視られている』という漠然とした感覚だけがあるというのは、思い当たる理由がないだけに気持ちが悪い。
だから外に出て確認したかったのだが……なんだかそんな空気でもない。
「ま、全てはコイツに聞けばわかるでしょ。おい、カナメ――」
そんな風に思考を巡らせると、何やら話が纏まったのか、先発としてミズキさんが買って出たようだった。
何を聞かれるんだろうか、というか仕事は良いのかアンタらとかそういった文句の諸々を苦く呑み込んで、取り敢えず受けの姿勢でミズキさんの口から出る言葉を珈琲を傾けながら待った。
――横にいるのが『そっち』の事で言えば不戦勝記録を持つミズキさんであるということを失念して。
「ぶっちゃけて聞くわ――千束とヤった?」
「ばーーっっっッッッッ!!??」
瞬間、気絶。んで覚醒。
吐血もかくやと言わんばかりに、申し訳程度に口へ含んでいた香りも豊かなあっつあつの珈琲が綺麗に噴水を演出した。汚い。
「なななな、なにを言ってやがるんですかかかかか……ッッっ!」
「直球すぎだバカ」
「こんぐらいドストレートにやっちゃた方が良いのよ。コイツの場合特にね」
「カナメ、大丈夫か?」
「な、なんとか……」
というか少しでもそう思ってるなら止めて欲しいものである、と目の前にガングロ珈琲豆おじさんを恨めしく感じた。感じただけだ。言葉にする度胸はない。感じるだけなら自由なのである。
店長から差し出された手ぬぐいで珈琲まみれになった顔をふき取りながら、ミズキさんに発言の意図を追求するべく、睨む様にしてミズキさんを見据えた。
あんま掘り下げたくないなぁって、あまりにも幸先悪いこの議論を億劫に感じながら。
「やってないです。断じて。潔白です。だから信じて下さい、店長。断じてこんな隣の男の証が装備されていればギリイケちゃうナマモノと同じようなことは決してしてないです」
「頭カチ割ってやろうかコイツ」
「必死過ぎて笑う」
「そもそもっ、なんでそんな話になるんですか! 考えてもみてください僕ですよ!? 学校では普通過ぎて埋もれてる僕がそんなプレイボーイよろしくパリピお兄さんみたいなことが出来るわけないでしょう!」
「スゴイ喋るなカナメ」
「まぁそれもそうだな。私もそんな下世話な話はしたくないんだが……ミズキがどうしても気になるって聞かないんだよ」
「おいノリノリだったろオッサン……!」
そしてそんな僕を見てか、早速足切りへと入った店長。何とも汚い絆であった。
だがそれを見て本当に、本当に深い溜息をついて沈み込む様に席へ腰を下ろした。
仕切り直しに口へ含んだ珈琲は相変わらず、美味である。
「ま、流石に冗談よ。アンタらいざとなったらお互いにお辞儀してから始めそうなくらい身持ち堅いところあるし」
「生々しい話はほんんっっとにやめてください……大体、大体ですよ。なんでそう思ったんですか。僕、そんないかがわしい感じ出してもいないでしょう」
「んー、いや、なんかやたら千束はアンタと一緒に居ようとするし? アンタもアンタでそれを拒まないところがね」
「それ自体はいつも通りでしょう」
「さらっと惚気やがって……いや、にしたって距離が近かったじゃないアンタら」
「……いうほど近かったでしょうか。何か根拠でもあるんですか?」
思い返しても、そんな節は見受けられない。
第一、此処に居る人は僕を除いていい年した大人……いや、クルミさんはその言動からたまに忘れそうになるが生物学上は十代だったか。だが知識量と経歴的に僕より年上扱いしたって問題ないだろう。
とにかく、いい年した大人がそんな小中学生の様に距離が近くなったからってそういう関係と勘ぐるのはいささか早計と言う他ない。
なんて口にすればだ。
目くばせをしたミズキさんと、何やらクルミさんが端末を弄り出すではないか。
その時点でもうなんか嫌な予感しかしなかった。
「お前も知っているとは思うがカナメ、リコリコはセキュリティ用にいくつも隠しカメラが設置してあるんだが」
「…………クルミさん?」
「実はその映像、この端末で覗ける」
「クルミさん!?」
「しかも全部」
「クルミさんんんっっ!?」
ほれみたことか。予想的中である。
ということはだ、数時間くらいの千束と僕のアレやこれやが全部筒抜けわけで。原因が原因なのでプライバシーがどうのだとは今の僕では口が裂けても言えない。
つまるところこの議論、僕がこうして席に座った時点で決まっていたのである。
そしてそれを証明するように――布団の中で手を握り合っている僕と千束が激写されていた。
「うわー、うわー、手繋いじゃってまぁー」
「ボクはこの手の話は詳しくないんだが……ミカ、世間一般の男女はこういうことをするのが普通なのか」
「いや、普通ならこれくらいまで言ってたらもう、ABCの良い所までは行ってるんじゃないか? 特に最近はな」
「なーる」
「やめてくれ……! 恥ずかしくて死ねるっ……!」
だんだんと額をカウンターに叩きつけるが、脳天からつま先まで到達した羞恥が吹き飛んだりとかそんな都合の良く行かない。
なお、両脇をミズキさんとクルミさん、前方を店長で固められてるので逃がす気がないのが見え見えである。鬼だろこの人たち。
なぜ、どうして身内同然の人達にそういったことを赤裸々に意図せず公開させらにゃならんのか。別に浮気とか女遊びをしてるわけでもないのに、どうしてかスクープ映像を撮られた芸能人みたいな心境を味合わせられている。新手の拷問だろこれ。
「……店長」
地の底から這い出てきたみたいな声が出た。
なんかもう、色々どうでも良くなった。
いや、良くないけど。今は取り敢えずそういうことでいい。もう知らん。なんだか思考がもの凄くテキトーになってる。理由は明白だ。
だから、仕方が無かったのだ。
僕がこうして、後先を考えずにこんなことを口にしたのは。
「――千束、お持ち帰りしても良いですか」
――――その後、割とマジな店長からの説教と誤解を解くのに数時間を有したのだった。
今回はここまで。
次で幕間終了予定。
感想、お気に入り登録、ありがとうございました!
それでは。