「いいか、カナメ。お前も年頃だからそういうことに興味があることは理解できる」
「……ハイ」
「だがな、何事も節操というものが大事だ。人間は追い詰められた時ほどマナーってものを忘れちゃいけない。たとえ婚期を気にしていようとも、高潔さというのはどこかで意識していなければならないんだ」
マナー。高潔。婚期。
そのワードを一つ一つ反芻して、ミズキさんの方向を見る。
そしたら中指を立てられた。許せない。
「あとな、あの状況でそういうことを言ってしまうのは大いに誤解を招いて、お前だけじゃなく千束も巻き込むことになってしまうんだ。お前が外に出た時変なトラブルに巻き込まれるのは私だって御免だ。いいな、だから――」
くどくど、ではなく淡々と。嫌味じみたものを感じないソレは逆に、至極正しいからこそのやり辛さを感じさせられていた。気分は指導とは名ばかりのお叱りを受ける生徒と先生の関係である。
そして僕と店長はそういうカンジでもないわけでして。
だから、少しくらいは場所を選んで欲しいと自分のことをいっそ清々しいくらい棚上げにして、そんな感想を抱いている。
生徒指導室なんてものがあるわけがないリコリコでは当然、僕に向けられた在り難き説教が約二名ほどのレスポンスに筒抜けなわけでして。
現に今でも、視界の隅でミズキさんとクルミさんが大吟醸とりんごジュースでそんな僕を肴にカンパイしてる。
ミズキさんに至っては叱られてる僕を見てゲラゲラ笑って大っっ変よろしゅうございます。どういう気分なんだあの二人。
「カナメ」
「ハイ」
仏道の修行か何かかコレ。正座させられてるし、そうかもしれない。だが悲しいことに相手は店長である。警策の代わりに非殺傷弾を突きつけられてもおかしくない。
釈迦の説法ならぬ店長の説教は正論すぎてぐうの音も出ないソレに最初から対抗する術持たない僕は、めそめそとそんな店長の説教にうなだれるしか出来ることがない。
何より、もはや僕の顔も知らなければ生きてるかすらも危うい父よりよっぽど身内めいた人から、そういう思春期的なあれやこれやを自身に向けて聞かされるのが本当にキツイ。
気をつけよう。父の怒り、破滅のもと。
そんな家訓と言うか格言じみた戒めを本気で胸に刻ませた店長の言葉であった。
――――それが数日前の話である。
僕が千束を家に連れて行くと言った、その真意。
先日の僕の発言による大いなる誤解もあり、そこら辺を正確にすり合わせるのに大変苦労したのだが、その甲斐もあってかどうにか説得に成功した。
で、僕が千束を家に連れてきた理由。
つまるところ――まだ未開示の父の研究成果によって千束の回復を図るためであった。
『結構慣れてきたんじゃないか、カナメ』
「いや、料理と似てるみたいで全然違うんだよ、クルミさん……特に加熱による水分飛ばしとかが似て非なるものというか」
『ふーん……あ、オイそこちょっと違うんじゃないか?』
「あ」
ざくざく、ごりごりと、まな板を通じてそんな音が響き渡る中、僕とクルミさんの電話越しの会話のみが時間の経過を感じ取らせた。
板で鎮座し刃を待ち受ける包丁と、すり鉢の中ですり潰されているのは食材と言われれば少し違った。
ソレは実際に食べられるかと言われれば疑問が湧いてくる、実だったり、茎だったり、葉だったり。
草食動物かな、と思わなくもないラインナップだが、これらはおおよそ現代の食卓はおろか、都市部においてはその存在すら一般に認知されているか怪しいのではないかと思われる面子である。
その正体は他でもない――薬の調合に使う植物のアレやコレやであった。
「山岸先生には感謝しないとな……僕じゃとてもじゃないがこんなに上手くマニュアル化出来そうにないし」
『データ化してバックアップとってきっちり封印処理したのはボクだけどな』
「その節は本当に感謝してるので今度正式にお礼させていただければと……」
『よしっ、言質取った。じゃあ今度アレ作ってくれ。ハンバーグ』
「ガッテン」
電話越しのクルミさんにそう返すと、得意げな息遣いが返事として聞こえてくる。
実際、こと電子方面においては戦闘のみならず日常的にも世話になりっぱなしなので、お礼の一つや二つしないと罰当たりと言うものだろう。
僕が返せる範囲での要求なのでこれまでの貸しを返す機会としては持ってこいだ。
『っていうかソレ、大丈夫なのか?』
「大丈夫って……一応、山岸先生にサンプル作って貰って、その工程は一度見てるし」
『違う。材料だ材料。今、マニュアルを確認してるが、高地でしか取れない植物とか入ってたぞ。お前、ソレどうやって入手したんだ』
「あ、その点は気にしなくていい。なんか、ウチの庭に自生してた」
『…………あの東京都とは思えない茂みの中に?』
「そう。不思議だよな」
『それだけで済ますお前もな……』
クルミさんが呆れたように言うが、そうであるもんなのだからそれ以上の疑問を浮かべたところで僕に明確な答えなど出せるわけがない。
ちなみに高所の高所、秘境とすら呼ばれる様な場所で採取できる植物の他に、
しかももとはと言えば父の所有物なのだ。『DA』が重宝するほどの知識をこれだけの期間供給できるとなれば、いよいよ僕でもその価値を理解しろというのも無理な話だ。学者連中の考えはてんでわからん。
「けどまぁ……言われてみれば?」
……冷静に考えなくても、僕の家の庭ってもしかしなくとも相当ヤバいのでは?
植物を管理するには、その植物に適応する環境を意図的に作ってやる必要がある。そうしなければ枯れて朽ちるまでだからだ。
だが、あの特に何か特別な世話をしているわけではないのに、枯れることも植物同士が自分たちと共喰いをしてどちらか一方を生き残るという結果になることもなかった。
まるで、そう生まれてきたかのように。
それは、戦場でこそ価値を見出された竜胆要人という己。
まさしく
「――っと、そんなことより調薬調薬」
本題からはぐれかけた思考をどうにか軌道修正して、調薬を進めていく。
茎や根を水洗いして皮を剥き、細かく刻んで、あるいは実を粉末上になるまですり潰したりする。
こうすることで刻んで干して薬効としての効果を壊さず濃縮したり、逆に粉末状にして混ぜないと効果がないものがあるのだから、調薬とはまた料理とは違った奥深さがあった。今やっているのは、葛根湯などの原料であるクズの根を使った調薬に近い。
とはいえいささか古臭いと感じるのもまた事実。
だがこれも仕方ないのだ。うちは薬局ではないし、最新の機材だって僕に用意できる筈もない。生産の基盤が整っていないので、必然的にこうして材料を入手して一から作ってようやく調薬に移ることが出来る。幸いだったのはいの一番に頓挫するであろう材料を調達できたことだろうが、それにしたってハードルは高い。
幸いだったのは、そんな些か古典的と言わざるを得ない機材でも薬の調合が出来たという点だろうか。
だからあとは、こうして論文をかみ砕いてマニュアル化して、間違いのないように作業を進めていくことになる。
知識を噛っているとはいえ、僕の本質は破壊者である。決して、再生者ではない。
その手の知識はあれども、経験やセンスといった点ではどうあっても本職のソレには劣ってしまうのが現実だ。
だからその手の専門家に頼る必要があったのだが……僕の狭い交友関係では、千束の『心臓』のメンテも取り扱ってる山岸先生くらいしか伝手が存在しない。
この山岸先生との交渉が、個人的に一番大変だったのだ。
「割と一方的な要求だったのに無償でちょっとした道具まで貸し出してくれたしね」
今使っているすり鉢なんかもそうだ。
市販のものと持ち合わせの道具で最初こそどうにかしようとした僕だったが、山岸先生がそんな僕を見てどうせならと調薬に必要な道具をいくつか融通して貰えたのだ。千束のことであれば妥協をしたくなかった僕としては非常にありがたい話だったので是非ともその提案に便乗させて貰った次第である。
これも千束の人徳の賜物なんだろう。こういう時、こういった形で協力を得られるかでその人の人徳が試されると聞くが、なんやかんやで皆がみんな彼女の身を案じてくれているという現状は他人事ながら我が事の様に嬉しく感じる。
……そうなると怪我の起き掛けで楠木さんしか居ない僕は、一体全体どれだけの業を背負っているのか。知りたいけど知りたくない。
おまけに、人の気も知らないで
下手をすればトラウマもののそれを容赦なく僕へ渡す手口は、恐らく楠木さんの手回しには違いないという確信があった。
『見事なくらい九十度の懇願だったけどな』
「そこまで見てたのか……このあいだのリコリコの僕と千束の覗きといい、覗き犯とストーカー大臣の称号をリコリコ大人組に譲渡してやっても良いんだぞ」
『あー、そう言えばお前ミカに千束を家に連れ込んでいること言ってなかったよなぁー。家に連れ込むだけでもあの反応だったのに、既に家に連れ込んでるの知ったらアイツはどんな反応をするんだろうなぁー』
「…………あ、お湯沸けた。クルミさん、次の項目に進めよう。クルミさん、はよはよ」
『逃げんな』
逃げではない。人類が生きるための、とまでは行かない理論武装による退避だからこれは立派な戦略的撤退である。
だがクルミさんはこうは言っているものの、ある程度僕の事情を話してあるのでその行動を咎めるだけに留まり、真に迫って止めたりはしていない。
というのも『DA』に定期的に提供される父の論文の内容は画期的ではあるが、僕にとってはある種の生命線であり同時に爆弾でもあるのだ。
今回取り扱っている内容自体は、まだ『DA』に未開示の情報。
だから千束の担当医でもある山岸先生には、千束を助けたいからという理由で協力と情報の開示はもう少し待って欲しいとお願い、というより懇願させて貰った。
今でも脳裏には僕に対する山岸先生の呆れ顔と、面倒なことに巻き込んだなという如何にもな視線が頭が痛くなるほど思い浮かぶ。
専門の人間によって清書されたレシピが記載されたメモに目を通しながらという些か不格好な状態ではあるものの、結果としてその苦労は功を成している。
「――よしっ、出来た」
『電話切るぞー』
「店長にもよろしく言っておいて。また夜にリコリコへ電話するから」
『おー。くれぐれも手は出すなよー』
「しないってば……!」
回線を引き千切るみたいにクルミさんとの通話を終え、並行して作っていたお粥の入った鍋の火を消す。
こんな忍者屋敷でもガスは通っているのだから不思議だ。もし請求に来る人間がこの家を訪問しようものなら、さぞ目を疑うことだろう。こんな都内に一見すると茂みにしか見えない割りとデカめな日本家屋がそびえ立っているのだから。
そんなことを考えながら、粥の入った土鍋をお盆に乗せ、そこへ更に調合した薬と水、口直しのハチミツも持っていって台所から僕の寝室へ向かう。
戸を開けば――そこには身体を布団に沈めさせている寝間着姿の千束の姿がいる。
その周囲には、漫画やら小説やら暇を持て余していたであろう証がごろごろしていた。
「千束ー? 起きてるか?」
「んぅー……ヒマ。動きたい。でも痛い」
「さいて」
そう布団に
そして手元に持った粥の気配に瞳を一瞬だけ輝かせた千束であったが、その隣で陣取る薬品の気配を感じ取ったか、一気に顔を曇らせた。
「調子はどう? この前よりは良くなったか? 薬飲んだら気分が悪いとか、そういうのがあったら言うんだぞ」
「ううん、だいぶ楽。お腹空いた……でも薬は苦いから嫌」
「駄目だって。ご飯食べた後に飲んでもらうぞ。口直しにハチミツも持ってきたから、ね?」
「う″~……」
そう言って本気で嫌そうな顔で今にも泣きそうなな彼女に僕は苦笑いが浮かべて、その白い頭を撫でた。
気持ちはわかる。だって本当に苦いもん、これ。良薬は苦しとは言うが、それにしたって苦いというか。薬の完成度で苦味が変化したりするわけでもないのがなんとも。
だが、お腹が空いているということは代謝と身体機能が徐々に正常な機能を取り戻しているということ。つまりは薬の機能は正常に作用しているということ。
このまま順調に行けば、おそらく千束は以前の様に動けるようになることだろう。
だが、それはまだいずれの話。まだまだ油断を出来る状況でもない。
元気にはなったが、それはこの前倒れてしまった時の話。ご飯と聞いて跳躍と言わんばかりにはしゃぎだすあの千束が、布団から出ずにご飯を待ち侘びいるのだ。
まだ、動く気になるほどの体力が戻っていない証拠だ。
というか、これはこれで千束の回復力も目を見張るものがあるだろう。
「だいぶ楽、か」
――――千束の怪我の全容は、ハッキリ言って『異常』としか言えない。
骨に異常があるわけじゃない。筋肉だって正常に動いている。
ただ僕が差した箇所を起点に――内蔵だけが、
それが僕の触診によって判明した千束の体内の現状だ。
その事実に、本当に冷え冷えとした。
『心臓』が傷ついたのではないかと、じわじわと彼女を殺しているという残酷なことになっていそうで。
だが今の所、その心配はいらない。わざわざあの戦いの後に千束が療養していた『DA』に彼女のCT結果まで取り寄せたのだから。
だが、異常だ。尋常ではない。
それで平気だって言えることも。
何よりそんな傷を生み出すことが出来る、自分自身も。
「う~……あ、カナメくんの匂いがする」
「やめてくれ、マジで」
そんな考えを頭に巡らせていると、布団に顔を埋めたと思ったら、そんなことを言い出す千束にすかさずツッコミを入れる。
前言撤回。どうにも僕を揶揄えるまで回復していると見て良いだろう。
看病しているのに何なんだろうか、この敗北感。なにやらすーはーと未だに何やら吸い込んでる千束に、未だ病人だというのに布団を引っ繰り返したくなる衝動に駆られる。
いやっ、出来ないんだけども、そんなことっ!
「だめだ、やっぱり今からでも布団交換しよう。このままだと僕が辛抱たまらんっ!」
「えー、私は病人なんだぞー。体調悪いんだぞー。いいじゃんカナメくんの布団使うくらい。この方がなんか安心するし」
「僕が微塵も安心できないんだよ……」
……やっぱり病人だからと甘やかしすぎただろうか。
こんな場面に限ってたきなが言っていた僕が千束を甘やかしすぎるという言葉が過ってしまうあたり、たきなの発言は的を射ているのだろう。
簡単に言えば、貸しているのだ。僕の布団を。
当然反対した。割と頻度多めに洗っているとは言え、脱いだ服の様なものである。
そんなものを使わせるわけには、と予備の布団を引っ張り出そうとしてきたのだが、これにどういうワケか猛烈に千束が反対した。
反対して、反対して、妥協して……結果、押し切られた。
そして現状である。男は無力だが、たかが布団と割り切ることにしたのだ。
割り切った、割り切ったのだが。
女の子が自分の布団に入っているという状況は、なんだかこう、妙な汗が湧いてくるというか形容しがたい感情が湧き上がっているというか。
結論を言うと、どうしてもいやらしい事を考えてしまう。
「抱き締められてるみたいで、すっごく落ち着く」
「やめろ。ホントやめろ。こんなんでも男子高校生だぞ。いざとなったらこう、……こう、それはもう、すっごいことになるんだぞ」
「……どんな風に?」
「そ、それは、そんなの、……その……」
「……」
「……」
…………オイオイオイオイ、なんだこの空気っ!
なんだその、千束の意味ありげな視線はっ! 顔を赤らめるなっ、こっちまで恥ずかしくなってくるだろうがっ!
どうするんだこれ。教えてくれクルミ様、ウォールナット様、電子の神様。まだ生きてるであろう神に祈るが、この場を打開する選択肢が舞い降りてくるなどそんな都合の良いが起きる筈もない。神はやっぱり死んでたことがここに実証された。
「…………この話はやめよう」
「…………そ、そうだね……また今度
……もう僕は拾わないからな。本当だぞ。
今の発言を拾ったら、今度こそ僕はやばいことになる。
だからそんな、不満そうな顔をしないで欲しい。切実に。自分だって顔真っ赤な癖に。
「じゃあ『アレ』、やって欲しい」
……。
…………。
………………………。
「……またやるの?」
「このやり取りも結構した気がする」
「僕が毎回聞いてるからな……」
……『アレ』か。うん、『アレ』だ。
まぁ、うん、それならまだ良いんだけど。良いんだけどさ。
別に嫌ってわけじゃない。寧ろこんな美女にそんなことが出来るなんてご褒美では? と僕の内なる男子高校生が五体投地しながら校歌斉唱しているくらいなのだが。
でも、恥ずかしいもんは恥ずかしい。
今のやり取りだって、何度やっても慣れないという、僕の心境も理解して欲しいという遠回しなメッセージだったわけだが。
それが通じてるのか通じてないのか、千束がそれをやめる兆候は見られない。というか彼女だったら気づいててもやらせる。そういう人間である。
そこで最後の抵抗と言わんばかりに、鍋の乗ったお盆を差し出してみる。
「はい」
「……つまんない」
「つまんないって……マジでやんないと駄目?」
「駄目」
だが彼女は頑なである。そんなにか、そんなにそういうにやりたいのか。
はてと、此処で冷静に立場を振り返ってみる。
彼女は怪我人兼病人。僕は健康な男子。前にもあった光景だ。
何より、目の前の子は僕が傷つけた人間で。
そんな子が必死に自分の望みを叶える為に生きている理由を知ってしまった以上、僕の羞恥がいかなるものだと言うのだろうか。
であれば、やることは決まっている。
「……はい、口開けて」
「やった」
そしてこれだ。
観念したみたいにそう言うと、千束が本当に嬉しそうに反応するもんだから、僕自身もこれで良いのかという自問自答をせずに済んでいる。
気遣いか。はたまた彼女生来の気質か。恐らく両方に違いない。
なんの隔たりもない素直は反応であると信じれるからこそ、僕も自分を疑わずに済んだ。
「は、はい……あーん」
「んふふふ、あー」
とはいえ戸惑いは残しつつ、スプーンを差し出した。ちなみにこの声出しは千束きっての要望である。断じてっ、僕の要望ではないことを留意して貰いたい。僕の要望ではないが心のどこかで嬉しさを感じてるのだからお互いに何の問題もないのである。
掬ったお粥が気の抜けた声と共に口に含められていく。味の方も上々のようで、千束が飽きて薬を飲むことのハードルが上がらない様に味変を追求し続けた甲斐があったというもの。
……。
…………。
……やっぱりこっ恥ずかしいな、これ。
後は千束の口に粥を運んでいくだけの作業の筈だ。というより、去年辺りでそれっぽいことはやっているから耐性は少なからずある筈である。
だというのに……こう、普段は気にならないところが妙に気になってくる。
もむもむと、可愛らしくもどこか艶めかしく感じてしまう千束の唇。
粥の熱が身体にいき渡り始めたのか、徐々に上気していく肌。
白い髪を掬って耳にかける仕草も、何やらヘンなフィルターがかかって何故か色っぽい。
オイオイ、ご飯食べてるだけだぞ。
なのにこんな、どうしてこんな。
「……カナメくん、まっか」
「……そんなことないぞ、うん」
なんて、顔を逸らしながら言うのだからその姿のなんと説得力の無いことか。
そしてはたと思い至る。
もしかしなくともこれ、千束が食べ終えるまで一番の至近距離で見つめにゃならんということなのか……?
それってどんな修行だ。煩悩に耐えるという意味でなら修行と言えるかもしれないが、これではただの生殺しである。切実に仕切り直しを要求したいが、そんな心の叫びが聞こえる筈もない。
「(耐えろ……耐えろ僕。店長よ、僕に力を……!)」
節度。節操。マナー。婚期。
ここに来て店長の言葉を思い出しながら、千束の看病を続けていくのだった。
――――そして、夜が更けた。
寝静まるには早すぎる。かといって外に出ることは夜に飛び出す時に感じる特有の特別感を覚える程度には暗くなった七月間近の夜は、その時期には不釣り合いなほど涼やかなものを感じさせた。
そんな外の光景を見計らって僕は自分の部屋、今は看病中の千束の根城と化している和室を目指す。
昼頃はそこそこ元気な姿を見せていたが、夕方もそうとは限らないのが体調を崩した時の人体の恐ろしいところだ。
ましてやこの時期だ。寒気すら感じていた体も今頃は薬のお陰で本来の感覚を取り戻していることだろう。
そして千束のことだ、寝ぼけて布団を無意識に剥がすくらいは普通にやる。それで寒い思いをして戻った体調がまた不調に戻ることもあるのだから、本当に人の身体は頑丈なんだか脆いのかわからない。いや、この場合は丈夫で繊細と言うべきだろうか。
だが――どうやらその心配もどうやら杞憂に終わるらしい。
「良かった……ちゃんと寝てるな、うん」
今夜の献立の下拵えを終えて部屋に戻って来れば、そこには静かな寝息と共に布団を膨らませる千束の姿がある。
表情も穏やかで、リコリコで看病した時の今にも死体になってしまいそうな顔色の気配はもう微塵も感じない。いたって健康的な白さと程よい赤みを持つ身体が蘇って来てる。
それなら、色々と、本っっ当に色々と苦労した甲斐があったものだ。
あの後、お粥も食べ終え、苦行の薬も無事に乗り越え、ハチミツだけじゃ足りないってんでリンゴも追加で切ってきてやって、まさかの『あーん』第二ラウンドが開催されたわけだったのだが、それもちゃんと乗り越えた。
リンゴは実際には消化が良くないとのことであまりお勧めされないらしいのが現在の家庭医学の見解だが、食欲があることは良いことだ。
ブラシーボ効果というヤツである。
物事、何でも思い込んだ方が都合よく作用することだってあるのだ。
「――――さて」
千束の元から去り、居間へ向かって作業の準備をする。
手元には布でくるまれた何か。それを知っている僕は、今までの楽観は捨てて、戦闘時の様な緊張が心身に迸る。
千束との距離は遠すぎず、近すぎず。普段食事をしたりしている此処は、その絶妙な距離感を見事に実現していた。
今の弱った状態から確実に護り抜くということも目的の一つには違いないが、こうでもしないと勝手に布団から出てきて僕を探し出しそうな気配があるからである。
自惚れと言えばそれまでだが、それならそれで良い。
だがその万が一は、僕にとっても望ましくない。
手元に握った、厳重なまでに巻かれたソレを、ゆっくりと解いていく。山岸先生を通じて引き渡されたソレらは、『あの時』の様な
僕が今からやること。そこにどう千束が関わるのか。
それは、今から始めることは僕自身――それなりに勇気がいることだからに他ならない。
千束が近くにいること。
それだけで勇気になるし、何より
もうあんなことは二度と起こさないと。そのために、怖いだのどうののとは言っていられないのだ。
「――――これを制御、か」
解けた布の中にあったのは――千束を傷つけた短剣だった。
山岸先生を通じて渡されたこの武器。そこであの病室での楠木さんとのやり取りが鮮明に結びつく。
お前は、戦わなければならない。
その言葉の意味。そしてよりにもよってコレが僕の手元に戻ってきたのか。その真意がわからないほど能天気ではいられない。
……試しに指で触れてみるが、あの時の様な引き寄せられる様な感覚はやはり感じない。
世に聞く妖刀の様なものだと感じていたが、今は憑き物が取れたみたいだ。
不思議と、握られるのを待っているかのように。
「……戯言だな」
そんな馬鹿げたことを口にする自分に、そんなわけないと一笑した。
楽観もここまで来れば筋金入りだろう。ここぞとばかりに都合の良い判断をするから、自分の器を履き違える。
それが今回の事件の何よりの原因だろうに。
「まずは様子見、だな」
だからこそコトは慎重に。
まずはこの武器の成り立ちを知らなければ。
普段、見知らぬ銃やら操縦ヘリやらを操作する要領だ。
即ち、この短剣と共感する。
それも深すぎず、かといって浅すぎず、成果を得る形で無ければならない。
「……なにか、『スイッチ』があれば良いんだけどな」
スイッチとは自分の身体機能に関することである。
その絶妙な塩梅を感覚で行うのは危険すぎる。なにか、なにかある筈だ。僕自身の意識を繋ぎ止め、この短剣に振り回されない様にする方法が。
共感、では駄目だ。まだその段階ではない。十分な理解を得ず、見識が浅いからあんなことが起こったのだ。その真髄を、その本領を把握してこそこの短剣は本来の意味で扱うことが出来る。
「敢えて言うなら――『
あるいは同期。
意思を持たない、物質に対する同調だ。何を言っているんだと思うだろうが、僕は至って正気である。
だって、すごくしっくりくる。今回は『同調』という段階でこの武器に対して理解を深めるとしよう。
自分が、機械であると暗示する。
そう念じれば、本当に不思議なくらい、身体が簡単に馴染んだ。
五感が遠くなる。景色から色が消えていく。自分の中にある『人間』としての部分が裏返って、こうなる前の『初期命令』に従って行動を入力していた。
そして出力の結果――――。
「――――同調、開始」
――――そんな言葉を、口にしていた。
今回はここまで。
コイツ幕間中にピンクなことしか考えてねぇなってなった直後にコレ。お話は進めておく予定。
感想、誤字報告、お気に入り登録ありがとうございます!