皇国最後の反攻:novelized 作:[このユーザーは存在しません]
大日本帝国、特に帝国軍上層部の暴走は15年近く前、1930年代からすでに始まっていた。
1931年に軍部は政府の反対を押し切って満州事変を強行し、広大な荒野に清王朝最後の皇帝を立てて満州国を建国した。
さらに1933年には国際連盟とワシントン海軍軍縮条約を脱退、また1936年には軍部大臣現役武官制が復活したことにより政府は軍部の意見に反対することができなくなり、文民による軍の制御力、所謂シビリアンコントロールが失われ日本は事実上の軍部による独裁政治の下に置かれた。
これにより歯止めが利かなくなった大日本帝国は1937年に発生した盧溝橋事件と第二次上海事変を境に中華民国との全面戦争に突入、日中戦争が開始された。
初期は快進撃を遂げたものの、兵站システムの問題から膠着状態になり、駐華ドイツ大使オスカー・トラウトマンを通じた工作によって日中間の和平交渉が進むも最終的には決裂してしまった。
この時点での日中戦争の最大の難点は援蒋ルートと呼ばれる独英仏による対中国支援ルートであった。このルートの多くは中立国を経由したものであり封鎖は困難、軍部はこの問題に頭を抱えたが突然好機は訪れた。
日本の反対側で行われていた第二次世界大戦の中でフランスがドイツに降伏したのである。
これによって日本は援蒋ルートの一つである仏印ルートを遮断できると確信し、ドイツによって建国された親独政権のヴィシーフランスにインドシナ北部の割譲を要求。多少の抵抗はあったものの、日本は北部仏印進駐を果たした。
そして同時期に日独伊三国同盟を締結したが、これらの行動は日米関係を非常に悪化させた。
というのも1921年に締結された四ヶ国条約が日米英仏の太平洋地域諸島に存在する領有権の尊重と現状維持を図っていたように、アメリカは自国の太平洋における優勢を保つため、環太平洋地域の領土変更は断固として避けたかったのである。
アメリカは日本の進駐に対して非常に強く反発し、物品の輸出を広範囲に渡って許可制もしくは禁止とすることで対日制裁を各段に強化していった。
次第に範囲を広め効力を強めていく禁輸政策によって日中戦争の継続が不可能になるのは明らかであり、1941年から日本はアメリカとの本格的な交渉を開始した。
日中戦争の打開を図りたい日本と、太平洋情勢の維持を狙うアメリカの間で日米交渉が始まったのである。
しかし、7月末に日本が南部インドシナまで進駐したことによりアメリカは日本が自国の要望を無視したと判断し日本に対しての石油輸出を全面禁止とした。
これによって日本は次第に追い詰められていき、最終的にハルノートと呼ばれるアメリカの提案にて日本の要望が全面的に拒否されたことから軍部は開戦を決意した。
1941年12月8日に大日本帝国海軍はハワイの真珠湾に攻撃を敢行、ついに太平洋戦争が開戦した。
日本は同日にマレーシアを攻撃し瞬く間に進撃、数ヶ月後には「東洋のジブラルタル」と称されたイギリス軍の大要塞シンガポールを攻略した。
同時期に発生したマレー沖海戦では同国の主力艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を航空機のみで撃沈した上、フィリピンの占領も完了し、誰が見ても初戦における日本の勝利は明らかだった。
その後も連勝を続け1942年5月には東南アジアの大部分を占領したがここで転機が訪れてしまう。
同年6月5日にミッドウェー海戦で大日本帝国海軍が大敗したのだ。これにより主戦力が半減し海軍は一気に弱体化、さらにはソロモン海戦での敗北とガダルカナル島の撤退によって大日本帝国の劣勢は明らかなものとなった。
1943年4月にはブーゲンビル上空にて視察と激励を行う予定だった山本五十六長官が登場していた飛行機が撃墜される「海軍甲事件」が発生。
1944年に入るとその戦局はさらに悪化、2月にはトラック島の航空基地が壊滅し、4月に始まったインパール作戦は大失敗に終わった。
そして1944年6月、連合軍がノルマンディーに上陸した。
このように枢軸国の劣勢は確実なものであり、今後は沖縄や台湾が次々に陥落しアメリカは本土上陸を試みるだろう。
防衛などしていても運命は変わらない、もし一筋の希望が見えるのであればそれを掴むべきだ。
我が皇国は最後の反攻を行う。そして敵軍を撃破しこの戦争に勝利するのだ。
皇国の興廃この一戦にあり 各員一層奮励努力せよ
——1944年6月21日 霊夢新陸軍参謀総長の手記より