かんかんかん、と音を立ててアスファルトを蹄鉄で蹴る。
履いている編み上げブーツの底に蹄鉄がしっかりとくっついている事を確認する。その間も頭の上でぴくぴくと動く耳が、聞きたくもない声を拾い続ける。
『おうおうおう、今夜は揃ったなヒトカス共ウマカス共! ベットタイム終了まで残り10分! さあ、誰に賭けるかはもう決めたか? 手元のバ券が紙屑になる覚悟は決まったか? 泣いても笑っても一発勝負だ! 財布の中を軽くして行け!』
「プラグヘッドの奴今夜は調子が良さそうだな」
蹄鉄の確認を終えた所で正面から声がかかる。視線を持ち上げれば頭にバンダナを巻いた青年が缶ビールを片手に調子良さげに近づいてくる。ウマ娘としての敏感な鼻が、アルコールの匂いを察知して思わず顔を顰める。
「あの糞は何時だって調子が良いだろう。後酒飲んでる時に寄るなカス」
「おぉ、ヒデェヒデェ。今回のレースを紹介してやったのは俺なんだぜ? 少しぐらいは良いだろう?」
「単純にくせぇし調子崩れるんだよボケ、こっちは鼻が良いんだよ」
「おぉ、そりゃあ悪い事をしたな」
そう言いながら青年は缶の中身を一気に飲み干した。こいつ、たぶん未成年な気がするんだよなあ―――まあ、態々それを口にして聞き出す必要もない。こいつの名前も、素性も、大して興味はない。重要なのはこの夜、俺はこのレースで走り、勝ち、そして賞金を頂いて帰るという事だけだ。
座っていたスツールから立ち上がり、軽くアスファルトを蹴って最後の確認を終え、背筋を伸ばす。夜の峠、レースの開始地点付近では何台もの車が光を提供し、空にはレースを中継する為のドローンが飛んでいる。
ようやるわ、としか言葉が出てこない。
『3番人気はラスティドリーム、大逃げをかますスタイルは誰が見ても面白れぇ! この夜の峠を果たして逃げ切れるのか気になるよなぁ!』
ダメージジーンズのポケットに手を突っ込んで髪紐を取り出す。口に咥え、両手を使って軽くぼさっとした長いこの赤毛を後ろへと流し、首の後ろでローポニーに纏めて縛り上げる。レースに向けて身なりを整える度に自分の精神が落ち着いて行き、高揚感を残して集中力が増すのを感じる。
「ははぁん、調子は良さそうだな」
「走って、勝つ。それだけだろ」
「まさしく、まさしく王者の言葉だぜブラザー……あ、いや、ウマ娘だしシスターか?」
「どっちでもいいだろヒトカス」
「おぉ、それもそうだなウマカス」
ゆらり、ゆらりと酔う様にバンダナが去って行く。その姿を追う事もなく白線へと向かって歩き出す。周囲には楽しそうに酒を飲み、半裸でボンネットの上に座り込む馬鹿や、野次を飛ばしてくるボケカスが見える。だがそう言う連中の情報も集中力が高まるにつれてシャットアウトされて行く。
『2番人気はレイニーデイ! 先行の安定した走りは見ごたえがない? おぉっと、そりゃあこいつの事を良く解ってないから言えてる事なんだろうなあ。当然! このレースにラフプレーの禁止ルールなんてねえ! 今日も血を見せてくれるかレイニーデイ!』
「カスしかいねぇ」
走る俺も同類か。
ゲートなんて上等なものは当然、存在しない。だから今夜揃った8人のウマ娘は全員道路に描かれた白線に並ぶ。横へと視線を向ければ欲に目をギラつかせている。きっと、俺も同じように欲望に目を滾らせているのだろう。
『そして1番人気は当然のクリムゾンフィアー!』
車の上でテレビの被り物をした男がマイクを片手に俺の名前を呼んだ。それに応えるように中指をオーディエンスに突き返す。
『賭けレース出場回数8回にして入着率100%! その半数も1着という驚異のレコードホルダー! 今日も咲かせてくれるか彼岸花! 要注目だ!』
「相変わらず煽り文句が頭悪いよな、アイツ」
もうちょいセンスを磨いてくれと呟きつつ体をほぐす。当然、こんな野良の賭けレースにゲートなんてものはない。ファンファーレもなければまともなオーディエンスも存在しない。
だがここに、勝利の栄光と金だけはある。
本能を満たすのはそれだけで十分だ。地方のトレセンにすら入る事の出来ないウマ娘がその欲望を満たすには、野良レースで走るしかない―――結果、こういう所に行きつく。
走り出す為の姿勢を整え集中力を最適な状態へと持ち込む。雑念が脳内から消え去り、どう走れば良いのかというプランが脳内で完結する。ただスタートを静かに待つように踏み込む足の用意をし、
『―――スタート!』
ぱぁん、という音が夜空に響きスタートラインを超えた。出遅れる事無く一瞬で前へと加速して飛び出して風を切る。僅かな明かりにのみ照らされた夜の峠、車道の上を蹄鉄で踏みしめるように全力疾走する。
「邪魔だ、退けっ!」
早速、横から顔面目掛けて肘が飛んでくる。行儀が悪いなあ、という言葉を口にすることなく速度を落とす事で後ろに流れ肘を回避する。その間に誰だったか―――まあ、モブを記憶する必要もないか、と、名前を忘れた相手が前へと進んで行く姿を見送る。
先頭に立つのはスタートと同時に飛び出し大逃げをかまそうとする姿、夜の闇に溶けそうな黒毛のウマ娘。2番手は先ほど肘を叩き込もうとしてきた栗毛のウマ娘。先頭から2番手まで凡そ4バ身、距離としてはそこそこあると言えるだろう。
本格化前という事もありレース自体は短く、短距離で見る様な1000M級しかない。だが俺達本格化を迎える前のウマ娘にとってこれはそこそこスタミナを必要とする距離だ―――とはいえ、限界を攻める程の距離でもない。
その為、レースそのものはハイペースに進んでいる。ちらりと視線を後ろへと流せば後方にある程度団子になるようにウマ娘の姿が続いている。油断するか隙を見せれば抜きにかかってくるだろう。
「勝負はコーナーで」
小さく息を消費しすぎないように口にする。頭の中で解っていても口に出す事で強く意識する事が出来る。
夜の峠をウマ娘たちが疾走して行く―――蹄鉄が強くアスファルトを蹴りつけ、音が反響する。芝やダートとは違った環境故、走る負担は強く足首に返される。それも走るたびに力の方向性に気を使わなければ勢いのまま滑って転びかねない。
その上で緩やかな下り坂がゴールまで、続いている。加速しすぎればそのまま事故が起こりやすいコースだ、そういう風に選ばれている。この腐った観客共からすれば事故を起こす事さえもショーの一環なのだから。寧ろ起こる事を祈っている。それに賭けている奴もいる。
そういう意味じゃ大逃げはターフ以上の破滅逃げと言えるだろう。減速し辛く、事故りやすい走り方でもある。あの先頭を走っている奴もそれを理解した上でそういう走りを選んでいるのだ、到底正気ではないだろう。
「チッ……邪魔だなお前」
正面、走る栗毛に風よけとして使っている事がバレた。スリップストリームを使ってスタミナを温存していたが、それを嫌がるように後ろへと蹴るように走る。少し距離を開けて回避し、再び距離を詰めて、スリップストリームに利用させて貰う。
舌打ちは聞こえてくるが、蹴りは来ない。体力の無駄だと悟ったのだろう。
その代わりに栗毛が加速し始める。コーナーの前に加速して平気か? 一瞬だけ疑問が脳を満たすが、それを排除する。少なくとも他人の心配をする余裕なんてものは俺にはない。走るなら、自分の事だけを考えろ。
横を走っていた林の姿は消え、満月の浮かぶ夜空を魅せる崖が広がる。
ガードレールの向こう側へと滑り落ちればそのまま谷底まで真っ逆さま。肝が冷える考えだというのに正面、100M先では傾斜がきつくなったカーブが待ち構えている。事前にバンダナから知らされていたこのコース、最大最悪の難所だ。
先頭を行く二人がコーナーに備えて速度を殺し始めた。当然だろう、トップスピードに入ったままここを曲がろうとすれば蹄鉄とアスファルトの相性の悪さも相まって体が飛ぶだろう、なんならそのまま来世までフライアウェイ出来てしまう。当然命あってのレースだ、ここは速度を殺して曲がり切るのが賢い。
誰だって事故を起こすのが怖い。
足が折れれば最悪、そのまま引退だ。骨折したウマ娘の末路を見るのは決して珍しいものではない。その悲惨さは語らずとも誰もが理解する。本能的に走る事を求める者が走れなくなるのだ、生きている時間全てが地獄とも言えるだろう。
―――が、ここが相手を抜くチャンスでもある。
速度を落とす2人とは逆に、此方は加速する。
「は?」
呆ける様な声がし、次の瞬間には怒声が響いた。
「イカレてんのかお前!?」
相手の言葉には答えない。狂気が感情を支配する。ガードレールギリギリ―――いや、レースなら言葉を変えよう、内ラチギリギリを陣取るように疾走する。
笑い声を響かせながらカーブに合わせて膝を限界まで折り曲げ、体を斜めに倒し、カーブに合わせて体を滑らせる―――そう、ドリフトだ。ウマ娘の体でドリフトをする。車が峠のコーナー、そのギリギリを狙う様に俺もまた掠るか掠らないかのギリギリを攻める。
目の前に迫るガードレール、アスファルトを滑る事で火花を散らしながら削れる蹄鉄、吐く息には熱が籠って風が体を削るようにさえ感じる。
だが体は倒れない。転ばないギリギリを攻めるように下り坂のコーナーを曲がり切る。速度を落とさない対価としてギリギリを攻めた所で僅かに内側が膨らむ。だが速度は死んではいない。僅かに外側へと流された体を一瞬で立たせ、コーナーを抜けて一気に直線に入る。
「恐怖はねぇのかテメェ!?」
「一度死ねば大抵のもんは怖くなくなるよ」
そこから転生できるかは、まあ、運次第だが。来世ガチャに挑戦するなら頑張ってくれ。俺はもう二度としたくはない。
言葉を吐き、息を整え、足を一切止める事無く飛び出した。コーナーを抜けてからゴールまでは直線しかない。逆に言えばここからはスパートのタイミングだ。当然のようにスパートに合わせて走り方を切り替える……だが逃げ切れるか?
コーナーで一気に抜いて先頭には立った、コース自体は短距離クラスの短さにない、ここでスタミナを全て切らすのはいかに本格化前とはいえ難しいだろう。大逃げだろうが逃げだろうが先行だろうが足を残しているだろう。
なら追いつかれるのかもしれない、この直線は小細工無しの純粋なスペック勝負に入る。それで絶対に勝てると思う程に自分の事を信じてはいない。
だからこそ最後のスパート、切り札を切るならここだ。
踏み込むのと同時にレースを通してのルーティーンが完遂される。手順を踏んだ事により意識がより研ぎ澄まされ、強固に意識が具現化する。
即ち、踏んだ大地に彼岸花が咲く。
彼岸花―――即ち死のイメージ。踏んだ大地に咲き誇る彼岸花が想起させるのは死とその後の記憶。踏んだ大地から現れる彼岸花は一瞬で車道を覆いつくし、ゴールまでの道を埋め尽くす。薄暗い夜闇に火の粉が舞う。踏み出す度に散る彼岸花の花弁が宙に浮かび上がる度に燃え尽きては散る。
―――領域。
空間を飲み込むオカルトとしか表現できないイメージが展開される。誰もが出来る技能ではなく、上澄みにしか使用の出来ない奥義にも似た異能が展開される。
「は、―――ふぅ―――」
呼吸を入れ替え最後の300メートルを疾走する。限界まで加速した体がトップスピードに乗り、後続を引き離すように一気に距離を空ける。その距離を態々カウントする必要もない。トップスピードに乗った時点で追いつかれない事を確信した。
見据えるのは車道に描かれた白線のゴールただ一つ。ゴール付近ではスタートのように車のライトが周囲を照らし、ゴールの瞬間を求めて集うヒトカス共の姿がある。既に俺が先頭に立ってゴールしそうな事に嘆いてバ券を投げ捨ててる奴もいる。
だがそんな光景に欠片も心を動かされる事もなく一直線に駆け抜け、ゴール。
少しずつ速度を落としながらゴールから数十メートルを抜けた所で足を止めて拳を握る。
『そして今! ゴール! 1着は1番人気クリムゾンフィアー! 2着はラスティドリーム! 3着はレイニーデイ! 有象無象との才能の差を見せしめる様なクリムゾンフィアーの走り! このウマカスに勝てる奴はいるのか!? 次のレースが楽しみだ!』
「煽るな煽るな」
撮影をしているドローンへと向けて中指を突き立てると歓声が巻き起こる。URAが運営するトゥインクルシリーズやドリームシリーズの様なグッズ販売が存在しない代わりに、この野良レースでは当然のように金銭が賭けられている。
そこに妙な親近感と懐かしさを覚えてしまうのは前世を覚えているからか。或いは、アプリで見る様な優しい世界ばかりではないという事実に安心感を覚えるからか。
どちらにしろ、このレースは俺の勝利だ。賞金もまた、俺のもんだ。軽くクールダウンするように熱気を吐き出していると、主催者の一人がこっちに寄って来た。
「おめでとうクリムゾンフィアー、これが今回の賞金の30万だ」
「1……10……15……25……うい、確かに30万な」
受け取った封筒の中身をちゃんとチェックし、そこから3万抜いて主催者に渡す。
「これで適当にふるまってくれ」
「お、解ってるな。まあ、次回開催の連絡は入れておいてやるよ」
けけけ、と不気味な笑い声を零しながら主催者が去って行く。こういう事をしなければハブられる、というのは中々めんどくさい話だ。とはいえ、3万で満足してくれるなら安い話だろう。
「おい、フィア! どうしてくれるんだ俺の5万がぱぁだぞ!」
「俺に賭けないのが悪い」
「くそぉ、今日はラスティが調子良さそうだと思ったんだけどなあ……」
ここら辺、前世の競馬おじさん達とまるで何も変わらないなあ、と思いながらガードレールに腰を下ろす。レースでの勝利と賞金を獲得した事で少なくない高揚感と自尊心が満たされる。手元の封筒の中身を見て、しめしめと笑みを浮かべているとおい、と声をかけられる。
「次は負けないからな、覚えておけよ」
「忘れてなかったら」
「チッ」
舌打ちした去って行くウマ娘と入れ替わるようにバンダナがやって来た。片手に握っているペットボトルをこっちに投げ渡してくるのを受け取り、賞金の入った封筒を投げ渡す。ボトルのキャップを指で弾いて取り、頭から冷水を浴びて火照った体を覚ます。
「おう、お疲れさんフィア。今日も強い走りだったな」
「慢心する訳じゃないがここらで負ける気はしないな」
「言うじゃねぇか。いや、まあ……確かに領域を出せる奴が野良のレースで走ってるなんて滅多に聞かないしな。そういう連中は大体トレセンに入るから当然っちゃあ当然だが」
「それもそうだな」
空になったペットボトルを握りつぶして後ろに投げ捨てる。トレセン学園という言葉を舌の上で転がすと、バンダナがお、と声を零した。
「なんだ、トレセン学園に行く気でもあるのか?」
「馬鹿いえ、俺の家にそんな金があるかよ。知ってるか? 中央のトレセン学園に通ってるのはお嬢様とかそんなんばかりだぞ? 宝石商の娘とか、空軍の将校の娘とか、そういう連中ばかりだよ。貧乏人はあそこに入学する事すら出来ねぇわ」
「じゃあ地方はどうなんだよ」
「地方トレセンに通う為に引っ越ししろって話? 嫌だよめんどくせぇ」
手をひらひらと振る。
まあ、トレセン学園に興味ないのか? と言われたら当然ながら興味はある。
日本国内で求められる最高の環境があそこにある。ウマ娘として走る事に興味があり、本気になった事があるのであれば一度はあそこに通う事を夢見るだろう―――が、まあ、現実は非常に残酷だ。学費は馬鹿高いし、入学の審査も結構厳しい。一般家庭からの入学を目指そうとすると相当難しい話だ。
「ま、スカウトでもされれば話は別だろうけど、スカウトマンなんて見た事もないしな。こんな場末の野良レースを見に来ることもないだろう。まあ? スカウトされたのなら? 行かないでもないけど? ほら、俺速いし強いし凄いし」
「興味津々じゃねぇかこの野郎」
それはそう。とはいえ。
「現実は厳しい。スカウトマンが都合よく目の前に現れる事はないし、それで中央に通う事なんてない。一生をこの底辺のレースで満足して終わるんだよ」
「おい! 人が主催してるレースを底辺って言うな」
主催者からの文句を悪い悪いと手を振って応える。だけど、まあ、人生そんなもんだろう。そう都合よく事が運ぶ方がレアだ。来世は赤毛のウマ娘という幸運を得たのだ、もう既に一生分の運は使い切っている気もする。だからこれ以上を望む事は出来ない。
「ま、俺は程々に満足して走るわ」
「ほーん、程々にねぇ……」
―――俺はこの時、そう言って怪しげな笑みを浮かべる腐れバンダナ野郎の事をもっと良く注意しておくべきだった。
この腐れバンダナヒトカスとの出会いは数年前にまで遡る。
お小遣いと全力で走れる場所を求めた俺は野良レースの存在を見出し、このバンダナとはその時の出会いだ。人格の信用はしていないが、レースを見つけて俺を走らせてくれるという一点においては、これまで一度も裏切ったことがなかった。
だからきっと、俺は油断していたのだろう。信用していないと口にしても、心のどこかでガードが外れていたのだろう。
故に、この時このバンダナ野郎が浮かべていた笑みの意味を、俺は一切理解していなかった。
―――春。
出会いと別れの季節。
桜が咲き、その花びらが風に乗って景色を彩る。
校門の横では爆笑しながら腹を抱えるバンダナヒトカス野郎の姿があり、俺はトレセン学園の指定の制服を着用していた。人を指さして笑っているこのカスをどうやってぶち殺してやろうかと考えながらも。
この春、俺は入学の為に中央トレセン学園の前に立っていた。
クリムゾンフィアー
意味は深紅の恐怖。女のする名前じゃねぇだろ三女神は馬鹿か? と言って三女神の像に向かって中指を突き立てた実績がある。悪い事は大体三女神のせいにしてる。
バンダナ
その日の気分でバンダナの色を変えてくるおしゃれさん。フィアの賞金で酒を飲んで三女神の像に吐いた実績がある。その日の気分でバンダナの色を変えてくる。お気に入りはゲーミング発光バンダナ。