燃え尽きる覚悟。
走りに対する信仰心。
勝利への狂気。
肌に感じる熱気と熱狂はダートの大地に立つとより一層感じられた。ゲートインする僅かな時間、体を解すように軽く両手足を動かす。西村は今日という日に向けて完璧な調整を施してくれた。Secretariatと戦うために限界まで体を仕上げてくれた。
俺という肉体のスペックが出せる限界、それを追求してくれた。
それでも最高点という意味ではドバイWCが最高だっただろう。あのレベルはもう望めない、奇跡の一瞬だった。それでも、その点を目指して限界まで仕上がった。つまり、後は走る俺次第という所に来ている。
「―――さて」
熱気を追い出すように息を吐いて、肺の中に新しい酸素を送り込む。既に意識はレース用に切り替わっている。1人、また1人とゲートの中へ収まって行く姿を見て静かに祈るように目を閉じた。
「Ms.Crimson、ゲートへ」
「あいよ」
短く答えてゲートの中に納まる。後ろでゲートの閉じる気配がし、いよいよレースが始まる。溜息を吐き、天井を見上げ、それから視線を戻す。絶望的なレースになるだろう。あまりにも勝機の見えないレースだ。それでも絶対に勝たなくてはならない。単純な話、時代の終わった連中が何時までもこの場にこびりついているのがあまりにも醜くて、宜しくないからだ。
俺達の時代に、伝説はいらないんだ。
ゲートの中に入り、いよいよレースが始まる。巡り巡った俺のウマとしての人生もだいぶ妙な事になって来た気がする。
それでも、こういう道筋を辿った事に後悔はない。そう、後悔はないんだ。
「そうだろ、西村。走るなら後悔なく燃え尽きなきゃなッッ!!」
吠えると同時にゲートが開き、飛び出す―――あの頃はマイナスの意味で燃え尽きようとしていた。事実だ、俺は死に場所を求めて走っていたようにも思える。だが今は違う。違うと信じたい。この胸を焦がす様な熱狂と衝動を本能のままに解き放って走りたい。
だから、常に全力を。自分が出せる全てを吐き出して勝利を。
「―――ッッッ!!!」
誰も声を上げずに叫んでいる。音のない悲鳴がダートに響き渡っている。ゲートから飛び出すのと同時にフルゲート、一人を除いた全てのウマ娘が破滅逃げに入る。当然だ、最強の末脚を前に取れる対策なんてそれしかない。互いへの妨害はなし、無駄な動きも無し、出来る事は全力で前へと向かって飛び出す事、それだけ。
「は―――は―――は」
それでもその脚音はダートへと響いて行く。領域、展開をしようとしてもイメージが練れない。その代わりに背後から襲い掛かってくる恐怖のイメージが迫ってくる。恐怖? 否、畏怖だ。根源に刻まれた原初のウマ娘、その気配を領域という形を通して感じ取っている。
その圧倒的すぎるイメージが、他のイメージを踏みつぶしている。
ゾーン? 入りたければ入れば良い―――ただし、出来るものなら。
「始めよう、盛大な生前葬をな」
空が翳る。太陽が月に隠れる。僅かな光の環のみが空に上がり闇が世界を支配する。圧倒的なまでのイメージが精神を、脳を抑圧してウマ娘のウマ娘たる所以を殺しにかかる。その中で唯一信じられるのは生まれ持った肉体、そして鍛え上げた才覚。
それのみが許される決戦場へとレース場が変貌した。
序盤から既にスパートに入る様な速度、そして緊張感に威圧感。本来であればデバフを後方の赤毛へと向かって放つべきなのだろう。だがこの場に至ってそれを行えるウマ娘は皆無だった。当然だ、それを思考するだけの余裕がない。あるのは逃げなくてはならないという本能だけだ。
その本能だけが今、俺達を前へと踏み出させている。油断すれば追いつかれる、油断しなくても追いつかれる。相手はそういう奴だ、常識で考えるな、いや思考するな……走れ!
既にバ身差は10バ身を超えて更に開いて行く。ハナを奪って狂ったように走って息を入れている―――枯渇しそうなスタミナを走る傍から回復しているが、それでも追いつかれる気がする。いや、錯覚ではないだろう。このままでは絶対に負ける。本気になったSecretariatとのレースは初めてだからこれまでは解らなかったが、完全なオーバースペックだ。
このままでは勝ち筋がない。
「はぁ―――はぁ―――」
Invasorが横を抜け前に出る。加速された? 違う、こっちが減速した。前を譲って3番手につく。前のウマ娘を利用してスリップストリームを起こしながら数秒、思考する余裕を考える。勝ち筋……勝ち筋はなんだ、何かを見落としている? いや、恐らくは違う。見落としではなく考えてすらいなかっただけだ。
―――勝ち筋は、ある。
一瞬だけ後方を見やって、赤い姿が迫ってくるのを見た。既に加速し始めている。最後方のウマ娘が抜かれかかっている。時間はもうないのかもしれない。だけどこのまま全力で逃げ切ろうとしても負けるのが見えてきている。
だったら、やるだけだ。
「お」
心を、本能を抑圧する日食に対抗する。練り上げろ、集中力を。緊張感を、プレッシャーを喰らえ。脳を限界まで酷使しろ。走るのをやめるな。集中力を高めながらペースを崩すな。走りながらもどうコースをとるかしっかりと意識しろ。
「ぉ」
歯がカチ、カチ、カチ、と鳴って噛みつく。本能を理性で捻じ伏せる。そして湧き上がる衝動で本能を燃え上がらせる。やれるだろ、できるだろ、原初のウマ娘が、最強の起源にして原典がなんだ。こっちは彼岸を超えて来たんだぞ、舐めるな。
己の中でイメージを構築する。塗りつぶされるイメージを己の中の強固な信念で抵抗する。それは或いは、勝利に対する信仰心だとも言えるかもしれない。
イメージするのは彼岸の果て、歩んできた道。全てが混ざり合う死の道の果てにあった場所。日食の空に亀裂を生む。頭がずきずきと痛み、鼻から何かが垂れるのを感じ取る。酷使する脳味噌が熱を上げて止めろと叫んでいる気がする。
それでも、肉体なんてものは容易く凌駕できると、サイレンススズカが証明してくれたから……その後を追う。
「舐、め―――」
んな、と最後まで言葉は口に出ない。その代わりに花が咲き乱れ、日食を割る。競バ場を飲み込んでいた古い理を無理矢理出力の差で覆して粉砕する。そう、日食は崩れた。最強の領域はこの瞬間初めて敗れ去った。
威圧感から解放されたウマ娘が、驚愕せずに、そう来ると信じていたように己の最高を果たす為の領域に入る。
そうだ、彼女達は信じていた。赤毛に対抗できるのは赤毛のみ。もう一人の赤毛であれば最悪の領域を踏破してくれると、そこに絶対に勝機がある筈だと。絶対なんてものは、レースには存在しない。
だからこそ勝つ、勝つつもりで走っている。一瞬でゾーンに入ったウマ娘達がこのまま逃げ切る為に加速に入る。誰よりも早く、なによりも早く、追いつかれる前にゴールへと目指してスパートする。
だが、その全てを嘲笑う様に、5人が一瞬で抜かれた。
「良いぞ、それでこそだ」
加速する。加速している。加速し続けている。
上がってきている。影が、赤い影が後方から蹂躙するように上がってきている。
「そうでなければ走る意味がない」
無論―――彼女も信じていた。自分の後継者が決して劣化コピーではない事を。受け取るだけ受け取ってその程度の駄バではない事を。受け取り、飲み込み、そして自分の形へと昇華させる事の出来る唯一無二である事を最初からずっと信じていた。
だから、ここが本番だ。
ここ、Eclipseが破れてからこそ、今年のBCクラシックはスタートになる。
日食による虚飾は払われた。
過去の栄華は既に散って久しい。
引退という名の墓場からそれは這い上がって来た。
忘れられているのであれば衝撃と共に思い出させよう。
もはや他の領域なんて必要はない、己の唯一無二以外は飾りでしかない。
赤。
赤い影が上がってくる。
その領域はシンプル、この一戦の為だけに数多くのライバルの手を煩わせ調整されたもの。ただ、全力で走る事を許すというだけの領域。それだけの領域。シンプルであり、最も無意味な領域だと言えるだろう。
特殊性は皆無。
だが、それで十分すぎた。
Secretariat
私か、或いは時代か