「―――しかし読みづらいレースになったなぁ」
そうぼやくバンダナの横で、フィアーの母が首を傾げた。フィアーの母は今の世には珍しくそこまでレースには興味のないヒトだった。レースを見るのも、競バ場に足を運ぶのも娘が走っているから、という理由が大きい。だから彼女は明確にレースの環境に対して疎い人間だった。
「そうなんですか? 世間では娘が一番強いって言ってますけど」
「あー、そっすねぇ……」
フィア母の言葉にどう答えるか、バンダナは軽く頭を掻いた。その間にもアナウンスが進み、ゲートの中にウマ娘が進んで行く。1人、また1人とゲートに収まり始まる出走に向けて最後の準備を進める。言葉に詰まるバンダナの代わりに、フィアーの昔のレース相手が言葉を継いだ。
「あー、フィアママさん。レースには強い弱いってのはまあ、あるんすよ。だけど明確な最強という存在は絶対にないんです」
「そうなの?」
「そっすそっす。俺らはあの赤毛のファンやってるけど、そこら辺は絶対に間違えちゃいけないんすよ。環境に対して最適最優ってのはあるんですけど、絶対だけはあり得ないんすわ。だからあの赤カスが一番強いのは確かなんすけど、勝てるかどうかはまた別の話なんすよ」
そーっすね、とバンダナが言葉を続ける。
「じゃんけん、ってあるじゃないっすか」
「えぇ、そうね」
「皆グーを出すからパーが勝ちやすいって感じの話……或いは別の奴で似たような話、聞いた事ないっすか?」
学生時代では良くある小賢しい話だ。じゃんけんで勝ちたいけど、必ず勝てる訳じゃない。だけど大体皆グーを出してくるからパーを出せば勝てる。
「つまり大体グーを出してくる奴がいるんだから、パーを多めに出してる奴が強いのは当然なんすよ。レースにおける環境ってのはそういう部分が大きいんすよ。加速環境、スタミナ環境、速度環境、コーナリング環境……そんな風に時代や状況でどれが重要視されるのかってのは変わってくる訳っしてね」
「成程、ウチの娘はパーを握ってるって訳ね?」
その言葉にバンダナが頷いた。
「今は明確に
「ごっどぱわー。スピリチュアルねぇ……」
「あの赤毛がスピリチュアル筆頭なんだよなぁ……」
不思議な世界ねぇ、レースって。そう呟く赤毛の母は頬を押さえて首を傾げる。最後に走ったのは新年に集まった時だろうが、それでも彼ら、彼女達は良くフィアーを理解していた。一番長く走っていたのが彼女達なのだから。
今、世界全体を通した領域、技術を重視した空気はクリムゾンフィアーというウマ娘が世界3大タイトルをそれで勝利したから生まれたものであり、領域の強さでレースに勝利しているからだ。だからそれがレースにおいて重要視される環境の中で、その能力が最も秀でているクリムゾンフィアーが一番強いと言われるのは当然の話だ。
「逆にフィジカル重視の環境であれば最強はディープインパクトっすね。あれは限界まで鍛えられた上に天性のものを備えてるんすよね。どれだけ鍛えても超えられない生まれの差ってのは絶対にあるんです。それを倒す為に別の武器を取ったのが赤カスって話で」
自分が勝てる環境を作る。それがフィアーがこれまでのレースで行ってきた事だと言えるだろう。アメリカ3冠を走る時にフィアーの対抗馬たちはデバフスキルを用意する事でフィアーを削り切る選択肢を選んだ。
これはつまり、フィアーと同じステージで戦うという発想だ。彼女達が負けるのは必然だとも言える。スキルの習得、ゾーンコントロール、このステージにおいて最強なのは間違いなくクリムゾンフィアーだろう、彼女の転生したという特異性は既存のウマ娘で乗り越える事が出来ない例外だ。
「でも、今日はシンボリルドルフがいる」
ひらひらとバンダナがバ券を振る。
「彼女は天才なんすよ。環境を作って乗るのが赤カス。環境をぶち壊して行く破壊力がディープインパクト。ならシンボリルドルフの強さは、というとやっぱそのコントロール能力なんすよね」
全てのウマ娘がゲートに揃った。
『さあ、誰もがこの地を踏んでくれることを待っていた! 1番人気は当然この娘、クリムゾンフィアー、3大タイトル制覇のウマ娘です』
『世界を魅了した至高のランナーが今日は我々をどう魅せてくれるのか注目ですよ』
『さあ、全てのウマ娘がゲートイン完了……まもなく出走です』
熱狂に満ちる中山競バ場に静寂が訪れる。特別席に座るSeabirdとSecretariatの2人は言葉もなくレースが始まるのを待っている。応援に来ているスピカのウマ娘達は勝手な事を言いながらも楽しむ様にターフを眺め、リギルは勝利を疑わず出走する2人を見た。
そして南坂トレーナーは微笑んだ。
「貴女になら出来ますよ」
直後、ゲートが開いた―――真っ先に飛び出し先頭に立ったのはハーツクライ。先行策ではない。その姿はハナに立ったウマ娘を置いて更に前へと飛び出した。中山2500m、良バ場のこの環境で走り切るのに必要なスタミナは京都3200mと比べればそう多くはない。
それでも、大逃げとは走り切るのに多くのスタミナを要求する走り―――それをハーツクライは勝つ為に迷う事無く実行した。
「ほう」
息の下で言葉にならない音をルドルフが漏らした。
「は」
楽しそうに相手を認識してフィアーが息を吐く。
「……」
無言、見据えるべき相手のみを見据えてディープインパクトが走る。
その間にもハナを奪ったハーツクライが更に前に出る。大逃げ、明らかにスタミナを残さない破滅逃げスタイルのそれはツインターボに良く似ている走りだ。それを見て秘策があると判断しフィアーが速度を上げて逃げに移行する。
それを先行策で走るルドルフが追従し、削る。
迷う事無く自分に対する牽制と削りに入ったルドルフに対してフィアーの口はやはりか、と走りながらも言葉を作る。中山2500mを走るには過剰すぎる程のスタミナを備えるフィアーを削るのが最も重要な一手―――その上でディープの加速を止めなくてはならない。
フィアーが環境を作り、ディープが環境を壊すほどの末脚を持つ。
ならルドルフの武器は?
「ルドルフはな、巧いんだよ。コントロールするのが」
フィアーは領域の形成、コントロールに意識の一部を常に割いてないとならない。その為、繊細なレースコントロールは失われている。だがルドルフは経験を通してその二つを両立するに至っている。フィアー程の出力の高さはなくとも、そのレースコントロール能力はあらゆるウマ娘を置き去る程のものがある。
それを活用し、一手目からえげつないと評価できるほどの妨害が始まった。
前に出たフィアーの脚を削り、集中力を高めるディープの集中力を嫌でも霧散させる。普通であれば現役最強候補とも呼べる2人を同時に妨害するなど不可能に近いだろうが、ルドルフにはそれが出来る。
それが卓越したコントロール能力を持つルドルフの武器だ。
「うっわ、今の見た? 前のウマ娘を使ってプレッシャーを与えさせてる……」
「カイチョーは相変わらずボクでも何をやっているのか解らないレベルでばんばん色々飛ばすよね。ささやいた瞬間にはなぜか他のウマ娘から眼差しを飛ばさせてるし。他の出場者を自分のファンネルと勘違いしてないかな、アレ」
フィアーとディープにはなく、ルドルフにはあるもの―――それはカリスマだ。
先天性のカリスマ、そしてシンボリ家で育てられた事で与えられた帝王学。それらを複合させる事で生み出した彼女のカリスマはそれこそ他人の動きを先に察知させ、自分の意志を加える事で方向性と通しやすさをコントロールする事を許した。
例えば根性や賢さによって弾ける筈の焦りも、ルドルフが威圧をそこに上乗せする事で疑似的な合わせ技として通すようにする。他人にここで使うしかない、と思わせればデバフスキルの使用タイミングを強制する事が出来る。
事前に全ての出走ウマ娘の技術を確認し、読み込み、そして把握するルドルフはリアルタイムで知識をアップデートしながら発動するスキルを自在にコントロールしている―――それがトレセン学園におけるレースコントロールのトップ技術だった。
「っ―――」
特に追い込みで走るしかないディープには辛い相手だ。最後尾を走るという制約上、常に視界に入ってしまうルドルフの存在は目障りだった。意識を外したくても外せない、その為にルドルフの行う仕掛けが全て目に入ってしまう。
その全てを外せるのは唯一、大逃げで走るハーツクライだけだった。その意図は明確、BCクラシックでフィアーがSecretariatへと行った対策をそのまま返しているに過ぎない。加速され切る前に逃げ切る。それがハーツの選択だった。
だがそれを相手に焦りは薄い。大逃げは走れるだけのスタミナと速度があって初めて成立する戦術だ。ハーツのスタミナとトップスピードを相手に、末脚で差し切れるというのが三者の判断だった。だがこうやって大逃げに出た以上、切り札はある。
その思考を頭の中に残したまま、序盤戦をルドルフに破壊されながら中盤戦が始まる。
それまで誰もが領域に入らず力を残しておいた―――が、足元に花が咲き始めた事でレースが本番を迎える事を悟った。中盤から距離を空けて加速しだす。終盤へと向けた動きが始まる事でフィアーがその実力を発揮しようとするのを感知した。
星空が巡り、花にレース場が覆われる。何時か見た彼岸の果ての景色が領域として心と世界を染め上げる中、全ての領域の前提条件が取り払われた。
ルールを、環境を作る力。それが最も強いのがクリムゾンフィアーというウマ娘。
本番が始まり、加速しだすのはフィアーだけではなくディープとルドルフも同様。このタイミングから加速しなければ終盤までは加速力が持たない。レース場の形状、感触、そして有効となる加速は事前に脳に叩き込んである。一流か否かは走る時、それを理解できるかどうかによって決まる。
そして彼女達は一流だった。対策を施し、その上で勝ちに行く。
「は、やっぱり使えないか……!」
漏れ出す声、フィアーが引っ張りだそうとする領域の多くが利用不可になっている。その代わりにリギルから継承した領域をルドルフとディープが活用して素早く上がり始める。対抗してチームメイトからの領域を借りてフィアーが加速しだす。
フィアーの領域の借用には条件がある。
一つ、それは誰かに継承されていない事。
二つ、利用されることを本人が了承している事。
そのルールをフィアーは一度も口にしたことがなく、明言した事もない。だが彼女が密かに守って来たルールであり、あらゆるレースでフィアーがリギル所属の強力なウマ娘達の領域をレンタルできなかった事に対する答えでもある。
だからスピカ由来の領域を使って加速を得ようとする。
まず超えるべきはハーツクライ。
大逃げで常に先頭にいるプレッシャーを受けている以上、誰よりもその脚は削られる。故に中盤も終わりへと差し掛かる頃には―――垂れない。
「っ」
垂れてこない。
ハーツクライが落ちてこない。それはかつて、どこかで先行策によって英雄を打ち破ったかのように、ハーツクライだけが前に出ている。そして落ちてこない。彼女を支えているのは、誰かの領域だった。見覚えのない、弱く、小さな領域だった。
だがそれが数個、数十個と重ねられていた。
細かく継ぎ足されるスタミナ、細かく付け足される加速。リギルのでもスピカでもなく、大きなチームに所属しているウマ娘のものでもない。いや、中には見知った領域もあった。そのほとんどが大した力もないと切り捨てる領域ばかりだ。
だがそれが大量に積み重なり、そしてハーツクライを支えていた。
瞬間、不利を察した三人の怪物がスパートに入った。ロングスパートではない、限界加速を叩き込んだ一気の加速だ。環境を利用した領域によるブーストを経たトップウマ娘の加速が三人を支え、一気に押し上げる。
だが負けじとハーツクライも逃げる。逃げ続ける。逃げ切ろうと更に速度を上げる。
―――そう、確かにお前たちが今の競バ界の中心かもしれない。
ハーツクライの息が荒れる。苦しむほどに体力が奪われる。ルドルフの視線、威圧、その全てがハーツクライに対して向けられる。それでも無数の想いが彼女を支えた。
―――だけど。
最終コーナーを抜けた中山の短い直線、依然ハナを進むのはハーツクライ。響く怒号と興奮の歓声の中、逃げ切る為にハーツクライが持ち込んだ全ての力を使って前に踏み出す。ラストスパート、最後の直線、最も速度を乗せられる瞬間。
日食が昇った。
フィアーの領域が機能不全を起こし、一瞬崩れる。だが練度と完成度が違う。Secretariatの使う日食が化け物級に強かったのは、Secretariat自身が自分に対して誇る信念と信仰心から来る強さが故だった。
最近頭を下げ、協力を求めて継承してきた日食の領域にそこまでの強度はない。
せめて出来るのは最後のスパートを不発させる事ぐらいだろう。
だが、それで十分だった。策は成った。
ドバイWCに見たフィアーの領域。同じ時期にトゥインクルを走りながらも後ろから追い越していった怪物。一度は勝ちたいと願う様な神話の化け物に対してあの日以来、ハーツクライはずっと悩んでいた。どうすれば勝てるのか、どうすれば同じステージに立てるのか。
これが、ハーツクライの出した答えだった。
一番最初にフィアーが領域に覚醒したトップメンタルの瞬間に彼女は立ち会っていた。だから本質にも触れて、理解していた。誰よりも長く準備する時間があった。
だからハーツクライは一人一人、それこそ重賞で勝てないウマ娘にさえ声をかけた。
最強を倒したくないか。星に手を届かせたくはないのか、と。フィアーの領域、そのルール無用さが自分ではなく他の誰かにも適用できるなら……やるべき事は、より多くの仲間を集め、そして味方を作る事。
シンボリルドルフはレースをコントロールする事で出し抜くことを考えた。
ディープインパクトは作られたレースを破壊して踏破する事を考えた。
クリムゾンフィアーは自分がルールを作る事で最も有利である事を考えた。
ハーツクライは、ルールに乗った上で真正面から上回る事を考えた。
そしてそれが、対クリムゾンフィアーにおいては何よりも正しい選択肢だった。味方がいなければ領域は増やせない。増やせないならそもそもの身体能力はディープインパクトを抜ききれない。心から信頼できる仲間の領域を使った所で、最も大事なタイミングが不発させられた。
半年だ、半年を超えたハーツクライの戦略がその瞬間、三人のウマ娘に刺さった。
背後から迫る怪物たちの姿に、先行するハーツクライの姿がゴールラインに届いた。
「―――私の、勝ちだ……!」
1着、ハーツクライ。
それは、1年遅れで達成された最強のウマ娘撃破という伝説だった。
次回、エピローグ