ゆっくりと、ゲートに収まって行く。静かに、足音を立てず全ての気配を殺してゲートに収まりつつ両手を合わせて目を閉じる。精神を統一し、落ち着かせながら走りだしに備えて自分のメンタルを完全に制御する。
闘争心、掛かり気味のそれをレースへと向ける為に、爆発させる瞬間の為に堪える。堪えて堪えて堪えて―――押し込んで飲み込む。自分の意志の、自分の体の完全なコントロールを得る。何度もやって来た事だ、何時も通りやるだけだ。
「ふぅ―――」
闘志が溢れる。本気で、全力で走れるだろうか? 全てを出し尽くせるだろうか? 疑問は尽きない。だが自分の強さを一番理解しているのは自分自身だ―――それを信じて走るしかない。
コンディション―――良し。
メンタル―――良し。
覚悟―――良し。
この場における準備は整えられた。閉ざしていた目を開き、光を受け入れながら走りだす為のフォームに入り、その瞬間を待つ。限界まで極まった集中力は一瞬で意識をゾーン状態まで引き込む。ピリピリとした緊張感が肌を撫でる。それでもたった一人の存在感を常に感じられる。
……来る。
ゲートが開く。その予兆を開く前に感じ取る。風の揺らめき、音の始まり、緊張感の波。その全てを読み取ってゾーンの中で判断する。
その瞬間、吐く息は白く染まる。想起するのは煉獄の思い出。生まれる前の景色を幻視する。何もない、熱の存在しない世界―――生ある者が存在する事が出来ない、命の終着点。熱量は全て零となって永遠の静止へと至る。
ゲートが開くのと同時にパキッ、と音が鳴った。足元のターフが凍り付き、割れる音。体が前に飛び出すのと同時に吐息を凍らせるほどの寒気で染め上げる。
全てのゲートがその瞬間、凍り付いて覆われた。否、そういうイメージだ。現実に変化はない。ただそういうイメージを見ている者の間で共有され、認識しただけだ。だがそれで十分すぎる。起こる筈だった最初の加速、スタートダッシュは加速力を殺す第二領域によって死滅した。
唯一、俺を抜きにして。
『一斉に出遅れてしまったぁ!?』
『ポンと一人飛び出したこれはクリムゾンフィアーですね! 間違いなくこのイメージの強固な構築力は彼女の仕業です! 開幕に領域を使う事でライバルたちを出遅れさせたのでしょう!』
は、笑い声が零れる。
「元が俺のやり方なんだ、崩し方も解ってんだよ……!」
声が聞こえる筈もないが、言葉を喉から吐き出して前に飛び出す。だが直ぐに落としてあらかじめ自分の中で刻むタイムへと速度を調整する。開幕の爆撃によって一気に出遅れたウマ娘達が初期加速を取り戻すようにスタミナを燃焼して追いかけて来る。
逃げを走るはずだった子は前に飛び出し、位置取り争いが勃発する。本来よりも遅れて始まった争いは無駄にウマ娘達のスタミナを削り、そしてレースプランを崩す。その合間にもディー1人へと威圧を向ける。
向けられる対抗リソースは、全てディーへと向ける。他のウマ娘がどう認識しているかは解らないが、最初から最後まで潰す為のリソースは1人へと注ぎ続かなければ、間に合わない。
「ふぅ―――」
序盤の直線を抜けて中盤に入り、最初のコーナーに入る。ぴったりと内ラチに張り付くようにコーナーを速度を落とさずに走る。やや外側へと膨らむ姿を抜かして前に出ようとする姿を牽制しつつ追込みへのデバフを送り続ける。コーナーの反りを利用して視線の睨み、威圧、そして好むコースを先に踏んで芝を荒れさせる。
出来る手は先に打つ。これが後々響けば、勝機へと変わるだろう。
―――クソ、チャンミで追込みクリオグリ相手してるような感じだ。止められる気配がしねぇ。
速度系は駄目だ。殺しきれない。最終直線までにどれだけスタミナを殺し、最後の加速を抑えられるか。それが勝負の決め手だろう。振るうリソースを絞って息を整える。自分のスタミナを枯らさないように意識しつつ走りを調整する。
最終直線までは体力を温存できるストライド走法で、自分の立ち位置を調整しつつコーナーを抜ける―――という所で後ろ髪に引っかかる感覚がある。
「……」
「クリムゾン、フィアーッ……!」
睨むような視線と共に対先行へと向けられた威圧が此方へと放たれる。マイネルレコルトが前回の走りを反省し、此方に対策を振ってきている。が、まだ拙い技術だ。弾ける範囲だ。自分へと来る分を振り払い、そのまま他へと通す。
自分へと向けられる悪意を他者へと振り分ける。
あぁ、そうだ、悪意だ。殺してやるって殺意。それが野良レースで走ってた時にはあった。そしてこれまでのレースには欠けていた。それが漸くやって来た。実家の様な安心感だ。これでこそ生きた心地がする。
「は、は、は、は―――」
楽しい。まだだ、まだ走れる。息を吐く様に威圧を飛ばして他のウマ娘の速度を殺し、それで別のウマ娘が上がってくる事を阻止する。中盤の直線から終盤のコーナーへと向けて準備が始まるタイミングで他のウマ娘の動きを阻害し、後ろへと向かって、速度を落とさせる。
ディーが抜く為に必要とするコースを此方から狭めて動きを固定させる。これでディーの動きを鈍らせる為の仕込みは全て終えた。
「あとは俺の限界を攻めるのみ……!」
先団を抜き始めながらハナに立つ。息を入れてスタミナはゴールを切るまで絶対に切れないラインまで確保している。その全てを燃焼するようにソムリエの名に相応しいコーナリングで限界まで加速する。
そして、彼岸花を咲かせる。
スパート。
振り返る事無く全力で加速する。加速、加速し、そしてトップスピードに乗る。スパートに入ってフォームをストライドからピッチ走法へと切り替える。自分が出しえる速度の限界を攻めながら振り返る事無く前だけを見る。
叩きつけた、放った、妨害もした。
「あ、あ、あぁ、ぁ、ぁッ―――ッッ!!」
それでも、漆黒の英雄が上がって来た。やはり上がって来た、それでも上がってくる……!
「負け、ない……!」
大外から放たれた妨害を全て避けながら殺人的加速力と末脚で後方の全てを撫で切る。後ろへと流れて行くウマ娘達の姿を一瞥する事もなく漆黒の姿がターフを切り裂きながら切り込んでくる。その蹄鉄で彼岸花を踏みつぶし、汗を額に垂らしながら、
横に並び、
―――抜かれた。
「おおおぉぉぉぉぉ―――ッ!!」
吠える。スタミナを急速に燃焼させる。根性を費やして更にスピードを捻りだす。化け物としか表現できない末脚でディーの姿が前に出た。1バ身、2バ身、3バ身。圧倒的なスピードで突き離そうとディーの姿が前へ、前へ伸びる。
ゴールラインまで残り目測50メートルもない距離。
彼我の差、3バ身。
ゴールライン直前―――ディーの姿が、垂れた。
「おおおおおおおおお―――!!」
「あああああああ―――!」
恥も外観もなく叫ぶ。脚が折れようとも前に出るという意思で体を前へと押し出す。
1歩―――1バ身距離を縮める。
2歩―――更に1バ身縮む。
「こなくそっ」
「―――っ!」
限界まで歯を食いしばった姿がゴール目前に迫る。最後の全てを注ぎ込んでスタミナを切らしたディーへと追いつこうとする。だが足りない。距離が足りない。
後100メートル、後100メートルだけ長ければ垂れていた……!
だが、その100メートルは来ない。
ゴールラインを抜ける。
その差、半バ身。
全速力で駆け抜けたディーの姿がゴールラインを抜けて、少し進んでから尽きた体力を表すようにターフに転がる。半バ身、その姿に遅れるようにゴールラインを切る。ゆっくりと速度を落としながらディーの横に立った。
「はあ……はあ……はあ……」
「よう」
「はあ……はあ……はあ……」
「喋るのが辛い?」
見上げてくるディーは息も絶え絶えという様子で頷いた。その姿にはあ、と溜息を吐いた。
皐月じゃなくて同じ戦術でダービーに仕掛けてれば勝てたかもしれない。ディーのデバフに対する耐性が見積もってたよりも低かった……というより良く刺さった。或いはその手の対策訓練を施していなかったのかもしれない。
ダービーの距離であれば、勝てた。だがこれが現実だ。そして手札を見せた以上、次回はこのデバフラッシュを対策されるだろう。
結果から言えば、皐月賞の距離で言えばディーはスタミナを削られても走り切ったのだから。
「ほら、手を貸せよ。ファンに応えてみせろよチャンピオン」
「うん……!」
手を出せば、それをディーが掴む。引っ張り上げて起き上がらせる姿を腰に手を回して支えれば、ディーが手を観客の方へと掲げる。瞬間、歓声が爆発しバ券が宙に舞い上がる。初のGⅠ勝利をターフと歴史に刻んだディーの表情には達成感と喜びが満ちていた。
あーあ、負けちまった……これならちゃんと因子継承しに行けばよかったわ。
言葉を口に出す事無く苦笑すると、ディーの視線が俺へと見上げるように向けられた。見上げるディーの表情には笑顔がある。
「ありがとう、フィアさん」
「気にすんな」
それに俺達のクラシックは―――まだ、始まったばかりだ。
これはまだクラシック3冠、その始まりでしかないのだから。
クリムゾンフィアー
悔しい
ディープインパクト
嬉しい
ファン
腰に手を回した辺りで脳を焼かれてる
デジタル殿
また死んでる