「―――結局、引退する時にカナダで走った以外では外で走る事はなかった」
ナド・アルシバ競バ場、観客席に一角には異様な雰囲気が漂っていた。凄まじい数の観客が集まっている競バ場だというのに、その一角を避けるように観客たちは距離を空けていた。ちょっと……あの雰囲気は無理……という思いが観客たちの中にはあった。
セクレタリアトは観客たちが重圧と感じる雰囲気の中、感慨深げにつぶやき視線をダートへと向けていた。パドックでのお披露目を終えてレース場へと舞台は変わり、ドバイワールドカップに出場するウマ娘達はゲート入りする前の僅かな時間を過ごしていた。
赤い伝説の横に座るサンデーサイレンスが腕を組んだまま視線をじっと、ダートの上の赤毛へと向ける。視線に気づいた赤毛が軽く手を振った姿に、僅かながらの笑みを浮かべてしまう事に気づけるのは果たしてどれぐらいだろうか。
「となると、悲願なんですね。貴女の走りが、外で通用するかどうかを見るのは」
「そうかもしれない。自分の後継者が本当に唯一無二であるか否かを知りたがるのはウマ娘としての性だ……違うか?」
「気持ちは解るっすよ」
シーバード、ラムタラが言葉に混じる。世界最高峰のウマ娘達が数名、ゴドルフィンの招待により一般客に交じってレース観戦をしていた―――無論、ゴドルフィンは貴賓席を用意していた。だが彼女達はそれを拒否して一般客に交じってレースを観戦する事にした。
いい迷惑だった。全員解っていてやってる辺りが悪質だった。
「ふふ……楽しいレースになりそうね」
シーバードが微笑みながらたった1人にロックオンするように視線を向ける。ずば抜けた感性、圧倒的な戦績、そして比類なき才能で20世紀最強のウマ娘と呼ばれた者は楽しそうに今、覚醒を迎えた赤毛の姿を見ていた。その視線をラムタラはこの女趣味悪いな……というのを言葉に出す事無く思っていた。
「あ、悪い悪い。トイレ混んでて戻ってくるの遅れたわ」
「もうゲートインだぞブレーヴ」
「マジか、危ねぇー。そういやあシアトルは?」
「30分前に酒買いに行って帰って来てない」
「マジかぁ」
近くに座っている観客たちがもうちょっと距離を空けようと詰める中、レジェンドと呼ばれても差し支えないウマ娘達が最終ラウンドを見る為に集まり出す。ゴドルフィンによって招待されても普段であればスルーする様な連中ばかりだ。
だがただ一つ、赤いウマ娘の継承者という一点が彼女らをこの地へと引き寄せた。本来であれば現れない継承者、アメリカの地で消える筈だった伝説が掘り起こされて今、世界を舞台にその真実を晒す時が来た。
元競走者として、或いは未だに闘志を失わぬ者として―――己の目で見極める為に、各地から招待を受けて集まっていた。
そんな彼女達の視界の中で徐々に……徐々に、ゲートに姿が収まりつつあった。
ドバイワールドミーティング最終ラウンド、ドバイWCが始まる。
足元の砂を軽く蹴って感触を蹄鉄で確かめながらゆっくりとゲートインする。さっきから足元で彼岸花が生えるのを止められない。心が高鳴ってしょうがない。こんな気持ちでレースに挑むのなんて何時ぶりだろうか。昂って昂って、心が全く抑えられない。体の負荷は寧ろ丁度良いぐらいだ。
これで体のコンディションを落とさなかったら自分が抑えられなかっただろう。
それだけ俺の心は弾んでいた。これまで自分を縛っていた鎖の全てを解き放った状態、その反動でややふわふわしている部分もある……が、それで良い。もう抑えるのはやめた。本能に、想いに、そしてレースに対して正直であろう。俺は俺の才能の全てを駆使して戦いたい。勝ちたい。そしてターフの上で死にたい。
俺を殺しに来てくれる英雄を待っている。
だから俺は―――誰も殺せない様な、怪物にならないといけない。
息を吐き、アラブの熱い空気を肺いっぱいに送り込み、祈るように両手を合わせて俯き、己の心に祈った。神に祈る様な敬虔さは無い。だから祈るのは何時だって自分自身にだけだ。短い祈りを終えて顔を上げ、静かにレースを走る為のフォームに切り替える。
それだけで準備は整った。ゲートインしたウマ娘は誰も口を開かず、集中力を高めている。俺も同様に、一瞬でコンセントレーションを引っ張りだす。心は熱いまま、脳は冷える。視線は真っすぐ、ダートのみを捉える。
ゆっくり、ゆっくりと時が過ぎ去って行く様に感じる。極限の集中力だけが認識を歪ませる。
そして感覚にゲートが開く瞬間を察知する。ゲートはまだ開いてない。だがこれから開く。それを理解しゲートが開き出す前に動き始め―――飛び出した瞬間にゲートが開いた。
0秒のスタートが開始する。
一瞬で前に飛び出す。ハナを息を吸うように奪い、等速ストライドによる加速に入る。瞬間、前に出ようとする姿を全て止めるように足元を凍らせる。足元を起点に領域を展開させてダートを凍結させる事で加速力を停止させる。
「させるか、ってーの!」
領域に領域をぶつけられ破壊される。
「―――3」
粉砕された領域の結晶が舞い上がり……それが暴風と混ざり合って嵐へと変貌する。叩きつけるような雨がコースを襲い足を削ぎに来る。ハナを維持し更に距離を空ける為に加速する。それに遅れる事無く追従してくるのはAlexの姿だ―――俺との対戦経験が一番豊富だから理解しているのだろう、今日の俺は絶対に垂れない。
「チ、誘ってるなテメェ」
舌打ちをする割にはAlexの声は楽しそうだった。俺が既に仕掛けてきているのを理解して足を溜めながら加速するという器用な行いをしている。或いは、此方のスタミナに対抗する為に息を挟む技術を徹底して磨いてきたのかもしれない。
そう思考する間もなく、雷鳴が嵐を裂いた。
「―――2」
「ハニー、そのベールを剥いた先に何を隠しているのか、見せてくれないかな……!」
エレクトロキューショニスト、追走。二つ目の領域、シービーの継承領域はエレクトロキューショニストが小手先の技で崩してきた。流石に継承した領域は本体と比べれば強度が弱い。継承している以上は自分のものではない故仕方がない事でもある。
序盤の終わりが見え始める。俺、Alex、エレクトロキューショニストを先頭集団に他が追随する形でレースが中盤に入ろうとする。それに合わせて此方めがけた領域の発動を感知する。大地が隆起し、足元を裂いて飲み込まんとする脅威を感じる。
実際の出来事ではない。だが迫ったプレッシャーは本物であるかのように感じられる程重く、強い―――Magna Graduateのものか、と感じ取るプレッシャーから主を察する。迷う事無く大逃げでレースを進めようとする此方に対する対抗か。
銃弾を装填する。
サンデーサイレンスの継承領域を呼び出す。崩れた教会、役割を果たさない女神像、装填された弾丸を一直線に対抗する領域へと向ける。
「自らの運命は自らの手で勝ち取る―――神様はクソして寝てろ」
領域と領域が衝突し合う。イメージがイメージを妨害する事でその本領を発揮する事を阻止する。息遣いを乱そうとする動きを此方から牽制する事で相殺し、イメージを崩す。
「―――1」
そして、崩れ去った中から彼岸花が咲き出す。踏みしめる大地を赤く染め上げ、血の色のカーペットを敷き詰める。ハイペースで引っ張るレースが序盤を超えて中盤戦に入る。実況が何か興奮して大声で言葉を口にしている。だがそれを無視し、笑みを浮かべてちらりと振り返る。
「―――は」
踏まない、Alexは此方の動きを理解し、何のトリガーを仕込んでいるのかを理解して踏まない。だがエレクトロキューショニストはその真逆だった。求めるように、或いは引き出すように、最高のパフォーマンスを互いに見せつけ合って戦いを求めた。
だから彼女が絶対に、そうすると思っていた。
「痺れる程に魅せてくれ」
Spark!
エレクトロキューショニストの放ったショックイメージが彼岸花を散らす。花弁が舞い上がり風に攫われて行く。風に乗って漂う花弁がゆらり、ゆらり……儚く散って行く夢や命のようにその姿を崩され、散らされて行く。
「カウント、0」
意図して条件を踏みに来たエレクトロキューショニストの行いに対してAlexは顔を顰めつつもしっかりと領域を使わないのは本命に対する対抗策だろう。それを俺は受け入れながら準備を完了させた。
先頭から殿まで距離は20バ身。まだ加速は止まらない。妨害は続いている。少しでもスタミナを削ろうとしている奴がいる。それを理解しながらも領域を形成する。
本命を。
本当の領域を。
これまでの誤魔化しや半端なものではない。
本物の領域というものを、漸く使える。
「―――チェリーブロッサム?」
観客たちが一番最初に目撃したのは舞う桜の花びらだった。ひらひらと舞う桜の花びら、いかにも日本人らしい演出の領域だろうと観客は思った。ダートがまるでターフに上書きされたような景色、桜の木が生えた景色はコースそのものが上書きされたような景色だ。
美しい、そうと認められる領域だった。
だが同時に期待外れだ。肥えた観客の目にはそれがそう特別なものには見えなかった。特別な場所を再生するという領域の形式は、そう珍しいものではない。自分のパフォーマンスが最も高まるイメージを展開する事で走りを安定、強化するスタイルはメジャーだ。
世間を賑わせたCrimson Fearにしては何とも大人しいものだ。そう思うものも無理ではない。
だがその全てを否定するように、シーバードは笑った。
「ふ、ふふふ、―――ふふふふふ……!」
楽しそうに、美しい宝石を見るように、触れてはならぬものを見つけたように―――怯えるような笑い声だった。深紅の恐怖、その名の意味をその瞬間完全に理解したシーバードは、何故これまでの間ずっとその領域が使われなかったのかを理解していた。
そして景色は切り替わる―――ドバイには存在しない春から冬へと。
雪に沈んだダートコース。真冬の寒さを肌で感じられる程のリアルで深い雪の景色。山の中に迷い込んでしまったと錯覚してしまう程に白く染まった世界。吐く息でさえ白く染まってしまう程の強烈なイメージは、脳をバグらせるほどに強く、強くフィアーから放たれる。
そして切り替わる、秋へと。
黄金の稲穂の海。広がる長閑な景色、実りを感じさせる秋の景色に紅葉した葉が静かに散って降り注ぐ。ドバイに存在しない景色に見ている人たちが混乱しそうになるも、度を越えたリアリティと領域の強度に一気に引き込まれる。
そして夏。青々とした葉が満ちる灼熱の季節。最も身近で最も遠い景色。どこかの長閑な景色はそのまま、ダートはその姿を取り戻しつつも夏の色を濃く反映した景色へと変貌している。四季は逆行するように巡り、それに合わせて天体もぐるりと巡る。
―――その景色を、恐らく一番良く理解しているのは体験したマンハッタンカフェだけだろう。そして現時点で領域を現地で見る事が出来るのなら、馬鹿が止めろと叫んでいた所だろう。
季節は逆行する。時は遡るように切り替わって行く。最初はゆっくりと、今度は加速するように。空も朝、昼、黄昏、夜、曙光―――目まぐるしく景色が切り替わって行く。その一つ一つが心に刻み込まれる様な美しい景色、それが切り替わるごとに混ざって行く。
夏と秋が、冬と春が―――そして全てがごちゃごちゃに混ざり込んで一つの景色へと変わった。
それは無限に広がる花畑だった。青々とした空には星が浮かび上がり、星座を描いている。無限に咲き誇る花々はこの世には存在しない架空の花。見る者によってその形を変え、そしてその色を変える―――世界で一つだけの花が咲き誇っている。
或いはそれは、己を映す鏡だったのかもしれない。
命の答え、旅路の果て、巡る命の色。
その答えがそこにあった。人が理解してはならない境地、それを今までずっとフィアーは抑え込んでいた。
それを解き放った姿―――彼岸の果て。それこそが本当の領域だった。
「この時を待っていた」
領域が完成した瞬間、Alexが領域を展開する。この中で一番フィアーの領域を、能力を信じていたのはAlexだ。故に領域の展開と同時に潰しに行く。どういう形の領域かは
「命は流れ、巡り、そして再び辿り着く」
―――すり抜ける。
「は?」
領域が衝突する事無くすり抜ける。花畑に受け入れられるようにAlexの領域が展開される。決して阻害せず、しかし共存を許すように領域のイメージが穢されない。だがそれはAlexに限定された事ではなく、エレクトロキューショニストも、他のウマ娘にも同じことが発生している。
全ての領域が共存し、同時に展開されることを許されていた。
「条件緩和、矛盾許容の領域だね―――!?」
最も早く環境の変化に対して理解し、受け入れたのは電気処刑人だった。異形としか形容出来ないフィアーの領域に対する反応速度は彼女が元々出会った時点でフィアーという存在に輝きに目を奪われていたからに他ならない。
その恐ろしさ、美しさ全てをひっくるめて愛すると己の心に宣告していた処刑人の言葉に偽りはない。迷わず継承した領域の全てを展開する。ラムタラ、カイフタラ、ファンタスティックライト―――ゴドルフィン所属の名バ達、この戦いの為に頭を下げてまで領域を借りてきた先達の力を解放する。
その光景は圧巻の一言に尽きる。1人1人が歴史に名を遺した名バ、その固有/領域だって決して簡単に使えるものではない。癖が強く、そして発動の為のルーティーンだって元の主に最適化されているものだ。他者がそう簡単に使用する事は出来ない。
―――だがされた、一瞬で、全て展開された。領域は食い合う事も邪魔する事も互いに共存するように全て展開された。
その使用に関する前提条件、その全てが撤廃されたように。
「死でさえ大いなる旅路の途中。永遠でさえ終わりを迎える事はなく、命は流れどまた、新たな形として戻ってくる―――」
汝は汝、我は我―――その境界線は果たしてどこだろうか? ない、そんなもの彼岸の世にはないのだ。我は汝であり、汝はまた我でもある。大いなる流れの一部でしかない存在に個体での認識など意味はない。
だから、継承した領域を万全に使用できる。
己と他者の境界線を緩める領域。そんなもの、暴挙以外の何物でもない。
「この、馬鹿が……!」
楽しそうに吐きながらAlexもまたティズナウとサキーから継承した領域を発動させた。爆発的な加速力と速力はその身に宿る。ここからはもはや温存などという概念が通じる事はないという理解からの行動だ。最高の速度を出し続けた破滅的なレース、それを超えられた者のみが勝てる。
そう、とてもシンプルな話だ。
領域の展開は難しい。それこそレースによっては条件を満たせず発動すらできない場合だってある。だがフィアーの領域中は、その前提条件が無視される。誰もが己の最高のスペックを発揮する事が出来る。誰だって最高のパフォーマンスを追求できる。
誰もが最強の己となって戦う事が出来る事、それがフィアーの領域。
大逃げを発揮して先頭を走る姿にAlexとエレクトロキューショニストが迫る。爆発的な加速力は一瞬で自身の最高スペックを更新し続ける。勝つ、その為には最高の自分を維持し続けないとならない。その為の領域を展開し、
フィアーが微笑んだ。
「U=ma2」
アグネスタキオンの領域が発動した。加速しながらスタミナが回復される。
「アナタヲ・オイカケテ」
マンハッタンカフェの領域が発動する。速度を喰らいながら更に加速する。
「オペレーション・Cacao、ピュリティオブハート―――」
ミホノブルボン、スーパークリークの領域がスタミナを補充する。失われた筋力、体力を領域で補う。既にレース中に発動された領域の数は6を超えている。ウマ娘が継承を含めて個人で保有できる上限を超えてもなお発動している。その意図を理解し、Wilkoが声を放った。
「イカサマ野郎……!」
Fairy Tale/不沈艦、抜錨ォッ!/Shadow Break/最強の名を懸けて/先頭の景色は譲らない/剣ヶ峰より、狂気に嗤え/威風堂々、夢錦!
「ざけんなっ! なんだそれ! なんだよそれ、反則だろうがッッッ!!!」
クリムゾンフィアーの根底にあるのは自分への祈り。自分への不信感、命の答え―――そして愛への渇望だ。救われたからこそ繋がりを求める。それが領域、継承特化型という異形の形態を生み出した。クリムゾンフィアーはその根底では肯定される事を求めている。
大真面目だからこそ馬鹿のように振る舞い、そして他人の記憶に残るように演じてきた。
だからこそ、これこそが究極。彼岸の怪バが行きつく果ての果て。覚醒直後のちょっとしたズルいサービスを込めての究極の走り。
自分に誇れるものがないからこそ他者にそれを求めたなんとも恐ろしい究極の形―――!
だが、それさえも突き抜けてしまえば、唯一無二。
―――Queen‘s Lumination/Into High Gear!
ダイワスカーレットとウオッカの後押しを受けて中盤戦から終盤戦に入る。後続のウマ娘と徐々に距離が開き始める。万全のスタミナ、限界まで乗った加速、上限を超えて上がり続ける速度、そして幻の等速ストライド……全てがかみ合わさった姿は見る者全てを魅了し、魂を焼き尽くす程の強さをダートの大地に叩き込む。
「あぁ……そうだ。お前こそ私の後継者だ。良くやった、良くやってくれたCrimson……!」
加速する。加速し続ける。もはや勝負の法則が変わったようなレース。突き抜けて前に出る恐怖の赤い影。もはや抜き出て誰もが届かない距離に出たとしてもその足は衰えない。油断しない、慢心しない。
―――絶対は、ボクだ/汝、皇帝の神威を見よ。
最後の領域による加速が成される。エクリプス、その名を体現する様な走りが影を踏ませる事もなく完全な一人旅を成してゴールラインを切る。
ゴールラインを切った所で領域がその形を崩す。1人1人の為に咲いた花はその形を崩し風に流され消え去って行く。夢から覚めるように領域は跡形もなく消え去って元のドバイのダートが帰ってくる。
その地、唯一ゴールラインを越えた者に対して観客は一瞬だけ歓声を忘れ、それから声を爆発させた。
ドバイワールドカップ勝者、クリムゾンフィアー。
クリムゾンフィアー
領域の原型は輪廻の業から作られた。込めた願いは他者との繋がり。本質的には愛されたがりで寂しがり屋。別名、この世で最も恐ろしく美しい領域。