「ディーの弱点は何だと思う?」
「追い込みしか走れない事だと思う」
ディープインパクトはスタートが弱いから追い込みしか走れない。だがそのスタートの弱さはクリムゾンフィアーからコンセントレーションの技術を学ぶことで克服した。それも早期に。それでもディープインパクトは追い込みで走った。
「ディープインパクトは小柄ながら圧倒的なセンスとフィジカルを持つウマ娘だ。彼女に勝つのは並大抵の事では無理だ。だけど付け入る隙そのものは存在する……彼女が追い込みしか走らないというのが一つの回答でもあると考えているけど」
西村は何度も国内で走っているディープインパクトのレース映像を入手してはその走りを分析していた。スピカにミスターシービーというレジェンドが存在するからこそ比較する事が出来ていた。ディープインパクトはスタートの下手さをラーニングした技術で誤魔化している、と。
「あぁ、あれはディー本人の気質の問題でもある。たぶん精神的な問題がそのまま走りに沁みついたんだと思う。改善したとしても走りを変える事はもう無理だと思う」
クリムゾンフィアーは恐らく、最もディープインパクトの内面を理解しているウマ娘だった。だからこそディープインパクトが追い込みで走るのは、彼女がそれ以外の走りが出来ないためだという事実をしっかりと理解していた。だからこそ対策するのであれば、その走りに対してではだめだと理解していた。
リギルは王者のチームだ。日本トレセン学園ではリギルが最強だと言われている。スピカも近年の活躍でそれに匹敵するだけの強さと名声を稼いでいる。だがリギルは三冠ウマ娘を何人も輩出している。単純にそれだけの強さ、経験、知識、そしてノウハウが蓄積されている。
故に追い込みに対する対策と、そして克服する為のデータも揃っている。
「普通に考えれば先行策か逃げ……大逃げ辺りを採用するのが常道だ。追い込まれる前に逃げ切ったり前に出たりすれば良い。それで逃げ切るのが理想だろう」
「そうだね。だけどフォワ賞の映像を見る限り早い段階から前に出る事でそれに対して対策をしてきているみたいだね」
ブルアカの話で流れてしまったが、フォワ賞の走り自体は後から映像で確認した。近代日本競バの結晶とも言えるものがディープインパクトの走りにはあった。
「彼女の走りは近代日本競バの完成形だ。リギルが送り出せる理想とも呼べる強さを持っている。ディープインパクトに乗せられている期待は凄いものだし、それを実現できるだけの能力がある……言ってしまえば彼女は正統派ウマ娘の究極だ」
圧倒的なスペックと走りで他を凌駕する。圧倒的なスペックの前では他の全てが陳腐となる―――西村の調整によってディープインパクトのコンディションは完璧な状態でキープされている。史実であれば“調子が悪くて飛ぶように走らなかった”という事がない様に、完璧な調整が行われている。
つまり100%中の100%を発揮できる状態にまで練り上げられている。既にその強さは世界で戦えるレベルにある。それでも彼女が国内で走り続けたのは単純に彼女自身が走るステージに対する興味を一切持たなかったからだろう。
だがその怪物が漸く日本という檻から解き放たれた―――結果は既にフォワ賞が示している。
絶望だ。
圧倒的な絶望だ。他者の介在を許さない絶望的な末脚、そしてクリムゾンフィアーという唯一無二へと対抗する為に徹底されたスタミナの増強。東条ハナという人物は決して油断もしなければ慢心もしない。リギルらしくディープインパクトのスペックを限界まで伸ばしながらその長所を更に伸ばし、弱点である前に出るような走りに対する対策を作った。
全ては赤毛の暴君に勝利する為に。対策に対策を重ね、想定する。
「恐らく大逃げで来るでしょうね。追い込みに対抗するにはそれしかないでしょうし」
東条ハナはそう想定した。実際、究極の追い込みに対して究極の大逃げで対抗するのは戦術的に間違ってはいない。末脚を発揮される前にゴールする、それ以外にディープインパクトの走りに勝てる手段はないと考えた。
―――だが、違った。
「そもそもの話、走りという領域でディーに勝とうと考える事自体が間違いだと思う」
「その心は?」
「アイツは間違いなく現日本最強のウマ娘だよ。走りに関しては上限叩いてると思う。これ以上劇的に成長するのは難しいと思う。だから走りで対抗するのは難しいと思う。俺も既に身体上のスペックは上限を叩いてると思うし」
だからだ、と言葉を口にする。
「勝負するなら脚じゃなくて頭と心だな」
「成程、本来のスタイルに戻して勝負するって事なんだね?」
西村の言葉にクリムゾンフィアーは頷いた。簡単な話だった。赤毛の継承者、伝説の後継者、等速ストライドを唯一継承する事に成功したウマ娘―――KGⅥ&QEステークスを見た以上、誰もが同じように走ると考えている。
だからその思考の裏を掻く。
元々クリムゾンフィアーというウマ娘は頭の良さで勝負するタイプのウマ娘だった。等速ストライドを活用していたのは単純にそれが強いから。先行策で走っていたのはそれが環境的に強いから、でしかない。
そもそも、この女に走りの苦手とか得意とかは存在しない。生まれが特異であれば育ちも特異、その精神性は既に人類を逸脱している。
自分の苦手意識を改造する事で得意な脚質を切り替える事自体、難なくやってのける。
だからこそ―――だからこそ、赤毛の暴君はターフにおいて最も理不尽に輝く魔法使いになる。
感じ取る事、感じさせる事、その共感性に恐ろしい程に秀でたウマ娘は他人の心にさえも潜り込む。集団の中で自然と一緒に居る事に苦を覚えないのはなんとなく相手の好きな事が解るから。他人といて自然と好かれるのは嫌がる様な事が解るから。
クリムゾンフィアーの瞳にはその人が個人で抱える悩みや長所、短所と言えるものがくっきりと映っている。そんなもの、自分の心を改造して領域を改良するよりも遥かに容易い事でしかない。
だが、それは同時にレース中にどう相手を崩せば良いのか解っているという事でもある。
ゲートインする寸前まで全てを飲み込む様に観察していた赤毛はゲートに入った直後には既に作戦を決めていた。事前に用意された10のプラン、その内一つを周りの欠点と状態に合わせて構築する。そして走り出しと共に下がった時に東条は唸った。
「やられた……!」
狙った、狙われた、
本来は前に出て走る筈の姿が後ろに下がった事で、先行・逃げに通じる筈の妨害手段は潰える。ターゲットが後ろへと下がった事で走りは衰えるのか? そんな事はない、そんな事で沈むような雑魚がこの大舞台に上がれるはずがない。
「ち―――!」
誰かの舌打ちの声がターフに響く。スタンドから響く声は出遅れたと思ったものか。だがその歓声さえもここでは武器になる。苛立った誰かの神経をクリムゾンフィアーが刺激する。連鎖的にそれが他のウマ娘の邪魔になる。
たった一つ、一手差し込んだだけで複数人を連鎖的に巻き込んでデバフの連鎖を起こす。
「ふふ、やはり私に一番近いのは君だったねフィアー」
くすりと笑うルドルフの視線の先でロンシャンのターフをウマ娘達が走る。衝撃を吸い込むような重い芝生の上を圧倒的なパワーで蹴りつけながら前へ、前へと向かって上がって行く。
体の揺れや息遣い、ペースを意識してズラす事でトリックを起こし、相手をかからせたり疲れさせる技術は確かに存在する。だが精神的な制約からドバイで解き放たれたクリムゾンフィアーにその手のブラフはそもそも通じない。
二つに分かたれた領域も、本来の形へと戻す為に統合された。
元来の走りを再び引っ張り出し、自分のスタイルで走る。
無論、継承された等速ストライドという技術は恐ろしく強い。だがここに至って対ディープインパクトという一面において、等速ストライドを使用した走りはイチかバチかという領域にまで引き下げられているのは単純にリギルと東条ハナ、ディープインパクトの積み重ねてきた努力の賜物だ。
絶対を崩す為の戦術は、その前提を放棄する事で崩壊する。
即ち―――今、この場において、等速ストライドを捨てた素のままの状態こそが、最強の証明だった。
序盤を抜ける頃には観客達が待ち望んだ領域が展開される。満天の星と見覚えのない花畑。その中を必死にウマ娘達が駆け抜けて行く―――先行策有利と思えたロンシャンの走りはたった一人のウマ娘が前提を崩壊させることによって決壊していた。
レースはその事前の宣告の通り、赤対黒の一騎打ちになりつつあると既に見ている一部の者達は理解していた。
「そう、それでいいのよ……引退したロートルも、ターフを去った敗北者もいらない。今、ここに立つ若人たちがその未来を燃やしてまで走る事にこの場は意味があるの。貴方達の走りを、凱旋門をレジェンドだなんてつまらないもので穢すなんて……あんまりにもつまらないわ」
鳴くカモメの視線の先で黒の姿が上がり始める。中盤加速の技術と継承領域を駆使した加速で一気に前に出るのを、当然のように邪魔しない距離を空けて赤毛が並んで上がって行く。
「っ……!」
剥がせない。それをディープインパクトは理解していた。加速しながらも無意識的に速度を調整してしまう。前に出たいのに出られない。先行策によって後ろからロケットの様な飛び出しを封じられているのも一つ、だがそれ以上に完全にディープインパクトの性格を知り尽くしたクリムゾンフィアーの走りが邪魔していた。
並び、走り、そして合わせてしまう。
元来他人を苦手としているウマ娘だ。パーソナルスペースに誰かが踏み込む事を嫌がるタイプのウマ娘でもある。それが走りとして出ている結果が追い込みという脚質。他人とふれあい、精神的な成長をしても根本の性質に変化はない。
その弱点をクリムゾンフィアーは良く理解している。良く理解しているからこそ、利用して加速していた。
中盤、加速するべきタイミングでディープインパクトと同じタイミングで出る事でその加速を不発させつつ、自分だけ領域の後押しを受けて前に出る。一拍遅れてディープインパクトも再加速に入る。残弾はある、そしてこのタイミングで前に出なければ絶対に追いつけなくなるのを本能で直感している。
それでも、先に前に出たのはクリムゾンフィアーだった。
「そうだ、そこで加速力を不発させれば最終的な速度勝負は、加速を乗せて速度上限を伸ばせる此方が勝負で有利になる。中盤戦は終盤への要、ここで下手を打つと最後に響く」
拳を強く握りしめながら祈りつつ西村が見守る。
ディープインパクトが歯を食いしばる。本来であればもっと前に出てからスパートに入るべきなのだろう。だが現時点でスパートに入らなければ絶対に間に合わないというのを理解し、スタミナを燃焼させるように前に出る。
「こい、つっ」
前を走るRail LinkとPridewを交わし、最終コーナーでクリムゾンフィアーの姿がハナに立つ。後ろから凄まじい速度でディープインパクトが上がってくるのを継承領域による最終加速に入る事で自分を更に追い込む―――潤沢なスタミナも、ここまで来れば全て燃焼するのに回せる。
フォルスストレートも抜け、最後のコーナーも終わりを告げた。
残された最終直線。それまで見せてきたクリムゾンフィアーの強さを全て囮に使った走りは、警戒に警戒を重ねた全てのウマ娘に悉く突き刺さった。差し込むべき
故に、最後に残されたのは速度勝負。
最後の直線―――ハナを行くのはクリムゾンフィアー。
3バ身後ろにディープインパクト。
「行け! 行け! 行け! そのまま逃げ切れフィアー!!」
熱狂が支配するステージの中で、どこまでも冷え切った脳でターフの上をクリムゾンフィアーが思考を回し続ける。最終直線500m少し、その半分以上を駆け抜けてディープインパクトの姿は1バ身半までに迫っている。
―――このままだとハナ差で差し切られるな。
冷静に自分のトップスピードに乗ったクリムゾンフィアーが判断する。事実として、ディープインパクトは単純な完成度として、己を凌駕している。まともに勝負したら勝てない。戦うのであればまともじゃなければ勝てない。
皐月賞がそうだった。まともに相手しようとしたから負けた。
だからこそ皐月賞と同じスタイルを持ってきた意味がある。
「差し、切るっ」
鬼の形相と気迫を放つディープインパクトが上がってくる。どのような領域を以て加速し、速度を上げようがギリギリのラインで差し切る。そのイメージを己の中で構築し、実行する。他の有象無象が放つ妨害手も何も、もはや届かない。二人だけの世界しか見えていない。
一手。
差し込める詰めの手は一手のみ。二手目の猶予はない。ただの一手だけでディープインパクトの追撃を止める必要がある。その手段が存在するか否か。
その問いに、クリムゾンフィアーは酸欠に喘ぎながら笑った。
「最強とは、俺の事だ」
言葉にもならない吐息。だが詰みの一手は確かに放たれた。
競バ場に響くのはガラスが砕け散る様な音―――領域の崩れる音。クリムゾンフィアーの支配する領域内では起きない筈の現象、ならば誰がその引き金を引いた? 無論、その主以外にはありえない。
即ち、音を立ててクリムゾンフィアーの領域が自壊した。
「―――」
神の一手、詰めの一手、詰みの一手。
クリムゾンフィアーの領域を知るウマ娘は誰もが背負う領域、つまりは想いの量が勝敗に転ずると考えるだろう。だから誰もがそういう準備をしてくる。
だから土壇場で、その梯子を外す。一度やれば対策される簡単な奇襲戦法だ。
だが経験したことが無ければ絶対に刺さる。この場に展開される領域は複数。クリムゾンフィアーの領域が解除された事で条件を満たされぬ領域は強制解除され、そして同時展開されていた領域はイメージの衝突により相殺し合う。
「っ―――ぉぉおおおおおおお―――」
崩れる自分の領域を補う様に咆哮するディープインパクトが鬼の末脚を見せる。
ほぼ赤の姿と並ぶように黒い姿が出てくる。ハナ差、ハナ差だけが残される。既にゴールラインは見えている。一歩、二歩、三歩―――前に出るだけ。それだけで差し切れる。
差し―――切れない。
距離が変わらない。ハナ差で距離が固定される。ゴールラインはもはや一歩先。
そして同時に、もつれあう様にゴールラインが切られた。
クリムゾンフィアー
皐月賞のリベンジのつもりなので最初からこう走ると決めてた