悪徳を成す。私は今から一人の人間の心に漬け込むのだ、無防備この上無い野生をむき出しにした一人の人間を調伏するのだ。
「それを鬼や悪魔と言わずなんと言うのだ」
「えっ?」
いっそ平和すら感じさせる様子でヤツザキ少女が言葉を吐く。独り言なのだ、いい歳をして吐いた独り言に反応されてしまうとは。
「参ったな…」
眼前、宿の外で続く戦闘音に腰を抜かしたまま頭を抱えていたヤツザキ少女が私を見る。大丈夫だよ、ただそう笑いかけた。私の魔女は私と私の目的に必要なものを絶対に守るのだ、それは絶対と言い切ってもいい事なのだ。
「お客様、すっ、すぐに避難致しましょう!!それかっ、けっ、警察!!!」
呼んでどうするのか、ここは海岸線から辛うじて見えるかどうかと言うほど遠く離れた海上なのだ、泳いで来て見せると言うのなら是非にでも呼んでみるものなのだが。あぁ、ダメだな、思考がトゲトゲしている、もっと優しくならないと。彼女はただの思春期の少女なのだ、そりゃあ多少魔法少女とその他を殺したかも知れないが、それだって彼女の人間らしさからやった事である。故に私は彼女に声を掛ける。
「大丈夫だよ、私の自慢の」
何と言ったものか、まだヤツザキ少女には魔女である自覚など無い。そうだ、そうだな、彼女はここには居ないのだ。だったらいっそ彼女の調子に合わせても良いかもしれない。
「私の自慢の彼女が絶対にこの宿に傷一つ付けさせないからね」
そう言い切って見ればヤツザキさんに浮かんで居たヤバイ!と言う表情が、えっヤバっ…とニュアンスの違う危機感に彩られる。あぁ、間違えたかも知れない。まぁ良いか多少の失敗や成功、誤差でしかない。ここに至るまでに必要な全ては準備してきた。たとえ失敗したとて求めていたものは手に入る様に状況は作り上げてある。
「あー、えと、そのぉ」
ふふふ、余りにも引いた様子に自然と笑いが漏れて来る。ふふふははは、コミュニケーションとしては完全に失敗だな。
「妹さんは大丈夫かい?」
問い掛けた言葉にヤツザキさんは表情を変え慌てて走り出す、それに私は年相応の精一杯の速さで付いて行く。三階までの階段を駆け上がるのは中年に差し掛かる年齢には辛すぎてどうにも肺が胸に張り付いた様な感覚に襲われるがそれでも駆けて彼女に付いて行けばどうだ、想定通りじゃ無いか。こうして彼女に付いて行く分には宿に仕掛けられた罠は発動せず、私は無事に三階の奥の部屋まで付いて行く事が出来るのだ。
「ナナッ!!大丈夫!?ナナぁ!!」
障子を弾ける様に開け彼女は部屋の中央に置かれた布団に駆ける、布団に寝かされたテディベアを抱く少女のミイラを抱きしめ必死に何度も何度もその安否を確認する。なるほど、鮮度の違いは明らかだ。周囲に乱雑に纏められた死体はまだ必死に死の香りを放ち蠅やそれ以外の虫を呼び寄せているが、中央の死体に関しては何とも、周囲に振り撒いて居た死の痕跡すら途切れてただヤツザキ少女に抱かれている。
「ナナ!無事で良かった!!ナナぁ!!」
そんな死体を、もう少し現実に即して言うのならば器物を、彼女は今までと変わらぬ様子で抱きしめて居て、私はただそれを眺めている。
さぁ、挑戦の時間だ。
私は一つだけユーリ君に指示を出して居た、見つけ、確保し、何時でもどうとでもなる様にしておいてくれと指示を出した。その結果が私の背後に隠れ、ただただ悔しさを感じさせる強さで私の浴衣の背を小さな手で引っ掻く。
「ヤツザキさん」
それは表側の歴史に対しては挑戦し、妨害し、畏怖させ、支配する事をあえて辞さない、死者は、生者が考える程忘れっぽくないということを知らせるために、ことあるごとに、自己の存在を生者に思い出させるかのようだ。
私は背後に隠れていた少女、私には感覚的にしか理解できない理屈で存在する眼前のミイラの原材料であるはずのヤツザキナナミ少女を、そっ、と半狂乱で全てのバランスを崩しているヤツザキ姉の下へと送り出した。
「お姉ちゃんが私を殺したんじゃない」
強烈過ぎたかもしれない。
引用・魔の系譜