びゅうびゅうと耳元で潮風が音を立てて通り過ぎていく。圧倒的だな、私の魔女は。
枯れ木の様に痩せた身体とはいえ成人男性の私を、その、抗議はしたものの一番持ちやすいからと強硬されたお姫様抱っこの形で持ち上げたまま、海面を跳ねる様に走ってすらのけるのだ、体勢を崩したふりをして私の頬や額に口づけをしてなんならサッと舌すら這わせることを差し引いても賞賛に値する。今度何か買ってあげよう。
そうして、ユーリ君が十歩も歩みを進めぬ内いつの間にか耳元を過ぎ去って居た潮風たちは遠く去りゆき、さぁさぁと言う潮騒だけが耳に届く様になる。着いたか。
「君って本当にすごい魔女だよ、ユーリ君」
「今更気づきました?」
「いや、小まめに伝えておきたくて、君は最高だ」
「ふふふふふ、誤魔化されませんからね」
海の上に浮かぶ玄関、私達の足場となっている薄手のコンクリートと思われるそれが一体如何様にして海の上に浮かんでいると言うのか。観光客向けの海岸とは言え水平線近くまで来たのだ、先程我々が座っていたベンチから大体十から二十キロメートル前後は跳ねてきただろうか?
調べたわけでは無いが既に水深は4メートル以上あるだろう、人間にして二人分と少し、ユーリ君なら三人分近くの水深の上に三階建ての旅館か、民宿と言っても良いかもしれない。そんな建物が揺れる事も無く佇んでいる。
不気味とも、なにか間抜けともとれる光景であった。
「先生?どれだけ褒められたってユーリ、反抗期になりそうです。今日って本当にここに泊まるんですか?」
既に確りとした足場に立ち止まっているのに私を離そうとしないユーリ君に抗う事すらせず抱かれたまま答える、彼女からは心当たりの無い、何か人工的で果物の様な不快でない匂いが漂ってきて、私はそれを吸い込みながら反抗期と言う単語の現実的な脅威度に怯えて少しだけ肝を冷やしていた。
「反抗期は困るなぁ、その、約束したじゃないかぁ海岸で、正直に言えば絶対嫌がると思ったんだ、怪しい海の上の宿に泊まるからついて来て欲しいってさぁ、けどさ?ネムリさんを連れて来るには色々誤解があるし今回スカウトしようと思う魔女相手だと彼女の魔法はあんまり意味が無いから…」
お姫様抱っこまでされておいて隠すものなど無い、と言うかそもそも私とユーリ君は運命共同体なのだ。誤魔化す事無く甘えながら本心を伝えてみれば間近で彼女の造形の良い顔が深く、本当に深くため息を吐き、そのため息からすら健康的な甘い匂いを嗅いでしまった私は自分の魔女に人間的不徳と言うヤツが悟られぬ様に押し黙った。
「先生?先生の次の一言次第でユーリ帰ろうと思います」
「なんだってするから帰らないでぇぇっ!!君が!君が居ないとスカウトが上手く行く気がしないんだぁ!!」
お姫様抱っこの体勢のまま彼女に強く抱き着く、彼女が本気になれば一秒の36分の一以下の時間で振りほどかれる私の拘束に彼女が満足げにニヤニヤしている、何と言う事だろう、私の魔女はいつの間にかこんな変則的ドメスティックバイオレンスを身に着けてしまった。
「じゃ、先生」
今日は一緒のお布団で寝ましょう。
意図せぬ負の方向の成長期を遂げる私の魔女に感謝すべき事があるとすれば、彼女の中で有効打として記録されている全てがネムリ君による薄い本をベースにした知識である事だろうか?
何時か気づくかもしれないが、彼女は自身の起伏の乏しさに気づいて居ない。
ありがとう、本当にありがとうネムリ君っっ!!君が良く分かって無い耳年増で良かったっ!!
私はこの場に居ない仲間に深く何度も感謝しながらユーリ君の提案に頷くのであった。
ーーーーーー
お姫様抱っこから解放された後、私は海上の正体不明の旅館の玄関を何回かノックし、古めかしい横スライド式の玄関を開け深い闇が続く建物の中へ叫んだ。
「すみませーーん!!予約してないんですがぁ!大人一人と未成年一人ぃ!!泊まれますかねぇ!!部屋に空きありますかぁ!!?」
一秒、それが幾つか続いて計の十五秒。深い闇の中からショートカットの少女が慌てて駆けだして来る。慌てて履いたのか半分以上脱げた足袋、着物に至っては焦って着込んだせいか酷く乱れて居てその下に着込んでいる深緑のジャージが見えている。
「はっ、はいぃ!!空いてます!!部屋!空いてますっ!!」
余りの慌てぶりに咥えたままのおにぎり風のせんべいそのまま、女性的な果物染みた匂いよりも活発で運動的な塩気の混じる匂いの似合う少女と私たちは向かい合い、奇妙に生まれた間に彼女の乱れた着物がズリズリとずり落ちて行く。
「じゃあ、二名で一週間程、泊まりたいのですが」
彼女が今回の目的、スカウト対象の魔女。
迷家の魔女。その幼体か覚醒前とでも表現すべき少女
八咲夜々津(ヤツザキヤヤツ)であった。