日差し、レースのカーテン、スズメの鳴き声。
まだ俺は目覚めない。
シャワー、新品の歯ブラシ、ドライヤー。
俺の意識は布団に沈んだままだ。
換気扇、フライパン、電気ケトル。
瞼の裏で、俺はようやく異変に気づく。
「遅いトレーナー、もう10時だよ?」
枕元に立っていたのは大切な担当。着替えを持ってきてなかったのだろう、昨日と同じ制服姿だ。
俺は眠い目をこすりながら毛布をどける。壁のカレンダーが指すのは12月26日。シービーを泊めたあの日から確実に一日が経っていた。
「シービー、起きてたのか。今何時だ?」
「10時46分。休みじゃなかったらとっくにアウトな時間だよ」
「そうか、学生は今日から冬休みか……久々によく寝た気がする」
軽く伸びをして洗面台に向かう。鏡越しに見た目元はクマが取れ、数段すっきりとしていた。
扉の向こうのキッチンからガサゴソと紙袋の擦れる音が聞こえる。
顔を洗い数ミリ伸びた髭を剃ってくると、シービーは大きな紙袋に手を突っ込んでいた。
「パン買ってきたから。トースター使うよ」
「あぁ悪い、レシートあるか? 俺が払う」
「テーブルの上」
促されるままに長いレシートを見る。2400円分。け、結構買い込んだな……
惣菜系のパンがいくつか、トースターに放り込まれる。
ジリリとつまみのゼンマイが回る間、俺はインスタントのスープでも淹れようと換気扇の横の棚に手を伸ばす。棚の籠には何もなかった。
「カレーパンはさ~、外がサクサクになっても中が冷たかったら悲しいよね~」
サクサクと衣をちぎりながら、無邪気な顔が湯気に包まれる。
待たされて腹が減ってたのだろうか、彼女は楽しそうにふはふとカレーパンを頬張る。
その傍らの紙袋に、フランス語で書かれた手書き風のロゴが印字されていた。
「これ……どこの店のだ?」
「近所のパン屋。アタシの第六感がここは美味しいと告げてた」
「そう、か……」
近所のパン屋。彼女が働こうとしていた場所。
その店に行くには、駅前から続く大通りを渡っていく必要がある。
——彼女が事故に遭った通りを、命が散った交差点を。
あの過去の日以来、事故現場付近には行けていない。もちろん、その店にも。
「食べないの?」
焼きそばパンに手をつけながら、自由な彼女は首をかしげる。
——これは俺の問題だ。シービーは関係ない。
そうだ、『今のアイツに余計な心労をかけさせたくない』って、あの時行ったのは俺自身じゃないか。
背筋の裏から這い寄るトラウマを押しのけて、俺はサンドイッチを手に取った。
「いや、いただきます」
8枚切りを斜めにカットしたそれを口に運ぶ。具はハムが2種類とチーズ、トマトにレタスとマヨネーズはからしの風味が少々。
あぁ、面倒くさがりな君ならきっと、ハムを2枚なんて挟まないんだろうな。トマトも水分が出るから弁当に向かないだろう。けどコショウくらいはかけるかもしれないな。
丁度いい甘みと塩の味を噛み締めながら、どうしてかあり得たかもしれない日常への渇望が湧き上がってくる。
「え、もしかしてトレーナー泣いてる?」
「……あぁ、ちょっとからしがキツくてな」
若干引いたように驚く彼女に、俺はまた嘘を吐いた。
「起きてから気づいたけど、この家何もないね。食べ物もカップ麺ばっかだし」
ローテーブルの上に散らばったパンくずを片付けている間、シービーは最低限の家具と仕事用のデスクが壁沿いに並んでいるだけの部屋を見渡して、不満をこぼしていた。
確かに、彼女がいなくなってから、俺一人の生活には不必要だと家具の多くは処分した。
二人分のコートハンガー、大きなテーブル、パキラの鉢植え、カーペット……
本当は、彼女を思い出すことで自分が苦しみたくなかったからかもしれない。
だからだろう。趣味も交友関係もほとんどないのに、この部屋にいるのは夜遅く帰ってから朝早く出るまでのごくわずかな時間だけだった。
「あぁ、普段は寝に帰ってるだけだからな……」
「自分の家でしょ? もっとこう、快適に過ごせるようにしないの?」
カチャカチャとシンクに洗われ皿が並ぶ。思えば食器も随分減ってしまった。
「……俺にそんな幸せ、似合わないだろ」
泡のついていた手を拭き、幸せを喪ってしまった自虐を呟く。その時だった。
「ちょっと、何その言い方」
シービーは端正な顔立ちに似合わないしかめっ面で俺に詰め寄る。
「言った通りだ。こんな幸薄そうな男に誰も寄りつかないだろ」
「そんなことない! アタシのトレーナーならもっと自分に自信持ってよ!」
「なんでそこまで俺を気遣うんだよ。俺ただのおじさんだぞ?」
その迫力に押されないようこちらもなだめようとするが、スイッチが入ったのか彼女は止まらない。
その雰囲気は励ましているというより、俺の態度が気に入らないといった感じだ。
「そうだ、今から部屋の飾りつけでも買いに行こうよ! 部屋が綺麗になれば気分も上がるかも!」
「おいなんでそうなる。困ってないし、別にいいって」
「ダメ、決定、今決めた。はい準備、早く!」
彼女の苛立ちを感じる口ぶりには、家という空間に対する強いこだわりを感じる。
そういえば、コイツ一人暮らしだったな……
年下の彼女に指図されるまま、部屋着を脱いで外着に着替える。
「上着、それしか持ってないの?」
「仕事以外で外に出ることも無いからな。ズボンも1着だ」
「1着はアタシだけでいいの! あぁもう予定追加! 服も買うよ! ついでに制服も着替えたいし」
「待てって、トレーナーの月収知ってるだろ」
「アタシが払います! この前の黒松賞は優勝賞金が出てるし」
中学生に言われるまま俺ははいはいと頷いた。
その屈服した姿に満足したのか、彼女は俺の手を引いて玄関に駆けていく。
ドアを開けた。冬の空は曇っていたが、その隙間からは太陽がわずかに顔を出していた。