彼女と出逢った日を思い出す。
あれは、空の蒼が今よりもずっと美しかった頃だった。
そのウマ娘は特別だった。
まず、周囲に全くアピールが無い。観客も、前を走るウマ娘も彼女の視界にはいないようで、彼女はただ、一人だけのタイムトライアルを楽しんでいた。
ただ走ることを楽しむその走りが、今でもくっきりと眼に焼き付いている。
きっと、彼女に出会ったその瞬間に俺は彼女の担当になることを運命づけられたのだろう。
あの日、彼女の全てに惹かれ虜になったそのままの勢いで、俺は彼女と契約を結んだ。
とても一端の大人としては誉められない行動だったが、彼女は笑って俺に話しかけてきた。
「そうだミスター、君のことをなんて呼ぼう」
「別に、何とでも呼べばいい」
「ふ-ん。君、名前は?」
「牧野、牧野ヨシトだ」
「……じゃあ、〝ミスター牧野〟でどう?」
トレーナー免許以外なんの取り柄のない俺に、彼女は笑って〝ミスター〟と敬称をつけて呼んでくれた。
多分、その日から俺は〝トレーナー〟であり〝ミスター〟であったんだと思う。
でなければ俺を呼ぶその声を、どうして忘れることが出来ようか。
けれど、彼女という花は散ってしまった。
シービーを喪ったあの日から、俺はトレーナーであることもミスターであることも同時に失ってしまった。
* * * * *
————そして、今。俺は選抜レースの会場にいる。
そのウマ娘は特別だった。
最後方も最後方からの圧倒的な追い込み。観客も、先行するウマ娘も気にしていない。自分すら相手にしていなかった。
風の音を聞き、芝の柔らかさを踏みしめ、流れる景色を目に映す。
その姿が楽しそうだったからだろうか、それとも記憶の中の彼女に重なってしまったからだろうか。
俺はその、ただ走ることを楽しむその走りから眼を離せなくなっていた。
誰かを招き入れることもなく、物置と化していたトレーナー室の鍵を久々に開け、彼女を招き入れる。
「これで、俺とお前は専属のバディだ」
専属契約書にサインを綴る。12年ぶりの復職は、紙1枚で済まされる何とも味気ないものだった。
日焼けしたデスクチェアに腰かけながら、俺は心の奥底から沸き上がる夢を追いかける情熱を必死に抑えていた。
その渇望を解き放ってしまえばきっと、君を裏切ってしまう気がしたから。
「そうだ、キミのことをなんて呼ぼう」
「別に、何とでも呼べばいい」
「ふーん。キミ、名前は?」
「牧野ヨシトだ。それが?」
だから、俺に近づこうと思案する彼女の首筋にも、俺は適当に受け流していた。
どの道、俺はもう自分をトレーナーともミスターと認められないのだから。
そんな俺の後悔にも似た諦めも知らず、数分前にできたバディはぐるぐると鉛筆を回して天井を見上げていた。と、思っていたその時
「じゃあ、〝ミスター牧野〟でどう?」
瞬間、夢と現実の境が曖昧になるような、足元がぐらつく感覚に襲われた。
彼女と同じ名前をした、彼女によく似た彼女から発せられたのは、彼女と同じ呼び名。
やめてくれ、俺をそのあだ名で呼ばないでくれ。俺はもうミスターにはなれないんだ。君のいない世界で生きていける俺じゃないんだ。
そう心で訴えかけても、目の前の担当はにこにこと笑うばかりで
「……せめて〝トレーナー〟にしてくれ…………」
「わかった。じゃあよろしくね、ミスタートレーナー」
その表情を崩すこともできず、俺はせめての妥協を告げる。
空の蒼は、どうしてかいつもより美しかった。