「先輩聞きましたよ! 新しい担当持ったんですね!」
事務員室のデスクを片付けていると、書類が積まれたデスクにコトリと紅茶のカップスタンドとアプリコットの菓子が置かれた。
見上げると立っていたのは俺の後輩。人懐っこい態度に白い編み髪、日本人らしくない青い目をしたかわいい奴だ。20代前半の成人男性ということを除けば。
「なんだ、随分嬉しそうだな」
「それはもちろん、先輩にはいろいろお世話になってますから!」
「柚木崎オガミ」と書かれた職員証を揺らして後輩は鼻を揺らす。
そう俺を慕ってくれるオガミだが、その知識や技能は誰より卓越している。トレーナーになるために産まれてきたような奴だ。
きっとあと数年もすれば俺の背を追い抜いていくだろう。今はまだ、担当すらいない状況だが。
「……雨、この季節にいやな天気ですね」
自分のカップから沸く湯気に息を吹きかけて、後輩は灰色の窓を眺めた。
ここ数日、東京には断続的に豪雨が降っていた。外気を支配する湿気と雨上がりの日差しが合わさり、体感気温は最悪の領域に達している。恐らく、来週には梅雨入りが発表されるだろう。
ゴロゴロと雷雲が鳴り響く室内で、理事長により猫缶を得た野良猫たちがごろごろ鳴いていた。
「……雨、か」
ふと、彼女との日々を思い出す。彼女は雨が好きだった。雨音や雫、木陰に隠れる動物たちを日常の中の非日常として楽しんでいた。
けれど傘やレインコートは苦手……というか嫌いだった。自分の行動を縛るものが嫌だったのだろうか。今となってはもう真意はわからない。
〝雨の日が憂鬱だなんて、他の人が言ってるだけじゃない。私は自分で確かめたいんだ〟
ただ、濡れ髪を拭かれながら鏡越しに笑う彼女の顔をよく覚えている。
「……あそこにいるの、先輩の担当じゃないですか?」
そうしてしばらく物思いにふけていると、不意に後輩が窓の外を指差した。
若干引きつった表情の先を覗く。シービーが歩いていた。傘も差さずに。
上着を羽織り靴を履き、二人分の傘を事務室から引っ張り出して駆け寄る。外跳ねの髪はすっかりストレートに濡れそぼっていた。
「シービー、何してるんだ」
「んー? お・さ・ん・ぽ」
「雨の中歩いてもいいことなんてないだろ。さ、帰るぞ」
目の前の彼女は特に悪びれる様子もない。俺は閉じていたもう一つの傘を差し出して引き返そうとする。
その歩みは、一歩先に先回りした彼女によって遮られた。彼女が呟く。
「そう? 雨の日が憂鬱だなんて、他の人が言ってるだけじゃない。アタシは自分で確かめたいんだ」
その瞬間思い出す。日常の中の非日常として雨を楽しむ君を。自分を縛るものが嫌いな君を。
その奇抜さを、俺が好きだった君を、今俺は否定できるのか。
この次、無理矢理君の手を引いて校舎に戻ることができるのか。
言えるわけがない。できるわけがない。その純然さを汚すことなんて。
鏡越しに見た君の笑顔が、俺の心に深く突き刺さって抜けなかった。
「……体が冷える。戻ろう」
「そうだね。アタシ帰ったらココアがいいな」
また、生き写しのようにシービーは笑う。
落雷が閃光を放ち、黒い雷雲のなかに白を見つけていた。