11月16日、東京レース場。
これから始まる大レース(ネタが古いが)に心躍らせる観客席の下、地下パドックに続く控室に俺とシービーはいた。
二人きりの白い室内は静かで、椅子に座った彼女が髪をクシで撫でる音と鼻歌だけが耳に届いている。
「あゝ私の恋は~南の風に乗って走るわ~♪」
「松田聖子だろ、よく知ってるな。お前が産まれたくらいの歌だろ」
「いい歌は何度聴いてもいいんだよミスタートレーナー」
『青い珊瑚礁』、奇しくも彼女が好きだった歌だ。80年を代表する名曲だが、こういうところまで君と似てしまうんだな。
正直、このシービーとどう接するべきか、どこまで踏み込んでいいのか、それは半年経った今もわからない。
ひとつでも選択肢を間違えてしまえば彼女への思いが嘘になってしまいそうで、君を裏切ってしまいそうで。
今はただ、この奇妙な縁が彼女を君と同じ最期を辿らないことを祈るばかりだ。
不思議なものだな、彼女は君じゃないと誰より言い聞かせているのは俺自身なのに。
「ミスタートレーナー、手が止まってる」
「あ、あぁ悪い。ヘアピンはこれでいいか?」
「ん、ありがと。アタシ癖っ毛だからね、こういうのはちゃんとしないと」
シービーが前髪の裏にヘアピンを挟む。彼女の髪は外跳ねの綺麗な茶髪だ。
——そういえば君は、漆のように艶やかな黒髪だったな。
君とシービーのわずかな違いをひとつ見つけて、ほっと一息が漏れる。
「ねぇ、ミスタートレーナー」
「ん、どうした?」
俺の緩んだ頬が鏡越しに見えたのだろうか。少しふくれっ面のシービーが不服そうに俺を呼んだ。
「アタシの前に何人担当してたの?」
「どうした急に」
「だって、キミが思い出に浸っちゃってるからさ」
……図星。あぁ、こういう独占欲みたいな気分屋も君にそっくりだ。
だがどう答える? どこまで君のことを彼女に伝える? どこまで胸の内を明かす?
数秒程の沈黙は耳に痛みを走らせる。喉の奥が急速に乾いていく。
そうだ、君以外にも担当はいた。彼女たちのことを話そう。そうすれば秘密を守れる。そうすればまだ、彼女に嘘をついていられる。だけど
「……担当は5・6人いたよ。その中でも忘れられない奴が1人いる」
「へぇ、どんな子だったの?」
「……俺にとって世界一のウマ娘だ」
——できなかった。やっぱり無理だ、君の存在を消すことなんてできない。嘘をつくなんて俺には無理だ。
鏡を見た、目元が赤く滲んでいた。まずいな、何かで隠さないと。
そう思いテーブルに振り返った瞬間、視界の中心に彼女がいた。
「へぇ、じゃあアタシ、今から〝世界〟獲ってくるから。見ててねミスター」
彼女が俺の唇にそっと指を当てる。薄桃色のネイルに狼狽する俺の顔が歪んでいる。
なんだ、どうして、そんなこと言うんだ。君の顔で、君の声で、君の仕草で。
「ミスターシービーさん、そろそろ出走です」
「わかった。それじゃあキスアンドクライでね、ミスタートレーナー」
テーブルに突っ伏す俺に軽く手を振って、彼女は係員に連れられていく。
ゼッケンに刻印された『ミスターシービー』の文字が、その時だけは酷く呪いの言葉のように思えた。
扉が閉まる。白い部屋には俺ひとりが取り残される。
とりあえず吐き気を抑えなければ、関係者席に向かわなければ。
ペットボトルを潰しながら胃薬を流しこみ、脚を引きずって出口に向かう。
1994年、後に三冠ウマ娘となる2代目ミスターシービーは5バ身差で華々しくデビューを飾る。
それはまるで、ダービー10着からの障害転向に沈んだ〝初代〟ミスターシービーの足跡を塗りつぶすようだった。