それは、彼女と同棲し始めた遠い秋の記憶。
「ねぇ、これ行きたい」
寒い寒いと俺のシャツをひざ掛け代わりに、黒髪の彼女はベッドのへりに座って俺にチラシを一枚差し出す。
ローテーブルには色違いのマグカップがふたつ、カップスープの湯気を立てていた。
「ん、〝シンボリ家秋の一般開放 魅惑の深海ダンスパーティー〟……?」
「そう、あのシンボリのお屋敷のホールで踊れるんだって! 対象はトレセンOBらしいし、一緒に行こうよ!」
「……俺は踊れないぞ」
断るのにそう時間はかからなかった。
俺は運動音痴だったからだ。野球サッカー陸上水泳、何をやっても平均以下の凡人。
今の仕事をしているのだって、弱点を克服しようとスポーツの勉強に励むうち、座学と指導の才能を見つけたからだ。
そんな醜態を愛する彼女に晒したくなかった。
「いいじゃん、ヨシト君のウイニングライブ、アタシ見てみたいな」
「無茶言うなよ……大体、パーティーなら社交ダンスだと思うが」
「えっそうなの!? ますますやりたい」
「嫌だ。大体シービーは正装持ってないだろ」
「アタシ、勝負服まだ着れるよ? まだ夜にも使ってないから綺麗だし、いいでしょ行こうよ~!」
しかし真意を知ってか否か、彼女は猫のようにパーカーの袖を掴んで駄々をこねる。
そのキラキラした瞳とワクワクした顔はあの頃のようで、凄く懐かしくて。
「……わかった。一番高いスーツを着て行く」
俺は折れてしまった。ダジャレではない。
彼女の顔を見た。期待に満ちた表情は一層熱を帯びていく。
突然視界がぶれ、大きな衝撃と共に天井が見えた。
目を見開き点滅させる。彼女の長い腕が俺を掴んで離さなかった。
「シービー……」
「それじゃ、今から練習しなきゃね!」
諦めて目を閉じる。テーブルの上のマグカップは冷めていった。
* * * * *
『〝夢のゲート開いて~♪ 輝き目指して~♬〟』
ラジカセから「ENDLESS DREAM」が流れるダンススタジオ。
今日はシービーとウイニングライブの練習だった。
シービーのダンスはとてもジュニア期とは思えないほど洗練されていた。
しなかやに身体をくねらせる踊りの運びは、シービーの長い手足と細い腰回りを素立ちより何倍にも魅力的に見せている。
「トレーナーも踊ろうよ。楽しいよ」
「……俺は踊れん」
すっかりスイッチの入ったシービーに誘われるが、俺は首を横に振る。
——あの時踊った下手くそな社交ダンスは、俺の思い出に留めておきたかったから。
『〝終わらな~い♪ 夢を連~れ~て♬ どこまでも~♬〟』
やがてカセットテープが巻かれる音と共に、シービーはピタリと決めポーズを静止して見せる。
今だけはトレーナーではなく観客でありたいと思うほどに、今の彼女はこの空間の主役に君臨していた。
——まるで、あの頃の君みたいに。強く、華やかに、誰より輝いていた。
「どうだった? これなら年明けのジュニアステークスもいけるでしょ」
「……あ、あぁ、これなら本番でも問題なさそうだぞ」
「ホント? 素直に「見とれていた」って言ってほしかったな~」
シービーは若干いじらしく唇を尖らせた。突然の図星に口がくぐもる。
見とれていた。それは事実だ。けれど、否定するほどにお前が君に似ていくのもまた、事実だ。
——ごめんシービー。俺はお前のダンスに、誰を見ていたんだろうな。
「……女子校はハラスメント厳しいからな」
謝りたい気持ちを抑え、けれど彼女に疑問を与えないよう、俺はまたはぐらかしを使った。
「ここ、お借りしてもいいですか?」
その時、スタジオの扉が開いてボーイッシュな声が聞こえた。
振り返ると立っていたのは高等部と見間違うほどの風貌のウマ娘。
だが体操服が真新しく若干オーバーサイズなので中等部、それも新入生だろう。
「すまん、もう15時だったな。君は……」
そして、目の前の下級生には見覚えがあった。
黒っぽい前髪からはみ出る白く大きく目立つ流星。ゆるく内にカールした鹿毛のロングヘア。長毛のウマ耳に五角形に輝く翡翠の耳飾り。吊り上がった眉が厳めしい印象を持たせるが、アメジストのように透き通る瞳は丸い目元と合わさって可愛らしい。
そう、確か後輩が契約したとか言ってた——
「初めまして、シンボリルドルフです。トレーナー君がいつもお世話に」
「ルドルフ……てことは、君がオガミの担当か。俺は牧野だ。アイツをよろしくな」
「彼は目がいいですね。うちの専属に欲しいくらいだ」
「そう言ってもらえると嬉しいな。そのまま貰ってくれると助かるんだが」
「屋敷はいつでも狙ってますよ」
大人びているせいだろうか、一回り以上年が離れているにも関わらず、彼女とは話しやすく自然と話題が生まれる。
きっと将来は大物になるだろう。生徒会長は確実だ。
そう思わせるほどの話術の実力を受け、俺は上機嫌になっていた。だが
「ミスタートレーナー、片付けるんでしょ? もう行こうよ」
さっきまでスポットライトを浴びていたシービーは違ったらしい。
さっさとトレーニング器具をかごに纏め、俺のジャージの裾を引っ張って退出を促す。
一人暮らしとはいえ、こうして嫉妬している姿を見るとやっぱりコイツもまだ子供なんだなと実感する。
思い出の中の君はもう少し大人びていた。彼女とは違う、大人の余裕があった。
「中学生は黙ってろ。あと少しだから」
シービーの頭を押さえながら、ふとルドルフの顔を見る。彼女は酷く考え込んだ、脳天を矢で貫かれたような表情をしていた。
数秒の静けさの後、重く、苦しそうに彼女の口が開く。
「中学生……? 失礼ですが、先輩はカレッジクラスでは?」
「うん? アタシ中等部2年だよ? もしかして大人っぽく見えた!?」
「いえ、確か私が子供の頃、深海ダンスパーティーで……そちらのトレーナーと見かけた気がしたんですが……」
その瞬間、矢が跳ね返り俺の棟に突き刺さる。
「まさか」「そんな」の声が頭の中で繰り返し、その先の言葉が浮かばない。
バレるのか? 今ここで、俺の嘘は明かされてしまうのか?
そうなれば彼女は、シービーはどうなる?
俺が衝撃で固まる間も、三日月の彼女は思考を巡らせていた。