「ミスター、どういうこと?」
トレーニング終わり、俺はトレーナー室の壁際に追い込まれていた。
眼前には鋭いシービーの視線。背後では窓が全開だ。キンモクセイの甘い香りが風に乗り冷や汗を撫でていく。
「悪かったシービー、俺は」
「謝らないで、アタシはキミと踊った子は誰かって聞いてるの」
シービーの耳は真っ直ぐ後ろに絞られている。確実に不機嫌まっしぐら。分かりやすい嫉妬だ。
このまま彼女が全力で俺を突き飛ばせば、俺は窓から真っ逆さまでお陀仏だろう。
君のいない世界とはいえ、オガミやシービー、俺には生きる理由がある。ここで殺られるわけにはいかない。
俺は必死に真相を避けつつ納得させられる方便を探していた。
「ミスター、面食いだったの?」
「そんなわけあるか!」
「じゃあさっきの話に出てきたのは誰? アタシに見間違えたって言ってたけど!?」
否定の言葉を並べてもやっかむシービーは治まらず、ついに俺の肩をぐいと掴む。
語気のボルテージもじりじりとあがり、肩は軋みだす。
すまない、シービー。俺はついに真実の断片を口にした。
「……前に付き合ってた奴だ」
「それって男? 女? ウマ娘?」
「ウマ娘だ」
「ふーん……」
ふと、肩を挟み上げる力が消えた。シービーの顔を覗く。
遠くを眺めるような視線。わずかに開いた唇。その表情は〝無〟だった。瞳の奥に静かに燃える黒い怒りを宿していた。
「ねぇ、ミスタートレーナー」
突然、シービーが俺をネクタイを掴み、15㎝はある身長差をなくすよう頭をこちらに手繰り寄せる。
何を逸らすこともできず、俺は静かに重い口を開いた。
「……シービー」
「アタシを選んだのって、アタシがその人に似てるから? その人のこと思い出したからアタシの担当になったの?」
冷たく突き当てられたペリドットの先端が、俺の胸を刺した。
傷口から冷えた透明な血がどくどくと、汗となって首筋を伝う。
何も言えなかった。それは半分嘘で、半分は紛れもない真実だったから。
「っ……! それは……!」
「言ってくれないんだ。『違う』って」
彼女の薄桃色の唇が静かに言葉を吐き出す。その音に期待の色はなかった。
一度放たれた矢は、その指を離れたらもう二度と戻ってこれない。
そんなこと分かっていたはずなのに、俺は何の言い訳も慰めもかけられない。
シービーが歩き出す。俺に背を向け、ドアの方へと向かっていく。
「シービー! どこ行くんだ!」
「キミのいないところ」
抑揚のない声だった。人一人分だけ開いたドアが静かに閉まる。
それから、トレーニングにシービーが来ることはなかった。
[newpage]
1週間後、クリスマスの中山レース場。
この日開催されたひいらぎ賞、シービーはわずかに届かずクビ差2着。初めての敗北を経験した。
原因はスタミナ浪費、直前で俺を見てゲート前で暴れたことが集中力と体力を削いだのだ。
「すまないシービー、全部俺のせいだ」
帰りのパドック、暗いコンクリートの洞穴の中で、俺は立ち去る背中を追いかけた。
絞るような言葉は辺りに冷たく響き、やがて自分の内に向かって跳ね返ってくる。
耳を微かに動かした背中には、いつも感じていた覇気がなかった。
「謝らないで、自分のせいだってわかってるから」
それは励ましだろうか。表情を見せないシービーは悔しさを嚙み潰したような声で俺を突き放す。
だが、元はと言えば俺に原因があるのも事実だった。
俺があの時「違う」と言えなかったから。俺がお前に隠し事をし続けていたから。俺がお前に〝シービー〟を見てしまったから。
シービーが練習に来ない間も、俺は必死にトレーナーノートを書き綴っていた。
思春期の子へのメンタルケア、自律神経を整える呼吸法、君に教えてもらった仲直りの方法……
真実を伝えないまま「信じてくれ」なんて言えないから。だから行動で示そうとした。
彼女に笑って欲しかったんだ。見るたびに古傷が痛んでも、俺には眩しい光だったから。
「だけど、俺がもっとお前とコミュニケーションを取れていれば——」
「謝らないでって言ってるでしょ!!」
だが、俺の願いは担当の叫びにかき消された。
拳をわなわなと震わせていた。その怒りは、誰に向けられたものだろうか。
わずかにこちらに向いた彼女を見る。壁の蛍光灯が反射して筋を作っていた。
視界が歪む、目頭が熱い。俺も、泣いているのか?
熱は目から額へ、額から頬へ、首へと伝っていく。不思議と汗が出ない。
視界はますます歪んでいく。しかし涙は流れない。
その時、頭の奥底で何かが悲鳴を上げる音が聞こえた。
そのまま地面が水面のように歪み、俺は床に倒れ込む。
冷えたコンクリートの感触が厚着をした身体を凍えさせていく。
「トレーナー? トレーナー!?」
意識が途絶える寸前、俺を呼ぶ懐かしい声が聞こえた。