秋の向こうへ、その向こうへ。   作:たいたい35

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劣等感

「今日の中京には五万人を超える来場者が訪れております!立ち見も当たり前のように端から端まで人で埋まっているその様子からは、春のG1戦線への期待の大きさが窺えます。大観衆が目にするのは春秋スプリント制覇か、それとも新時代の幕開けか!まだパドックまで時間はありますが、今から楽しみです!」

 

ずっと遠くにあるはずの実況席の声が、耳元で反響しているような気がしました。私も実況席も、他のお客さんも、みんな同じ興奮を囚われています。久しぶりのG1、胸に手を当ててみても鼓動は止まることを知りませんでした。

 

「もう、アーちゃんってば自分が走るわけじゃないのにすごい顔してる。そんなに緊張しなくても大丈夫だって!」

「私も、トレーナーになって初めてのG1だから、ちょっとだけ……」

「もう、二人してー。あれ、ユウトレーナーは?」

「もうすぐ来るって。ねえアン、あそこにグッズが売ってる」

「待って待って、あたしも行く!」

 

アイちゃんに腕を引っ張られて、ウールちゃんがヒナさんを引っ張って。会場の人混みも合わさってお祭り騒ぎでした。

 

「おー、ぬいぐるみがいっぱい。ペンやクリアファイルに、あっ、アーちゃん見て!コートのもあるよ!」

「ほんとだ、コートちゃんのぬいぐるみ……!」

 

デフォルメされたコートちゃんのぬいぐるみが数体、そこには並んでいました。星が煌めく夜天のような勝負服に身を包んで、笑顔でこちらを見ています。なんてかわいいんでしょうか。私は急いで買い物カゴに入れました。二千円、痛い出費ではありますが、コートちゃんのぬいぐるみなら安いものです。

 

「うーむ、認めたくないけどかわいいじゃん。やっぱりG1を勝つとこういうオシャレなグッズも販売されるんだね。いいなー」

 

ぬいぐるみの端には「阪神ジュベナイルフィリーズ」の文字が刻まれています。私の初めてのG1で、まさに完敗と呼ぶにふさわしい敗北でした。もう何回、コートちゃんに敗北しているのでしょうか。私は本当に、桜花賞を勝てるのかな。私のぬいぐるみは、ちゃんとここに並ぶのかな……。カプセルトイを見ていたウールちゃんが、沈む私の方に駆け寄ってきました。

 

「あ、アーちゃんが曇ってる。こら、今日はそういう気分になるために来たわけじゃないよ!素直にかわいいで買っておけばいいんだって!ほらほら、あっちには去年の下半期に活躍したウマ娘のガチャガチャキーホルダーがあったよ!」

「ふふっ、こっちもかわいいね」

 

私は悩みから逃げるように、コートちゃんのキーホルダー眺めていました。でも、ウールちゃんの言う通り、今日は観戦をする日です。先輩のレースから、これからに繋がる何かを見つけ出さなければいけません。お昼ご飯とグッズを両手に、いよいよ私たちは熱気高まるターフに向かいました。

 

「や、レゾルーラ」

「やあナタリー。モモちゃんは一緒じゃないの?」

「あの子なら今牛丼食べてるよ。どう、調子は。勝てそう?」

 

彼女はボロボロになった練習用のシューズを勢いよく投げつけた。もはや紐さえ機能していないようだった。

 

「ウチが負ける?へへ、へへへ、あははははっ!ありえないありえない!五バ身?八バ身?それとも大差?二着が絶望する顔が浮かぶんだぁ、どうしようもなくタノシミ!」

 

両目を裂けるくらいに開かせるレゾルーラ。レース前とはいえ、控え室は異様な空気に包まれていた。

 

「脚も腕も心臓も肺も思考も、全てがカンペキ。身体が軽くて、超絶好調!だから見てて、極限のウチを」

「大口ばかり叩くところ、昔から変わってないね。そういうところ、嫌いじゃないよ。でも、アドレナリンを出し過ぎると怪我の元になる。気をつけてね」

「そのクセはほんの数週間前に直したんだ。今はもう実力通りのことしか言わないって決めてる。今日のウチのレースは伝説になるよ。短距離はあんま目立たないけど、今日だけは皆ウチの客。スプリントが電撃と呼ばれる理由、モモちゃんにもナタリーにも見せたげるよ。へへっ、タノシミダナァ」

 

その透き通った声は、高揚しているようで無機質だった。こんな彼女を見るのはナタリーも初めてのはずだったが、うろたえることもなく、焦ることもなく、至って冷静に返した。

 

「勝てたとしても、あたいはレース前にビビってるあんたの方が好きだったかも。念願のG1タイトル、おめでと。よかったね、勝てて」

「その余裕が気にくわないって言ってんの。血を吐くほど努力してるはずなのに、何年も結果が出せずドン底にいる奴の気持ちなんて、お前には分からない。常に上から他者を見下したように会話するお前が嫌いだった。一生最強で華やかな立場のくせに、底辺を知った気でいるお前が……!」

 

パリン、マグカップを床に叩きつける乾いた音が反響した。激情を抑えられないレゾルーラに怯むことはなく、

粉々になったマグカップを見ることもなく、ただ冷たい瞳でレゾルーラを見つめていた。

 

「その大嫌いな最強に今まさに自分がなろうとしてるって、あたいは言ってるんだけどな。まあいいや、レース、頑張って」

「おい、ナタリー!」

 

ドスの効いた叫びも虚しく、空気に溶けていった。ナタリーはポケットに両手を突っ込んで、優雅に廊下を歩いていた。

 

「全部、全部今日のレースで……。今日、全てが変わるんだ……!」

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