ターフで準備運動の後、軽くランニングしていると、ユウさんがやってきました。
「ごめんね、結構遅れてしまった。もう結構走ってたんだね。そういうことなら今日はちょっとメニュー変えようか」
周りのウマ娘たちも辛いトレーニングメニューの中で、その目に期待と希望を宿して一生懸命でした。ユウさんは恐らく練習メニューが書かれたバインダーを見ながら、何か考え事をしているようでした。
「今日からしばらくは、足の柔軟性、主に足首の柔軟性を鍛えていこうと思う。アリアンスの武器であるブレない体幹を最大限に活かすために必須になる。足首を柔らかくしても、バネの力で弾みをつけて前へ前へと進むのは、なかなか難しいんだ。でもアリアンスの平衡感覚があれば、スムーズに足首の力を前へ伝えられる。そうすればさらに大きな差になっていく。スピードを上げるためにたくさん走ったりすることは大切だけど、まずはここからやっていこう」
「分かりました。何をすればいいですか」
「ありきたりかもしれないけど、まずは柔軟から、準備運動とかしてるだろうし、もうやったかもしれないけど、結構多めにやってもらう。その後で少しずつ身体を走らせていこう」
トレーナーの方たちはやっぱりすごいです。ウマ娘一人一人を正確に分析して、的確なアドバイスを与えてくれます。その想いに応えられるよう、私も頑張らないと。気合を入れるように、足首を十分に回して、色々なストレッチを始めました。
時刻は午後六時、ターフをなかなかのスピード駆け抜けて、それでユウさんから練習終了のお呼び出しがかかりました。
「今日はお疲れ様。絶対にトレーニングの後はストレッチをするように。全速力で走ってもいいけど、あくまでもしばらくは柔軟優先でお願いします。まずストレッチ、その後に走行練習、最後にストレッチ。怪我防止にもつながるから、忘れないように。ほんと、初日だけどよくやってくれた」
「明日からもがんばりますね。お疲れ様でした」
スポーツドリンクを奢ってもらいました。言われた通りにストレッチをして、汗を拭きながら寮へと向かいました。肌着を抜ける夜風が涼しかったです。
「アーちゃん、お疲れ様。どうだった、あのトレーナーは」
「とても熱心に指導してくれました。もっと頑張らないとですよね」
「変なやつだったらぶっ飛ばしてたけど、あの調子なら大丈夫そうだね、アーちゃんに目をつけるセンスもバッチリみたいだし」
ナタリーさんが、くくっと八重歯を見せて笑っています。ユウさんはナタリーさんのお墨付きをいただきました。ベッドに力なく横たわる私を見て、気を利かせてお茶を入れてくれました。温かい緑茶は、喉を通る瞬間まで存在を感じられて、疲労困憊の身体には染みました。
「風呂入っといでよ。今日はもう疲れてるでしょ」
「はい、そうします」
「一緒に入る?」
「だ、大丈夫ですから。からかわないでください」
思わず顔を紅潮させる私にナタリーさんはまた八重歯を見せてくくっと笑いました。そんなふうにからかわれるのはあんまり慣れていません。高まる含羞の思いにさっさと部屋を出て、小走りで浴場へと向かいました。浴場のドアを開けると一瞬にして温かい湯気に包まれて、それは一日取り組んだ本気の練習の疲れを包み込むようでした。今日のお風呂はいつもと全く違って、疲れが湯船にすっと吸い込まれていくような、お風呂と一体化して溶けていってしまうような気持ちでした。こんな感覚は初めてです。あまりにも心地良いので、一時間近く入ってしまって、のぼせながら、半分意識のないまま部屋へ戻りました。
「まあまあ長く入ってたね。これまたお疲れ様。そんな顔真っ赤にして、湯気出てるよー。ほんと、真っ白で綺麗な肌だねー」
私の頬をツンツン突いてきます。正直、もう動けません。ナタリーさんの指を払う気力も湧きません。晩ご飯も食べないでここまでやってきたので、お腹もペコペコです。
「お邪魔しまーす。アーちゃんいますか?あ、先輩、どうもです。そのお姫様がアーちゃんですか?リボン解くと印象変わるね、ほんと美人さんだなー」
「持ってくかい。この子まだご飯食べてないから、ぜひ連れてってあげてくれると助かるなー」
「それならちょうどよかったです。アーちゃん、食堂へレッツゴー」
お風呂上がりで少し艶かしくなったウールちゃんが部屋を訪ねてきました。髪からフルーツの良い匂いがしました。そのまま話の流れで、疲れ切って足が棒のようになってしまった私を引っ張っていくのでした。
「七時かー。結構遅くなっちゃったね。アーちゃん眠そうだし、激辛カレーでもいっとく?」
「もう、ウールちゃん。私が辛いのダメなの知ってるくせに」
他の子たちはもう夕食を食べ終わったのでしょうか。全く他のウマ娘がいないというわけではないのですが、時間の割には閑散としていました。食堂の大きな窓からは白月が顔を覗かせていて、いっそう静寂が意識されました。
「じゃああたしはにんじんハンバーグひとつ。アーちゃんは甘口ねー」
辛いのは苦手ですが、中辛くらいなら食べられるのに。ウールちゃんは私をお子様だと思っています。二人揃えて手を合わせ、いただきます。カレーの刺激に、さっきまではすぐそこまで迫ってきていた眠気は、どこかへ飛んでいってしまいました。スプーンの音が広い食堂に反響しています。
「このカレー、あんまり甘くないよ」
「お、その調子じゃ中辛もいけないかな?」
「そういう意味で言ったんじゃないです!」
ニヤリと狡猾な笑みをウールちゃんが見せました。さっきのナタリーさんと少しだけ似ていました。ウールちゃんは早々に食べ終わっておかわりしていました。大食いです。さすがウマ娘。私もそうなのですが。食は細い方だと自分でも思います。
「ごちそうさまでした」
二人の声が響き合います。コップの水を飲み干して、食堂を出ました。明日の授業や用意のことを確認して、お互いの部屋へ戻っていきました。部屋へ戻ってきた途端鋭い眠気が襲ってきたので、なんとかそれに抗いながら歯を磨きました。
「じゃ、電気消すね」
その日は、夜の出来事が全部夢に思えてしまうほどよく眠れました。