控え室、衣擦れの音一つ立てることなく彼女はただ座っていた。
「どうだった、今日のレースは」
リボン、取れてるよ。紅葉のリボンをいつものように白髪に結び直してあげた。
「アーちゃんの髪はサラサラだね。いつもと変わらないや。リボンも決して高いわけじゃないのに綺麗に手入れされてて、ありがたいね。なんだ、心配してきてみたけど、いつもと変わらないじゃん」
俯くアリアンスが言葉を返すことはない。まして、ナタリーと顔を突き合わせることなどできるはずがない。どこまでも後ろめたいのは、ナタリーとの約束を破ってしまったことだった。
「聞いた?一着の彼女、レコードだったらしいよ。いきなり芝に殴り込んできた無名がレコードで一冠目を奪取、まったく、一体誰がそんな強いウマ娘を育てたのやら、アーちゃん知ってる?」
白々しい態度で口角を上げて言った。どこからか持ってきたポッドでコーヒーを二杯注いで、一つをアリアンスに差し出す。先輩が注いだんだから、飲まないと!そう茶化した自分はその熱さに思い切り中身をぶちまけていた。あちちちっ、茶けながらもやがて拭き終わり、彼女の一人芝居が終わった頃、アリアンスの身体が刻むように一瞬動いた。
「責めないんですか」
「もちろん」
即答、一瞬の迷いもなかった。ようやく口を開いたアリアンスとは対照的に。しかし大いに慈悲を含んだ表情で、そこには怒りなど微塵もなかった。ナタリーは今、大層なことをやり切った満足感に満ち満ちている。自分が走ったわけでもないのにそう錯覚してしまうほど、アリアンスの走りを評価していたのだ。
「あたい、アーちゃんに色々言ったよね。勝ち負けはどうでもいいって言いながら、最終的には、勝てるよ、勝ってほしいなんてお願いしたり、難しいアドバイスばっかりしたよね。あたいは感覚派のウマ娘だったから、そういうのは向いてなかったのかも」
「もう、退学しようと思います」
「そっか。いやー、楽しかったなあ。あたいの人生で一番輝いていた時期だったかも。それこそ自分が走っていた時よりも、ね。あたいの夢を乗せてアーちゃんは日が暮れるまで毎日走り続けて、ほんと、そんな後輩を持てて幸せだったな。今まで本当にありがと、アーちゃん」
なんで、なんで感謝するんですか。そう言いたいのに、嗚咽が邪魔をした。とっくに枯れたはずの涙がまた溢れてくる。見せたくない、こんなくしゃくしゃな顔、ナタリーさんに見せたくないです。これ以上ここにいたらおかしくなってしまう気がして、決心が鈍ってしまうような気がして、アリアンスは席を立った。ようやく覚悟を決めたのだから、もう邪魔をされたくない。それを見たナタリーは、至って冷静に、自分のスマホを彼女の目の前に突きつけた。
「最後にこれ、見てよ」
「さっきの、レース映像……?」
最後の直線、私が無様に堕ちていく様子が克明に記録されています。滑稽な私を最後に見せつけて、ナタリーさんは一体何をしたいというのでしょうか。しかし、そんな姿を見せられたところで、アリアンスには何も響かなかった。むしろ、どこか怒りめいた感情さえ沸々と湧いてくる。
「違うよ、レースじゃない。聞こえる?観客の皆の声が。よく耳を澄ませて、じゃないとこぼしてしまうから」
大音声の中に、アリアンスを呼ぶ声が確かに記録されていた。呼び方も高さも大きさもバラバラだったが、その声はフルアダイヤーがゴールを迎えるまで一つたりとも止むことはなかった。ナタリーやウール、ユウトレーナーだけではない、アリアンスの想像を遥かに超える人数が、彼女の勝利を確信して、声が枯れるまで応援していたのだ。
「一個たりとも聞き逃しちゃダメだよ。どう、どれか一つでも、途中で途絶えたものがあった?」
「何が、言いたいんですか」
「最後の最後、諦めたでしょ、勝つのを。足が止まってたよ」
もう敵わない、そう思いました。ゴール番前の際、数十メートルの地点でアイちゃんに差し返されて、私は追うのをやめてしまいました。もう無理だ、無駄だと心が折れて、敗北を悟った途端に足が止まってしまったのです。ナタリーさんはその瞬間を見逃していませんでした。
「あの瞬間、会場で諦めたのは、他でもないアーちゃんだけだったよ。応援している誰もが、彼女が先頭でゴールするその瞬間まで、いや、ゴールした直後まで、アーちゃんが絶対に勝つと信じていた。どれだけ負けることがあっても、立ち上がることさえできればウマ娘は何度でも走れるんだ。でも、諦めること、自分を信じられなくなってしまったら、おしまいなんだ」
それを教えてくれたのは、他でもないアーちゃんだよ。彼女は優しく微笑んだ。
「エリザベス女王杯の日、あたいは自分が信じられなくなった。ああ、ここで負けるんだ、そう諦めてしまった。その時、私を信じさせてくれたのは、アーちゃんの全力の応援だったよ。その時気づいたんだ、ウマ娘はどれだけ凶悪な自己嫌悪に陥っても、応援さえあれば踏ん張れるんだって。周りが自分を信じてくれれば再帰できるんだって。アーちゃんは、違う?」
ナタリーは優しく手を伸ばした。しかし、アリアンスは俯いたまま動けない。罪悪感、恐怖、絶望、あらゆる自責が彼女を縛りつけ、前を向くことを拒絶する。私は、まだ進めるのかな。いけない、せっかく、せっかく後ろを向く決意をしたのに。ナタリーさんはいつもそうです、私をまるで拗ねた娘のように扱って、軽々と良い気にしてしまうのです。こんなに深刻に悩んで、追い込まれて、辛苦の果てに退学の決意をしたはずなのに。
「大丈夫、アリアンスの物語はまだ終わってない。むしろここから、アーちゃんはさらに強く大きく羽ばたくんだ。ほら、あたいの目の前にいるのは、樫の女王?それとも夢を捨てたただのウマ娘?」
「私は……!」
ついにナタリーと目を合わせたアリアンスは、手を伸ばし力強く握りしめた。耳を真っ赤に染めてまぶたを腫らせていても、その瞳には輝きが再び宿り、進もうとしていた。アリアンスの中に浮かんだのは、レースの悔しさやトラウマだけではない。それを乗り越えた先の勝利の喜び、そして皆と過ごした学園の日々だった。それを忘れることなど、いよいよ彼女にはできなかった。
「もっと走りたいです……!いっぱい負けて、泣いて、それでも走って、勝ちたいです……!学園でもみんなや新しい友達と一緒に笑い合いたい……!でも、私にはもうそんな資格は……」
「ごめんの一言でいいんだよ、そんなの。アーちゃんが何をしでかしたところで、結局みーんな戻ってくるのを期待してるんだから、適当に謝ってやればそれで済むさ。ま、あたいに言わせてみれば謝る意味も分からないけどね」
「そ、そうなのかな……」
アイちゃん、全力で向かってきてくれたのに、突き放してごめんね。コートちゃん、冷たく言い放っちゃってごめんね。今の私のこの気持ち、伝えないと。ちょうど、ウイニングライブが始まろうとしていました。
「いっぱい悩んで、泣いたんだね。今日のライブは飛んじゃおうか。純情な乙女の、ましてアーちゃんのそんな顔、会場の人には見せられない。だいじょーぶ、あたいに唆されたことにすればいいから!クラスのみんなにまた学園で会えばいいよ」
「本当に、いいんでしょうか」
「ほら、大切なトレーナーが車を用意してるよ」
人に見られないようにレース場を後にすると、そこには本当にユウトレーナーの姿がありました。暗闇に差した最後の光をもう見失わないように、彼女は踏みしめながら歩き始めます。
「ナタリーに任せて正解だった。飄々としているようだけど、アリアンスのことになるときっちりやってくれるから頼り甲斐があるよ」
「まあね。あとあたいはG1ウマ娘のデュエットナタリーだから、軽々しく呼ばないように。じゃ、あとはお願い、あたいはライブを観に行かないと」
ユウさんの車に乗せられて、私は寮に戻ることになりました。同室がナタリーさんで良かったとしみじみ思いながら、スピーカーから流れるラジオに意識を向けています。丁度流れていた桜花賞の解説が、私への試練のようでした。
「本当は中継とか映せるといいんだけど、どうも機械に疎くて。今日は本当にお疲れ様。コートちゃんもアイちゃんも、二人が全力を出せたのはアリアンスがいたからだ。今年の桜花賞は例年見ないようなハイレベルな競争だったと盛り上がっていて、僕としても、ワンツーが担当ウマ娘だなんて鼻が高いよ」
「えっと、そうですね」
ユウさんは何を思っているのでしょうか。私が身構えていた質問が、いつになっても飛んできませんでした。寮まであと数分というところまで差し掛かっても、結局他愛もない話で終わってしまいました。
「次のオークスに向けてだけど、やっぱりこの時期の2400は誰にとっても未知の距離、焦る必要なんかどこにもない。少しずつ身体を慣らしていこう」
「ごめんなさい、私、ユウさんの期待に応えられませんでした」
結果について自分から口を開けと煽られている気がして、アリアンスは歯切れ悪く謝った。僕はナタリーちゃんと違って気の利いた言葉は言えないかもしれないけど、そう述べてから言葉を紡いだ。
「アリアンスが謝ることなんて何もない。むしろ勝たせてあげられなかった僕の方こそ謝罪をするべきだ。アリアンス、ごめん。でも実を言うと、少し誇らしいんだ。君は今日この大舞台でついに、コートちゃんの徹底マークを振り切って先着したんだ。それが何よりも嬉しかった。オークスでは今度こそアリアンスが栄冠をもぎ取るんだ、そう確信させてくれる素敵なレースだった。謝意と同時なのはいかがなものかと思うかもしれないけど、夢をありがとう、アリアンス」
「そんな、私の方こそ」
「ほら、着いたよ。今日はゆっくり休んで、明日また元気に会えることを楽しみに待っているよ」
大舞台で見せた失態の数々を考えれば慙愧が堪えない。しかし、この胸の高鳴りは、確かにアリアンスを明日へと向かわせる希望だった。大丈夫、私はまだやり直せる。学園前、桜の花びらが舞っている。もう見たくないとさえ思ったそれを、アリアンスは数枚、手のひらで受け止めた。
「お母さん、お父さん、私、まだ頑張るよ」
解けたリボンを結び直して、力強く踏み出した。