はあ、ドキドキします。初めてこのドアを開けた時はまだ、期待で緊張を誤魔化すこともできましたが、今回はそうはいきません。罪悪感と緊迫で押し潰されそうでした。でも、私はみんなに謝って、前に進むと決めたんです。何を言われても受け入れて、新しい自分になってみせる、そう誓いました。だから、この程度で怯んでいてはいけません。
「アーちゃん、いないね。いつもならもうとっくに一限の準備まで終わってるはずなのに。まさか、ほんとに……」
「ふ、ふん、あんな人知らないわ。大体少し負けたくらいであんなに塞ぎ込んで、その程度だったってことよ。私は一人でだって走り続けるわ」
「随分とおしゃべりじゃん、この寂しがり屋さんめ。ほんと、口下手だね」
クラスの空気は澱んでいる。特にフルアダイヤーの状態は顕著で、耳は垂れ、トレードマークの黒髪は手入れされておらずみすぼらしかった。まるで数日間研究に没頭していた科学者のようだ。
「アンタ、クマすごいよ。寝てないでしょ。ほら髪だって。お手洗い行っておいでよ、櫛貸すからさ」
「ダメ、私の髪はアンのもの。アンにしか触らせない」
「あーあー、そうだったね。いつもアーちゃんが楽しそうにアンタの髪いじってたの思い出したよ。このクラスはアーちゃんがいないとみんな頑固になるんだから」
桜花賞を制し一躍トップに躍り出たフルアダイヤー。しかしその目はとてもG1タイトルを手にしたウマ娘のものとは思えなかった。風の噂は速く、ウイニングライブの直後、学園への帰路の中でもサインを求める声が後を絶たなかった。記者にも待ち伏せされ、本来なら声高らかにしてやったりと取材に応じるところだが、そんな気さえ起きなかった。幾千万の名声より、アリアンスの笑顔一つの方が彼女には価値があった。けれど、その笑顔はもうどこにもない。
「何もできなかったあたしが言えたことじゃないか……」
ウールまで頭を抱えて黙り込んでしまった頃、大きな音を立ててドアが開いた。
「みんな、ごめんなさい……!」
容姿に似合わぬ大声で三人の元に駆け寄ってきたのは、もちろんアリアンスだった。クラスの視線が彼女に注がれる中、一直線にフルアダイヤーの席へ。これには驚きを隠せなかった。
「あ、アン。どうして……」
「アイちゃん、この前は本当にごめんなさい。本気で向かってくれたアイちゃんに応えられるようなレースができてなかった。焦って、何も見れてなくて、最後には諦めてしまったの。こんなの、誰が見たって納得できないよね。だから、もう一度だけ……」
当日、決して合わせることのなかったその瞳には、確かにフルアダイヤーが反射している。彼女から滴る涙は希望の朝日に照らされていた。ボサボサの髪を気にかけることなく、優しくアリアンスを抱擁した。それは徐々に熱く、力強くなっていく。もう言葉はいらない。
「何も、気にしてないから……。アンは戻ってきてくれるって信じてた。良かった、本当に良かった……」
「あ、ずるいずるいアンタばっかり。あたしだって信じてたし!」
そんな光景を横見で見るウマ娘が一人。背を向けているというのに、耳ばかりピクピク動かしている。そんな彼女の前にアリアンスは移動して、再び深く頭を下げた。
「コートちゃん、本当にごめんなさい。桜花賞の時の私は、コートちゃんのライバルとしてふさわしくなかった。でももう何があっても目を背けたりしないよ。オークスで、私の全てをぶつけたいの。だから、もう一度だけ、私にチャンスをくれないかな」
フルアダイヤーとは対照的に、アリアンスの言葉に耳を傾けようとしなかった。尻尾を槍のように突きつけて敵意を剥き出しにしている。至って冷淡で、表情も伺えなかった。
「言葉でならどうとでも言えるわ。ウマ娘ならレースで証明する、常識でしょ」
「その真っ赤な顔、アーちゃんからは見えてないけどあたし達には丸見えだからね。そういえば、陰で一番しょげてたのは誰だったっけなー。『私が言い過ぎたせいだわ……』、『アリアンスさんがいなくなったら、私は何のために走ればいいの……』ずっとアーちゃんのこと考えてたくせに、ほーんと、素直じゃないなあ」
「わざわざバラさなくてもいいじゃない!」
みんな分かってるよ、コートが一番、誰よりもアーちゃんを認めてたことくらい。そう優しく告げた。これまで何回もアリアンスとぶつかってきた彼女には、今の決意が嘘ではないことなど分かりきっていたのだ。だからこそ、色々と毒を吐いてしまった手前、どうしても間が悪く、恥ずかしかった。教室にアリアンスが入ってきた時、一番に耳が動いたのは彼女だというのに。
「コートちゃん、そうなの?」
「な、何よその顔はー!私だって心配くらいするわよ!ああ、もう、あんまり顔を見ないで!」
「仲直りも済んだことだし、放課後みんなでお出かけしよう!強制だから、ほら、アンタも!」
「え、なに、ちょっと。私は別に……」
「アイちゃん、一緒に行こ?」
ああ、私はあなたのその笑顔が見たかったから桜花賞に出走したんだよ。そう口にするのは叶わないけれど、顔はすっかり赤かった。こんな能天気バカの誘いなんて断ってやろうと思っていたのに、私はどこまでもアンに夢中なんだ。フルアダイヤーが考えていた放課後のプランが一気に白紙になった。
「アンが言うなら……」
「よし決まりね!四時に駅前のでっかい時計の前に集合だよ!遅刻はパフェ奢りだから!」
「はあ、ほんとにこの子は……」
良かった、ここを去らなくて本当に良かったです。私にとって学園は、もはやレースだけの場所ではなくなっていました。パッション溢れるウールちゃんと、クールでキュートなアイちゃん、そして、真面目で最強、私のライバルのコートちゃん。みんなと一緒に過ごす幸せ、レースには無縁のこの感情が、私をレースに留めてくれました。それだけではなくて、ユウさんとヒナさんがいて、お父さんやお母さんも支えてくれているんです。私が敗北の絶望に打ちひしがれていた先に見たのは、止めどない感謝でした。どんなレースでも、どんな結果でも、忘れてはいけないもの、ナタリーさんが伝えようとしていたことが少し分かった気がします。絶対に負けられない戦いで、勝敗ばかり気にしていた私は、ようやく正しい方向を見て、大きく踏み出せた気がします。
「うふふっ、今から楽しみ」
いつもよりちょっぴりオシャレに着飾って、スキップで待ち合わせ場所に向かいました。