「アリアンスちゃん、頑張ってください!ずっと、ずっと応援してますから!」
「目、離さないから」
桜を運んでいた春風はもう、欅の向こうに消えてしまいました。今は樫に挑むウマ娘たちを試すように髪を靡かせます。
「一人にさせてあげようって言ったんだけどこの二人ったら聞かなくてさ。そういうあたしも、アーちゃんを見てたら気が引き締まってきて、緊張してきちゃった。自分が走るわけじゃないのにね。コートの控え室にも行ったんだけど、空気が読めてないって門前払いを食らっちゃった」
「みんなの気持ち、とっても嬉しいな」
差し入れのクッキーを一枚口に入れて、胸を落ち着かせます。
「ユウトレーナーは?」
「今朝、お迎えにやってきてくれたの。頑張れって、優しく言ってくれて……」
「へぇ、朝早くから二人きり、ねぇ」
「そ、そういうのじゃないから……!」
特別な場所の、いつものやりとり。身体中がこわばっていたはずなのに、言葉だけは自然と口から出てしまいました。
「緊張、しないわけないよね。だからせめて、あたしは普段の言葉で、普段の表情で、いつもの時計塔下の待ち合わせみたいに、アーちゃんの帰りを待ってるから。さ、二人とも行くよ、喧嘩しないの」
「な、何があったのかな……」
いつのまにか口を尖らせ口論していた二人を引き連れて、長い廊下を曲がっていきました。ウールちゃんの尻尾が見えなくなった途端に襲いかかってくるのは、心臓が止まってしまいそうな恐怖と孤独。押し戻しても押し戻しても、ポンプのように這い出ようとしてくるのです。けれど、それに対抗するための言葉を、ウールちゃんは残してくれました。私はただ、待ってくれている人の下へと帰るだけなのです。ターフを駆け巡って汗を流し、寮に帰るという毎日のルーティンの延長、ほんのそれだけの話。
「行かなきゃ」
踏み出したブーツの足音は、確かに府中に広がっていった。
「樫の女王は夢舞台。選ばれたのは十八人のウマ娘。カワイイの一言では済まされない情熱と渇望の結実は、果たして誰にもたらされるのでしょうか。トリプルティアラ第二冠、オークスの発走です!」
大歓声がゲートを押し開け、全員同時に芝を蹴り上げた。アリアンスは七番、危なげなく中団に取りつき、冷静に冷静に、ひたすら心を落ち着かせ、周囲を確認する。大丈夫、息は合っている、そう自分に言い聞かせていた。
「さあ誰が行くのか誰が行くのか、押し出されるような形で八番が先頭に。これを見るように二番手は十番と人気の一角ビジョンスター、中団は固まっています、一番人気コープコートはやはり最後方」
アリアンスの呼吸は安定していた。皆が牽制を飛ばし合い、大きく勝負は動かぬまま、混ざり合う息遣いの中にひっそりと埋もれるこの感覚。向正面に差し掛かろうという中、客一人一人を注視できるほど彼女は落ち着いていた。皐月の爽やかな風を全身で乗りこなし、周囲の激しい蹄鉄の音に、身体が自然とセッションを興じる。
「ヒュン」
頬に切り裂くような風の流れを感じました。身体が少し重たくなったと同時に、先頭がペースを落とし、多少開いていた差も少しずつ縮まっていきます。
「予想通り……っ!」
今まで感じたことのない高揚感、会場の皆と一つになってしまったかのような一体感。脚を削られるどころか、自分を軸にレースが動いているように錯覚してしまうほどの絶好の展開。これなら、とアリアンスは平均ペースを確信し、無理に抜け出さずじっと耐えたまま最終コーナーを迎えた。
「最終コーナー、集団は一気に縮まって横一線!十番が上がっていった上がっていった!先頭変わって十番、同時にビジョンスターも力が入る!」
大外まで十八人が一斉に広がって最後の直線。向かい風を切り裂き、呼吸を捨て、前へ前へと蹄鉄を抉らせる。
「500m長い直線!オークスは目の前だ!先頭変わってビジョンスター!六番も外からやってくる!」
「空いた、今、今しかないっ!」
広がった十八人、アリアンスの進路は簡単に生まれ、導かれるように両足に力を入れる。絶対、絶対に勝つんだ。観衆の声援に背中を押され、恐怖と不安、絶望を斬り払い、彼女は必死で駆け上がった。
「そして内から、内からアリアンス!残り400!コープコートはまだ後ろ!ビジョンスター粘る!十三番も飛んできているが!ここで先頭アリアンスに変わった!あと300!」
「もう、もう負けたくない……っ!私は、みんなの気持ちに応えるんだ……っ、大好きなみんなのために、絶対に、私が勝つんだぁぁああ!」
残り200、二番手ビジョンスターとの差は半バ身、一バ身と広がっていく。控えめな自分、その勝利への渇望を曝け出し、汗が目に入っても無我夢中で腕を振り続け、限界を迎えた足を前に進ませ続けた。誰もがアリアンスの勝利を確信した。
「あっ……」
悪寒がした。鳥肌が止まらない。耳鳴りが鼓膜を破ろうとしている。視界が歪む、勝利が歪む。「ナニカ」が全力で後方へとアリアンスを引き摺り下ろそうとする。二度、三度?違う、何度も味わった劣等感が、牙を剥いて超音速で迫ってきた。
「なんとなんと、外から外からコープコート!最強女王が大外から豪脚一閃!アリアンス粘る、アリアンス粘る!コープコート三番手、二番手!凄い勢いだ!一瞬にして抜き去っていく!」
右に突風を感じました。内ラチに吹き飛ばされてしまいそうなくらい、強烈な。何度も味わった屈辱と絶望。その正体に気づいた時にはすでに、目の前には栗毛の天才がいました。
「なんでっ、なんでなんでなんでなんで……っ!」
足が震えています。私は怯えているのです。あと一歩のところで、ソレは絶対にやってくる。私の前に立ち塞がる。桜花賞のアイちゃんが、目の前の彼女に重なりました。封印し、抑え込んでいた呪いが私の全てを鈍らせました。
「負けられないっ、負けたくないのにっ……!」
恐怖で足がすくみ、残り100mのところで差は瞬く間に広がっていきました。ぷちっ、皮肉なほどかわいらしい音を立てて、私の夢は切れました。
「アリアンス違うっ!諦めてはいけない!コートはもう限界だ!作戦だ、アリアンスを絶望させるためだけの虚勢なんだっ!騙されちゃいけない!頼む、走ってくれっ、アリアンス……っ!」
ユウは必死に叫んだ。周囲の視線なんで気にせず、涙ぐんで大人気なく言葉を届かせようと。しかし、そんな遠くにいては彼女に聞こえるはずもない。
「いけるっ、いけるよアーちゃん!頑張れ、あと少しっ、あと少しだからっ!」
「アリアンスさん!あなたが最強ですっ!絶対に諦めないでっ!」
「アン……、負けないで……」
仲間たちも声が枯れるまで叫んだ。しかし、それがアリアンスに届くことはなかった。
「私が、女王よ……っ!」
「コープコート、今一着でゴールイン!距離延長もなんのその!ジュニア級女王の実力を遺憾なく発揮し、オークスを制しましたー!」
心臓が爆発しそうだった。私はついに、クラシックを制覇した。大歓声に呼応して、全身の血液が沸騰しそうになる。これが勝利の喜び。血の滲むような努力と途方もない不安、果てしない緊張の先のカタルシス。私は思いきり、観衆に向かって両手を振った。
「アリアンスちゃんは対応力が強みだけど、その分崩れれてしまうとそこからは脆い気がするの。桜花賞の時も、最後の直線、フルアダイヤーちゃんが予想外に突っ込んできて、ダメだと思って崩れてからは急に失速してたの」
ヒナ、あなたの言う通りね。息を切らしながら、樫の女王は呟いた。そして少しずつ、アリアンスの方に近づいていった。黙して地を見つめる彼女の表情は窺えない。
「圧倒的な加速力を見せつけること、これだけに心血を注いだの。もちろんそんなことをすれば私はすぐに失速する。けれど、アリアンスさん、あなたと私では圧倒的な実力差があると虚勢を張るには十分だった。あなたに弱点があるとすればそれは、『柔軟すぎるがゆえに、心が折られてしまった時にどうしようもなく堕ちてしまうこと』。最後まで諦めなければ私は負けていた。でも、桜花賞も乗り越えたアリアンスさんなら、絶対に克服すると信じているわ。あの日の言葉、忘れた日はなかった。何があっても目を背けたりしない、それが嘘じゃないなら前を向きなさい。虚無に打ちひしがれている暇はない。それじゃ」
力強く身体を反転させ、コープコートは去っていく。涙はすっかり枯れていた。