秋の向こうへ、その向こうへ。   作:たいたい35

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ウールの虚無

「これからはパワーも課題ね、踏み込みの強さも意識して何本か走ってみないと。芝が渋ったら走れないなんて言い訳、女王のセリフじゃないもの」

 

オークスの優勝カップが棚で光り輝き、その隣には満面の笑みを浮かべる勝負服姿のコープコートがいる。ヒナの自慢の一枚だった。阪神JFのカップはどうやら、あの鼻につくトレーナーに持っていかれてしまった。何がなんでも自分の手柄にしたいらしい。もう会うこともないだろうと考えていたので、特に気にも留めなかった。今はただ、あらゆる景色が晴天のように快く澄み渡っている。

 

「秋華賞にはまだ時間があるし、夏合宿だって控えてる。ゆっくりじっくりやっていきましょ」

「か、貫禄が出てきたね!」

「ふふっ、大きな肩の荷が一つ、下りたからかしらね。さすがの私もちょっと休憩させてほしいわ」

 

オークスのレイに恍惚としている。樫の女王だけは誰にも譲れなかった。私とヒナ、二人の力で勝ち取った勝利。あの先頭の景色は、彼女にとって何よりも価値があるものだった。一着の瞬間、緊張も興奮も苦悩も何もかもが身体中から解放されて、喜びに震えた。私という存在の意味を果たしたような気がするというと大袈裟だけど、代々続く名家の強さを証明できたことが何よりも誇らしかった。

 

「私も夏合宿のためにたくさんの人に声をかけて、コートちゃんがいっぱい練習できるように頑張るね……!あわわ、私みたいな新人が相手してもらえるかな……」

「何を言ってるの、あなたはもう担当ウマ娘にオークスをもたらした敏腕トレーナーなのよ。むしろ周りから慕われ、アドバイスを与える立場にいるってことを理解して。例えるならそう、出待ちをされる人気アイドルだわ!」

「やっぱりちょっとテンション高いね」

 

トリプルティアラにかける思いの強さは知っていたけれど、ただ彼女の勝つ姿を見たくて漠然と彼女の走る姿を見つめていただけというのも正直だった。しかし最後の直線、コートがアリアンスを差し切ったその瞬間、いやむしろ、さあここからと速度を上げ始め、歓声が広がっていくその刹那に、ヒナと彼女の視点が同調したような気がした。世代の頂点、その称号が背負うものは、あまりにも眩しすぎたことをヒナは理解したのだ。なんて美しく可憐で、雅なのだろう。血の滲むような努力の果てに掴むことができたのだ。ヒナにとってもこれだけ誇りに思えることはなかった。と、言い聞かせても、自分が未熟である点を一切譲る気はない。

 

「もう、誰もまぐれだなんて言わないのに。強いウマ娘の実力をその通り引き出させることも、そう簡単なことじゃないのよ。もっとニヤニヤしなさいよ!ほら、ほら!」

「あはは……」

 

ふと窓の外を見ると、ターフで白い尾が激しく揺れていた。一瞬のうちに加速し、閃光のように駆け抜ける。遠くにいるはずなのに、その走りには強い焦燥がまとわりついていた。

 

「ここからでも見えるわ、アリアンスさん、すごい練習量ね。足壊さないといいけれど」

「だ、だからって、コートちゃんは自分の練習をすればいいんだよ……!」

「ふふっ、分かってるわよ。ヒナはもう少し私を信じなさい!無茶だけはしないって約束したじゃない」

 

そ、そうだよね。ヒナは間が悪そうに顔を赤らめた。

 

 

 

「ここにいるって伺ったから。ウール。いるかな」

 

暗黒に古びたランタンの光だけが、扉を隔ててうっすらと届いている。返事はないけれど、そこには確かにウールの気配があった。しばらくの静寂の後、小さな返事が低い声で聞こえてきた。

 

「何を言われてもあたしは戻りません。帰ってください。もう、疲れたんです」

 

アリアンスが今の言葉を聞いたらきっと、こんなのウールちゃんじゃないって怒るのだろうか。ダービーで大敗したあの日から彼女はトレーニングに来なくなった。あれだけ燃やしていた下剋上の闘志は、当日になってすっかり失せてしまったようだった。彼女に何があったのか、頭痛がするほど思考を巡らせたが結論は出ない。

せめて一言だけ、ウールの言葉を聞きたかった。

 

「そうか、分かった。また来るよ」

「案外冷たいんですね」

「トレーナーがレースを走ることはない。最後まで寄り添うことはできても、一緒に走るわけではないから、彼女たちがレースで感じたことを真に共有することはできないんだ。だから、それを知ったように語り、簡単な言葉で励ますことはできないし、したくない。彼女たちが下した判断を否定したくない。脳が焼き切れるくらい悩んだ結果、あらゆる判断を下してると思うから。僕はウールの判断も強く尊重するよ」

 

もっと頑張ろうだとか、まだ最後の一冠が残ってるだとか、前向きな言葉をかけてくるものだと思っていた。優しい言葉の一つくらい、くれたっていいのに。それに、あたしの判断を尊重するとか言って、自分の発言に責任を持ちたくないだけじゃん。そう考えたら、尊敬していた目の前のトレーナーが途端に陳腐な無能に思えて、腹が立ってきた。

 

「何それ、そんなの責任逃れだよ。大体、こういうときは励ましの言葉をかけるもんなんじゃないの?ホントに薄情な人なんですね。バカみたい」

 

言い過ぎだと思ったけれど、もう止まらなかった。ダメだ、またやってしまった。あたしの言葉で傷心してしまったアーちゃんの顔が鮮明に蘇ってくる。自分勝手に塞ぎ込み、大切な人ばかりを突き放し傷つける。こんなの、薄情なのはあたしじゃん。

 

「励ましなんて、ウールの判断を鈍らせるだけだと思ったから。責任逃れ、か。確かに僕は、トレーナーとしてしかみんなと接していなかったのかもしれない」

 

ランタンの光が消えかけ、闇は深くなっていった。

 

「ウールがいたから、このチームはこれだけ深い絆で結ばれているのだと思う。アイちゃんと喧嘩しているウールも、暇があれば僕をイジるウールも、アリアンスの笑顔に照れてるウールも、もっと君の笑顔を見たい」

 

だから――――。ユウは大きく深呼吸をしてから、独り言のように呟いた。

 

「ウールとの繋がりが、思い出が切れてしまうのは、寂しいな」

 

トレーナーとしての発言しかしてこなかったユウが初めて漏らした本音であり、弱気だった。無力でちっぽけな自分が、チームの皆から慕われる彼を同じ心痛にまで引き摺り下ろしてしまった気がして、胸が苦しくなった。

でも、だからといって優しい言葉をかけてやる気にもなれなかった。あたしだって苦しいのに自分ばっかり言いたいこと言って、ムカつく。ウールはうずくまったまま

動かなかった。

 

「結局押しつけてるじゃん」

「それだけみんなウールが大好きなんだよ。ヒナが作ってくれたお弁当があるからここに置いておく、それじゃ」

 

また、ドアの向こうが静かになった。みんなあたしを置いていく。自分一人がいなくなったところで、何かが変わるわけもない。だってあたしは、日の当たらない弱いウマ娘だから。はあ、そろそろ授業には出ないと退学かな。

 

「弁当あるって言ってたっけ」

 

お腹なんか空いてないのに。ヒナちゃんはいつも頼りないのに、おせっかいはしっかり焼いてくる。大してあたしのことなんて知らないのに、そもそも別のチームなのに、ちょっとめんどくさいな。

丁寧な包みを冷めないうちに解いて、中のハンバーグに手をつけた。後ろ向きな相手に脂の強いものを入れてくるあたりが彼女らしかった。

 

「おいしい、な」

 

すすり泣きに滴る涙が、灯りの消えた暗闇に吸い込まれていった。

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