「今日はここまでにしておこう。うちのダートはアイちゃんだけだから、いつも一人で走らせてしまって申し訳ないよ」
「別に。私はライバルがほしくてレースに出ているわけじゃないので」
フルアダイヤーは変わった。全身が動かなくなるほどの激しいトレーニングの果てに、前代未聞の桜花賞制覇を成し遂げ、一躍G1ウマ娘に。その後はダートに戻ることとし、練習も基本は一人で黙々と駆け回っていた。いらないのでと桜花賞のトロフィーを差し出してきたのは驚いたけれど、驕ることも慢心することもなくトレーニングに向かい、ダートに足を鳴らしている。どんなウマ娘にも夢や目標、自分の中で輝きとなるモチベーションがあり、それのために自分を追い込むことができるのが一般的だが、彼女は桜花賞の前後ですら顔色を変えることはなく、こうも感情の起伏に乏しいと、正直何を考えているのか計りかねるところはあった。桜花賞の後、栄冠を手に入れたというのに、アリアンスの心配ばかりしていた。自分が勝利してしまったせいで彼女に深い傷を負わせてしまったと、かつてなく動揺し、青ざめていた。それは違う、全力の勝負の先にこそ見える世界もあると、僕やウールは説得したが聞く耳を持たず、トレーニングには参加しても、寝不足とだらしなさが目立った。しかしアリアンスが復帰しターフに戻ってきたことで、それまでの堕落が嘘のように元通り、艶やかで整った彼女に戻ったのだった。一部始終を見て、僕はようやく彼女の走る理由を見つけ出せた。あれだけ練習に打ち込める彼女がG1には興味がないのは、僕が想像していたより何倍も深く、彼女の中にアリアンスという存在が意識されているからだった。レースの結果よりも、アリアンスに自分を見てほしい、彼女の前で醜態を晒すわけにはいかないという思いがフルアダイヤーの原動力なのだ。だからこそ、アリアンスが学園を去ってしまうことは、彼女にとっても生きる意味をなくしたことと同義だった。もちろん『誰かのために』というのは殊勝な目標の一つだが、これだけ一人のことしか見ていないのは珍しい。いや、それで前を向くことができるなら最もなことなのだろう。ただ少々レースに対して無頓着な気はするし、彼女に向上心さえあればさらに上を目指せるポテンシャルは間違いなく存在するのだが。
「でも併走は基本であり効果的だからね。また誰か合いそうな人を探しておくよ」
「分かりました。それでアンはどこ?」
「今日は珍しくあっちの方が先にメニューが終わったから、ずっとアイちゃんのことを見ていたよ、ほら、あそこに」
「へっ?」
なかなかハードなトレーニングだったにも関わらず、呼吸を乱すことなく平静に汗を拭いていた彼女から、気の抜けた情けない声が聞こえた。手からするりと抜け落ちたペットボトルが転がっていく。慌てて目を見開いた彼女の視線の先には、笑顔でこちらに手を振るアリアンスがいた。
「な、なんで言ってくれなかったんですか」
猛スピードでアリアンスのもとへ向かっていってしまった。ヘンテコなジェスチャーと共に繰り出される弁明を見るに、かなり慌てていた。
「見てた?」
「うふふっ、アイちゃん、おつかれさま」
フルアダイヤーはばつが悪そうに赤面している。彼女に自分が練習している様子を見られてしまったのが堪えたようだ。その姿は年ごろの乙女そのもので、普段の冷静さはすっかり消え失せていた。
「ち、違うのアン。今のは忘れて。次のレースではあなたにふさわしい走りをしてみせるから」
「ううん、とってもかっこよかったよ。私見惚れちゃったもん」
「ほ、本当に?」
フルアダイヤーの体温がカイロのように上昇していく。今にも沸騰しそうなほど真っ赤になっていた。アリアンスは彼女の手をぎゅっと握り、離さない。すっかり満足したのか、まんざらでもない蕩けきった顔をしていた。
「あ、アンが満足しているならいい。嫌われてなくてよかった。トレーナー、絶対許さない。アンの前では完璧な私しか見せてはいけないのに……」
アリアンスの存在が自分を変えてくれたと、フルアダイヤーは言っていた。彼女に応えるレースをすることだけが走る意味であり、その笑顔がフルアダイヤーの全てなのだろう。言葉に棘が多く表情も硬いけれど、心奥には確かに、一途で純真なアリアンスへの想いが生きていて、レースへと向かわせるのだとユウは理解した。
「この前、おいしいクレープの店ができたって聞いた。アンが好きだって言ってたから……。それで、よかったら、この後、その、二人で……」
「覚えててくれたの?うふふっ、とっても嬉しいな」
もちろん、そう満面の笑みで返答した。周囲も段々と練習を終え、解散し始めている。その中で、二人のウマ娘の影が少しずつ遠くなっていった。
「二人ともいい笑顔だった。アリアンスをスカウトできて本当によかったと、つくづく思うよ」