「見て見て、あれフルアダイヤー先輩じゃない!?」
「待ってやばっ!初めて見たんだけど!顔小さっ、足長っ!桜花賞ウマ娘がこんなところ歩いてるなんて信じられないんだけど!」
桜花賞の栄冠を手にしたことで彼女の生活は激変した。芝転向初戦での番狂せ、奇跡に等しい内容での勝利は大々的に報道されると共に人々の熱狂を呼び、連日マスコミが殺到、街中でも声をかけられることが増えていった。どのようなトレーニングメニューを組んだのか、相手として誰を意識していたのか、そして、オークスには出走するのか。アリアンスと共に走りたいという一心だった彼女にとって、結果は後から付いてきたものにすぎないのだが、世間は夢にまで見た勝利と報道し、もてはやした。彼女は思いのままに応対したが、メディアはその度にハテナを浮かべ、頭を抱えていた。「何が何でも桜花賞だけは」と情熱的で激しい言葉を期待していたのだろう。その点が彼女にとって迷惑で仕方がなかった。美しいあなたの隣で走ってみたかった。私を救ってくれたあなたと呼吸を合わせることで、一つになった感覚がほしかった。ただそれだけだったのに、栄冠がどうとか世間がもてはやすのは、私の彼女への思いが、二人の世界が、名誉という俗な羨望に穢されているような気がして吐き気がした。だからこそあらゆるメディアを冷たくあしらい、適当に応対した。私のことなど微塵も興味がなかったくせに、勝利を手にした瞬間頂点だというその浅はかさも腹が立った。そんな私の対応が祟って、大きく祝福されることはなくなっていった。むしろ、批判の方が大きくなっていった。
「桜花賞の勝利、もう少し喜んでもいいんだよ。君は歴史に残る勝利を記録したんだ」
ある日のトレーニング後、私はユウトレーナーに呼び出された。机に無造作に置かれた雑誌には、私の対応を糾弾する声が並んでいる。彼にしては珍しく濁った口調だった。
「私はアンと二人のレースをしていた。結果はそれについてきただけ。それなのに、一着の感動がどうとか、夢のような勝利だとか、的外れな指摘ばかり。別に一着じゃなくてもよかった。そもそも、私に見向きもしていなかった連中が勝った瞬間に手のひらを返すことも許せない」
レース結果だけを見て、弱い、終わったと罵る、そんな表面しか見えないつまらないメディアだから、他のウマ娘のように、私が桜花賞に囚われているとくだらない断定ができるんだ。でもアンは違う。彼女は私の全てを理解してくれる。だからこそ一緒に走ってみたいと思った。この純情を世俗の王冠に穢されたくない。それでもって、知られてたまるかという思いもあったのかもしれない。
「弱い、終わったと心ない言葉を言われ続けたのは苦しかったと思う。何の謝罪もなく、まるで人が変わったように賛美されることに気持ち悪さを感じるアイちゃんの気持ちはよく分かる。でも、だからといってそっけない態度を取るのも僕は違うと思うな」
「結果に興味がなかったのは本音です」
「それも違う。G1にしがみつかないウマ娘なんて一人もいない。栄光という憧れのもとに皆走っているから。アイちゃんは確かに、桜花賞を心の底から欲していたよ」
一瞬にして全身の血が沸騰した。このトレーナーは自分の名誉のことしか気にしていない。親が有名だとか言うけれど、それに続きたいだけなんだ。私の態度は角が立つから、自分にまで批判がくることを恐れている気の小さいトレーナー。
「適当なことを言わないで。結局あなたも世間の人間と変わらない。アンとずっと一緒にいるトレーナーだから信じていたのに。話は終わりです。もう話しかけないで」
「桜花賞だから、君とアリアンスは本気で勝負できたんだ。アイちゃんが感じたかった一体感。その正体はG1という大舞台の魔力だよ」
部屋を出ようとドアノブを手をかけた瞬間、彼から冷たい言葉が聞こえてきた。途端にユウの目つきが鋭くなった気がして、身体が震えた。
「どういうこと」
「トリプルティアラはアリアンスが熱望し、汗が枯れるまで努力した先にあるもののはずだった。だからこそ、本気でターフを駆け抜けたんだ。そしてアイちゃんは、G1に魅せられた死にもの狂いの彼女の影を追った。他のレースなら、アリアンスはここまで本気にならないだろう」
「だから、だから何?」
「君は桜花賞という一生に一度の場だからこそ、アリアンスと本気の勝負ができたんだ。トリプルティアラでしか得られないものがある。アイちゃんにとって、それが彼女との一体感だったということだよ。だから、桜花賞に興味がないなんて言うことはできないんじゃないかな」
口を尖らせるばかりで、反論の言葉が浮かばない。確かに彼女がどれだけトリプルティアラに対して特別な思いがあるのか、私はそれをよく知っていた。過去のレースを何度も見直し、展示品のトロフィーや優勝レイを見て険しい顔をしている彼女も知っている。まさに『本気』だった。だから、そんな彼女とぶつかることができる舞台として私は今回桜花賞を選んだ。他のレースじゃダメだったという指摘に、何も返答することができない。言葉一つで言いくるめられてしまう自分に腹が立った。それでも、目の前のトレーナーは饒舌に続けた。
「そして、君にとって思い入れのないその栄冠を誰よりも渇望していたのはアリアンスなんだ。さっきの言葉を彼女が聞いたら激昂するんじゃないかな。手にしたその勲章を蔑ろにするのは、レースの価値、すなわち出走した全てのウマ娘の品位を、強さを貶めることになってしまうから」
「それは、そうかもしれないです」
「アイちゃんが冷たい態度を貫くことで、彼女が欲した桜花賞の価値はどんどん薄くなっていく。アリアンスと一緒にレースができればいい、彼女に見てもらえるならそれでいい。ほんとにそうかな」
歯を食いしばって睨みつけることしかできなかった。彼の言葉一つ一つが体内を駆け巡って、思考を支配する。同時に私の中に、桜花賞後の彼女の姿が現れた。虚ろな瞳と、呪われたような足どり。気配りを忘れず明るく振る舞う彼女が言い放った「どいて」という冷たい一言。
それほどまでに全てを賭けていた桜花賞の称号を私が否定したら、アンはまたあの状態に逆戻りしてしまうかもしれない。顔が青ざめているのを感じた。
「本当にアリアンスのことが大事なら、彼女が心から欲した称号を守るのも、大切な役目なんじゃないかな。桜花賞は、アリアンスがアイちゃんに託した称号なんだ。君だからこそ、彼女は負けを認められたんだ。失意の底から這い上がってこれたんだ」
「確かに今まではレースにかける思いなんてなかったかもしれない。でもこれからは違う。アイちゃんは、桜花賞を制したウマ娘の価値を守るために走るんだ。それは間違いなく君がレースにかける思いそのもので、アリアンスへの思いと同値だよ。君が強くなればなるほど、善戦したアリアンスの価値も上がっていく」
その言葉を聞いてようやくフルアダイヤーは自分の無責任さを素直に理解することができた。アンはなんとか立ち直ることができた。でももしその先に意味がなかったと感じてしまったら、もう二度と戻ってくることができないかもしれない。それだけは避けなければいけない。せめて私が、アンの目指した桜花賞を守り続けるんだ。彼女が輝き続けるために、アンが託してくれたこのタイトルが、彼女を倒した私が、可憐で美しく強い存在でなければならないんだ。目に光を取り戻した私を見て、ユウトレーナーは頰を緩ませた。
「どうかな、少しは世間にチヤホヤされる意味を見出せたかな。評価されるということは、アリアンスの価値が守られているということなんだ。少しずつでいい、もっと前向きに、明るい対応を心がけてみてほしい。それに、世間からチヤホヤされるのって、案外悪くないかもしれないよ。結局強いウマ娘っていうのは、強い自尊心とエゴを持っているものだからね」
アンのため、そう考えたら、色々と許せるかもしれない。メディアへの対応も少しだけ譲歩してやってもいいかもしれない。私がカッコよければ、アンもかわいくてカッコいいわけだし。エゴとか自尊とかそんな大したものじゃないけれど、彼女が評価されるなら、そういう意味でなら悪くはないのかも。
「ほんの、ほんの少しだけだから」
「うん、それでいい」
大きな足音を立てて、フルアダイヤーは扉の向こうに去っていった。
「行きなよ行きなよ、ファンなんでしょ?強くなるコツ聞いちゃいなよ!」
「でも私みたいなウマ娘が話しかけるなんておこがましいよ……」
勇気を出せないでいると、フルアダイヤーの方がどうやら気づいたようだ。「私?」そう小さくジェスチャーを送ると、後輩のウマ娘は顔を赤くして頷いた。
「いいよ、時間あるから」
「行っちゃいな行っちゃいな!二人きりで色々聞けるチャンスなんて二度とないかもよ!」
友達に背中を押されて、ついに憧れのフルアダイヤーの目の前までやってきてしまった。
「あ、あの!メイクデビューの時からずっと見ていて、走り方も雰囲気も全部カッコよくて、本当に尊敬していて……!」
言葉が溢れて喉元で渋滞しているようだった。全身が沸騰している後輩の前でも、フルアダイヤーの顔色はやはり変わらなかった。尊敬してくれているのは伝わったけれど、彼女の中で一つの疑問が残る。メイクデビューの時から見ているのなら、当然その中には大敗も含まれていることになる。何も気力が湧かなかったあのときも。泣くことすらままならなかったあのときも、彼女は私を信じていてくれていたのかな。
「負けたときもあったと思うけど、なんで私なんかを応援してくれたの」
「は、はい!フルアダイヤー先輩なら絶対に復活してくれるって信じてたから……!こんなにクールでカッコよくて、綺麗な走法と差しを見せるウマ娘がこれくらいで負けるわけないと思ったんです……!だから、桜花賞を一着でゴールしたとき、わたし、わたし、泣きそうになっちゃって……!」
その麗しい瞳からは涙が溢れている。その姿を見て、身体中に感電したような衝撃が走った。ひたむきな言葉をかけ続けてくれたアリアンスの姿が、目の前の彼女に重なったから。
「アンと一緒だ。この子も私を見捨てないでいてくれた」
この子は思わず泣いてしまうくらい、私に夢を見ていたんだ。ジュニア優駿の後、早熟だったと切り捨てられても決して諦めず、ダート上がりのウマ娘が初戦で桜花賞なんて勝てるわけないと周りから馬鹿にされても私を応援し続けたのだろう。私が結果なんて興味ないと振る舞い勝利の価値を下げていくことで、この子が応援してきたものの意味も消えてしまうのかな。彼女は私を信じ続けてきたのに、私は彼女を裏切ってしまうことになってしまう。何が何でも、私は自分の価値を守らないといけないんだ。アンのために、この子のために。
「私が信じたものの価値を守ること。それが私の、レースにかける思いだから」
一気に視界が開けた気がした。カイロのように全身がじわじわと優しい熱を持ち始める。悪い感覚はしなかった。
「オークスには出ないけど、次も頑張るから。あなたのためにレースをしてみせる。応援よろしくね」
不器用な彼女なりの最高の笑顔だった。その屈託のない純情に吸い込まれてしまったのか、そのウマ娘はしばらく頬を染めて動くことができなかった。
「フルアダイヤー先輩の笑顔、初めて見た……。普段はクールなのにあんなかわいく笑えるなんて最強じゃん……!私もドキドキしてきた、推しちゃおうかな、グッズ買っちゃおうかな!?」
「わ、わたし、もうダメかもしれない。ドキドキが止まらないよ……」
「でしょ?勇気出してよかったでしょ!?あとでみんなに自慢しないと!」
緊張と興奮で不安定な足取りの中、二人は帰っていった。笑顔、上手にできていたかな。柄にもないことを考えていると、背後から一人のウマ娘に声をかけられた。
「アイちゃん?」
「あ、アン、どうしたの、こんなところで」
「よかったら、一緒に帰りたいな?」
彼女にしてみれば発見の連続で、思考回路はショート寸前の中、ついに本命のアリアンスまで現れてしまっては心臓がもたなかった。どこから見られていたのか、今回は聞くことすらできない。後輩の前だったからこそいい顔をしたけれど、今度は自分が彼女たちと同じ顔をしている。
「さっき、後輩の子に話しかけられた。応援してますって」
「うふふっ、すっかり人気者だね」
「その子はメイクデビューの時から応援してくれていて。それで、桜花賞のときも私の勝利を信じてたって……」
フルアダイヤーの桃色の頬を彼女は見逃さなかった。新しい何かが弾けて、さらに高みへと進んでいける、そんな予感をアリアンスに感じさせてくる。桜花賞を通じてアイちゃんはまた一つ、大切なものに気づくことができたんだよね。彼女にとって、苦い思い出の一つだが、一方でこれほど嬉しいこともなかった。
「あの子のためにも、頑張ってみてもいいかなって」
「私の方がアイちゃんのこと長く応援してるのに。ちょっとだけ嫉妬しちゃうな……?」
「ち、違うの。私の気持ちはアンだけのもの。私の全てはアンだけのものだから……」
冗談のつもりだったが、頭をブンブンと振り回し子犬のように否定している。アリアンスも思わず笑わずにはいられなかった。
「アイちゃんが言ってたクレープ屋さん、時間があったら今日行ってみたいの。一緒にどうかな?」
「も、もちろん。何時間でも付き合うから。アンのために調べたから、気にいってくれると嬉しい」
アリアンスは肩をぐいと寄せた。早足になり、鼻歌も混じり上機嫌だ。帰路の大通りを抜けて、春の終わりを告げる清風が二人の背中を押している。メニューを調べるフルアダイヤーのスマホの画面を、ダイヤモンドのように目を輝かせながらアリアンスがのぞいていた。
「チョコたっぷりのクレープがいいな。バナナもアイスもいちごも全部乗せちゃうの。クレープは乗せれば乗せるほどおいしいから……!」
「私は、アンと同じやつにする。せっかく二人きりだから」
アリアンスの瞳の奥には大量のトッピングが乗ったクレープが見え隠れしていた。相変わらずの甘党ぶりにフルアダイヤーも満足そうだ。
「でもあまり食べすぎると、またユウさんに怒られちゃうかな」
「アンは太ってもかわいい」
「そ、それはいいことなのかな……」
表情豊かなアリアンスの苦笑いが街の喧騒の中に消えていく。フルアダイヤーが見つけた大切な『理由』は彼女の糧となり、どこまでも進んでいくのだろう。でも今日は、クレープを頬張り口元にチョコをつけるアリアンスの虜になっていたのだった。