「いつもと全然違った……。ちょっとだけ怖かったよぉ……」
一人うつむく彼女を囲むように、食堂の喧騒は時間に比例して大きくなっていく。自分も何か注文しよう、そう立ちあがろうとしたとき、遠くから栗毛のウマ娘の姿が見えた。周囲から羨望の眼差しを受けながら、巨大なハンバーガーを一つトレイに乗せて、彼女はやってきた。
「今日は私もご一緒させてもらうわ。ふふん、このはみ出したチーズとパティ、おいしいに決まってる……!」
マロンナットの正面にコープコートは腰かけ、巨大なカロリーを目の前にして、じゅるりと舌なめずりをした。浮かない顔の彼女とは対照的に、コープコートは一人でも楽しそうにしている。
「食事制限はもういいんですか?」
「ヒトには『チートデイ』なる日があるって、ヒナが言っていたわ。それは魔性、悪魔の日。何を食べても許される、そう!ハンバーガーもピザも、挙げ句の果てにクレープだって!なんて素敵な日なのかしら!」
「その割にはちょっとだけ焦っているように見えるような……」
彼女に痛いところを突かれ、一筋の汗がスラリと伝った。人もウマ娘も、食べたいものを食べるときに自分に嘘をつく習性は変わらないようだ。今日の彼女はハンバーガーだけでなく、セットにポテトとオレンジジュースまで忍ばせていた。
「あの名家のコープコートさんでさえ、暴飲暴食してしまう日があるんですね……」
「そう、長い学園生活、一日くらい全てを忘れて食事に興じるときは誰にでもあるの。でもこれって果たして食事だけに当てはまることかしら?」
何を言いたいのか分からなかったけれど、言い訳をしたいだけではないみたい。私に目を合わせてじっと見つめた後、彼女はスマホの写真フォルダを開いた。何回かスクロールをすると、高級そうな旅館の写真が現れた。そこにはよく知るウマ娘が四人、浴衣を着て並んでいる。
それを眺める彼女のほほえみはどこまでも優しかった。
「あなたが浮かない顔をしていた原因の彼女だって、今はほんの少し、やさぐれてみたい時期なのかもしれないわ。ちょうど、ハンバーガーを食べる私みたいにね。そう、ある日ふらっと帰ってくるものよ。だからこそ私たちは、一緒に笑って今度はピザを食べられるように、待っていてあげましょう、ね?」
ピン、指を立ててウインクした。ああ、この人には敵わない、そう思った。やっぱり中央はすごい。この人を超えるには、私が想像する何倍も大きなハードルと戦わなきゃいけないのかもしれない。アリアンスちゃんはまさに才色兼備、文武両道、私のヒーローだけれど、何度もこの天才に敗北してきた理由が分かりました。コープコートちゃんは、樫の女王はそれほどに逞しく日々を過ごしている。その生き様は繊細でも大胆で、これをまさに貫禄と呼ぶのだろう。
「あ、夏休みのおでかけ、もちろん私も参加するわ!ふふっ、こんな楽しそうな話を耳にしたら、あの子もいてもたってもいられず部屋から出てくるかもしれないわね」
見た目には似つかわしくない早食いで、彼女のトレイの上は綺麗さっぱり平らげられていた。満足そうに食後のゼリーに手をかけ、やがて彼女が考え事をしているうちに笑顔で去っていってしまった。
「そうだ、そうだよね。ウールちゃんはきっと、来てくれますよね……」
アリアンスちゃんにも予定を聞かなきゃ。食堂に来ないってことは、教室でフルアダイヤーと食べてるのかな。
刹那に食べ終えてしまったコートを追いかけるように急いで完食し、自教室へ走っていった。
「それでね、これはオマケだよって、チョコケーキをつけてくれたの。でもでも、そこのケーキ屋さんには他にもおいしいものがたくさんあって……!」
「アン、かわいい」
足取りが重かった。まるで後ろに思いきり引きずられているような。大好きなはずの学園、大好きなはずの教室。大好きなはずのクラスメイトのもとへ行くのがこれだけ苦しいなんて。あたしはドアの前で立ち止まる。深いシワが残る制服と、クマが染み込んだまぶた。熱湯を注がれたように激しく暴れ痛む心臓。奥から幸せそうな声が聞こえてきた。
「そろそろ移動しないと」
薄い扉を一枚隔てて、二人が近づいてくる。まずい、会えない、あたしは咄嗟に隠れてしまった。今度は氷風呂に浸けられたように全身から血の気が引いた。
「はあ、あたし、何やってんだろ」
アーちゃんに会いにきたはずなのに、彼女からまたしても逃げてしまった。これじゃあやっていることは部屋で閉じこもっていたときと何も変わらない。それでも、恐怖に足がすくみ動けない。やがて、教室の中へとマロンナットが入っていくのが見えた。二人の世間話に混ざって笑い声が聞こえてくる。
「この前話してた花鳥園のことなんですけど、きっとウールちゃんも来てくれると思うんです!だから日程だけ先に決めてしまいませんか!」
お盆の前とかどうかな。七月の最後はどう。そんな返答を期待していた。いや、アリアンスはむしろ率先して日程を調整するものだとウールは思っていた。しかし、彼女の態度は冷たかった。
「夏休み、だったよね。私、トレーニングしないといけないから、ごめんね。強くならないと、いけないから」
「えっ」
約束、してくれたのに。マロンナットから溢れたほんの小さな嘆きだった。口元だけを動かすような、蚊の鳴くような声。けれど確かに、扉越しにウールの耳には届いていた。
「そ、そうですよね。アリアンスちゃんは忙しいですよね」
乾いた声が続いたと思ったら、ナットちゃんが出てきた。そして私にも気づかず走って廊下を駆けていってしまう。その瞳は大粒の涙を抱えていた。
「なん、で……」
全身が震えている。あの日、薄暗い部屋で話していたナットの様子は、声だけでも心待ちにしていることが伺えた。その約束を反故にされたのだから、深い傷を負っただろう。そしてなにより、アリアンスが大切な友達との約束を捨ててまでトレーニングを優先したという事実に、深く絶望するしかなかった。脳にこびりついたナットちゃんのショック。ウールはうなだれるしかなかった。何人もの生徒が心配そうな顔をして通り去っていく。
「アン、数日くらいならユウトレーナーもメニューを調整してくれると思う。花鳥園にはあなたに似合うかわいい鳥がたくさんいる」
「うん、そうかもしれないけど、もう負けられないから。一日も無駄にしたくないの」
そう、あなたが言うなら。フルアダイヤーがそれ以上追求することはなかった。そんな二人の会話を聞き我に返ったウールは思わず、飛び出してしまっていた。
「何言ってんの……、ふざけたこと言わないでよっ!」
突然のウールの登場に動揺を隠せない二人。しかし、激情に駆られた彼女が止まることはなかった。
「アンタは……、あたしの大好きなアーちゃんは……、そんなんじゃなかったっ!なかった、のに……」
違う、違うの。あなたを責めたいわけじゃない。なんで止まってくれないの、私の言葉。大好きな人をこれ以上傷つけたくないのに、ごめんなさいって謝らなきゃいけないのに。アリアンスは困惑していた。唇を震わせ、涙を堪えるのに必死だった。大声に釣られ、周囲にはクラスメイトが集まっている。さっきまで二人に会うことすら躊躇していたというのに。
「ごめんなさい、ウールちゃん」
あ、またこの感覚。もう何度目だろう。アーちゃんが何か言っているけれど、もう聞こえない。聞きたくない。
ウールはアリアンスの言葉を遮るようにドアを力なく開いた。そしてそのまま、足を引きずるようにしてまた孤独の部屋へと塞ぎ込んでしまうのだった。
「アン、大丈夫?」
アリアンスはハンカチでゆっくりと涙を拭った。そして消えてしまった彼女の幻影を見つめるようにドアに視線を向ける。
「待っててね。秋華賞は私が獲るから。秋を勝てば、私より強いウマ娘はいなくなるよ。だから、それからはずっと一緒にいられるよね……?」
アリアンスは笑っていた。