彼女の部屋に日が当たることはない。閉め切ったカーテンの向こうを彼女が眺めることはない。今日もまた、遠い階段から忍び寄る足音が彼女を襲う。鬱陶しいトレーナーがやってきたのだ。ウールは毛布を深く被り直した。
「ウールちゃん、いるんだよね。私、やっとでここに来ることができたの」
心臓がドクンと跳ねた。なんで、どうして今さら。今日になるまで一回だって訪れてくれなかったくせに。全部全部アンタのせいなのに。親友とは名ばかりの、口先だけのウマ娘。けれど、久しぶりの彼女の声はあたしの耳にじれったく残って離れなかった。返事をする代わりにウールはベッドから出て、うなだれるように扉にもたれかかった。
「私、この前のローズステークスでようやく重賞を勝てたの。誰にも負けないウマ娘になったんだよ。言葉ばかりの、弱くてウソツキな私はもういないの」
ドアが開いたら太陽がいる。私以外の全てを照らす太陽が。アリアンスの姿は、今のウールには眩しくて仕方がなかった。やめて、床に落ちた枕をとっさに拾った彼女はそれを投げつけ、後ろに後退りした。開けたくない、みすぼらしい自分を見られたくない。
「秋華賞、少しだけでいいの、ウールちゃんにも見に来てほしいな。レイをまとって、ウイニングライブは一番目立つところで、私の輝きを、新しい私を見てもらうの。全部終わったらきっと、戻ってきてくれるよね……?」
淡々と語りかける様子はまるで独白のようだった。あたしは何も返事を返すことはなかったのに、彼女はその後も一定の口調で理想を語った。そこにはただ、秋華賞に対しての絶対的な確信があるだけだった。あたしがいない間にこんな自信家になってしまっていたなんて知らなかったなあ。認めたくなくて、俯瞰したように遠いところから彼女を評価した。
「一番大切なことは、秋華賞の後で、ウールちゃんの顔を見て、伝えたいから……」
それだけ伝えて、アリアンスは去っていった。彼女の訴えは芯のあるものだったけれど、あたしの心には響かなかった。独りよがりで、自分のことばかり。ごめんの一つもなかった。でも、久しぶりにアーちゃんの声を聞いて、扉の向こうに彼女がいると意識したとき、頭の中が彼女でいっぱいになったのも事実だった。もう一度隣で、あの涙が出てしまうくらい美しい笑顔を見たい、そう思ってしまった。ああ、あらゆる葛藤があたしを堕落へと追い込もうとする。今のあたしに、一歩なんて踏み出せない。全てを諦めていたくせに、捨てることのできない愚かなあたしがもう一度毛布を被ったとき、再びドアが鳴った。
「今日は来客が多いです」
「秋華賞、現地で観戦してあげてほしい。最前列じゃなくだっていい、どうか今のアリアンスを、君に見てほしい」
彼にしては弱々しかった。単刀直入なのはいつものことだけれど、不安になるのは初めてだった。まさかあなたも同じことを言いにきたなんて。デジャブにも似た光景は彼女にとって、最後の忠告のようにも思えた。
「あたしには関係ないです」
関係ないはずなのに、胸騒ぎが止まらなかった。得体の知れない大きな歯車が歪に軋み始めている。この誘いを断ってしまったら、本当に取り返しのつかないことになる、そんな違和感。あたしの人生を変える大切な何かが消えかけている。まだ戻れるとか戻れないだとか、そういう話ではなく、ショートウールという存在が否定されてしまう気がするのだ。
「今のウールだからこそ、アリアンスを救えるんだ」
「どういうことですか」
ふざけた話だと思った。こんな堕落した人間が必要だなんて突拍子もない話。自分に都合のいいように耳が改変しただけだともう一度聴いてみたけれど、ユウトレーナーは一言一句違わない答えを繰り返した。さすがに動揺した彼女は言葉に詰まったが、なんでと言う前に彼は続けた。
「君がレースを諦めてしまった理由に、僕が気づいていないわけがないだろう。アリアンスはウールにとって希望だった。ひたむきに前を向き、泥臭く何度でも立ち上がる彼女の姿は、同じウマ娘だけでなく皆を虜にしていった。寝る間も惜しんでファンとの交流に尽力し、敗北した相手を讃え、勝利を渇望しながらもレースを楽しむ姿は、勝負に新たな風を吹かせた。勝つことが全ての世界で、負け続けるアリアンスをファンは確かに声援で支えた」
ああ、あたしの希望が丸裸にされていく。そう、そうだよ。初めて会ったあの日、隣の席で凛と佇むアーちゃんに、あたしは声をかけずにはいられなかった。ナンパのようなものだったのかも。出てくる言葉一つ一つがあたしの身体を震えさせた。彼女の隣に相応しいウマ娘になりたい。あの美しさのために走ろう、そう決意するにもあまり時間はかからなかった。彼女の理想を聴いているうちに、あたしも自分のレースで彼女を支えたいと思った。ホープフルも皐月賞も手が届かず、それでも頑張り続けることができたのは、他でもないアーちゃんのためで、同じような結果に苦しむ彼女の支えになっているのだろうと、あたしはダービーでの再起に燃えていた。はずだった。
「そんな彼女は、オークスの敗北で変わってしまった。生涯一度の栄光というプレッシャーには、アリアンスでさえ耐えられなかった。レースを終えた彼女の目には勝利しか映っていない。敗北は死と同じ、強さにだけ絶対の意味があるのだと」
あたしは言われた。あの紫の、濁った瞳で、『勝たなきゃ意味がないよ』と。悔しいはずなのに強気に笑ってみせたアーちゃんの姿はもうどこにもなかった。古びた操り人形みたいに不気味に立ち上がって、去っていった。まぶたは腫れていたけれど、涙は枯れていた。あたしの希望は、何よりも大切なものは、変わってしまった。
「そんな彼女に絶望したウールは、レースの意味が分からなくなってしまった。自分がどこまでも平凡だと理解している君は、すがっていたものに最後に裏切られてしまった。これでは心が折れてしまっても仕方がないと僕は思う」
「じゃあどうして……!」
じゃあどうして、あたしに付きまとうんですか。もう走らないって言っているのに、毎日のように練習の経過の報告をしてくるマメで鬱陶しい人。あたしの尖った言葉を気にもしないでみんなの昼食の話をしてくる。顔も見えないのに、楽しそうに話すんだ。早く消えてください、そう突き放してやろうとした。
『まだ君がここを去っていないから』
あ、つい情けない声を漏らしてしまった。あたしの虚勢の正体で、何よりも痛いところを突かれてしまった。意思が弱いだけだというのに、それを才能だと言った。けれど、ドアの向こうのあたしのトレーナーには、あらゆる反論は全部お見通しのようだった。それが少しだけ嬉しい気もした。観念したあたしは、心奥に根づいていた一番弱いあたしの話を始めた。
「でももう、無理です。何もかも遅いんです。外に出るのが怖い。周囲の奇異の目。落ちぶれてしまった能力。全部が怖いんです。ただでさえ才能のない私がここからアーちゃんに何かを伝えることなんてできるわけがないんです」
「ウールは頭も口も回るけど、まだ鈍いなあ」
ようやく吐露したあたしの弱気を、ユウトレーナーは笑った。でもそれは嘲笑ではなくて、ようやく僕を、前を見てくれたね、そう言っているようにも思えた。お互いの顔は見えないのに、おかしな話だった。
「まだそこにいる、それがなによりの才能だよ」
何を言っているのか分からなかった。立ち上がるなら今しかない。今だからこそ、そこから出ることができるんだ。この数ヶ月は、決して無駄なんかじゃない、ユウトレーナーはまたしても、私の一番苦しいところを否定した。
「ウールはまだ、君の強い心はまだ、諦めていない。口ではどれだけ言っても、頭がそう理解しても、身体は諦めていない。アリアンスですら打ちのめされてしまった事象を経てなお、闘志は燃え尽きていない。だってほら、まだトレセン学園にいるんだから。ウマ娘はどこまでいっても身体で証明するのだと、僕は改めて思うよ」
ああ、閉じ切った一室に、カーテンをすり抜けて光が差し込んでくる。外は真っ暗のはずなのに、どうして。そうか、これはあたしの錯覚なんだ。ここを開けることなく、何もかも捨ててトレセン学園を去ってしまったあたしの亡霊が、背中を押してくれている。弱い自分は悪じゃないと、お前は全てを受け入れて前を向ける、強くなれる人間だと言っている。
「そして何より、誰よりもアリアンスに惹かれ、レースを愛すことができるのも君の才能だ。だからこそトリッキーな戦術で場を盛り上げようとしている。ほら、これだけの才能に溢れているあたしが、たかが数ヶ月のブランクで周囲に遅れているわけがないじゃない、そう思うだろ?」
「ふっ、何ですか、それ」
似合わないモノマネに思わず吹き出してしまった。スーツ以外見たことない堅物のあなたが、そんなことするなんて。僕もウールに変えられたんだと、笑い合った。トントンと彼の調子のいい言葉に乗せられる自分も、今は心地よかった。
「君はアリアンスの鏡なんだ。オークスで勝利にのめり込むようになった彼女を変えられるのは君しかいない。君が体験した絶望は、何よりもアリアンスに憧れ、焦がれ、理解し目指した君だからこそ、ウールだからこそ感じたものだ。彼女とは違う形で絶望した、君にしか伝えられないことがあるはずだ」
アーちゃんも苦しんでるんだ。一緒に苦しんで、二人の答えを出せばいいじゃん。こんな簡単なことに気づくために、クラシックの大事な大事な数ヶ月を使ってしまった。なんだか、笑えてきた。
「だから、だからどうか、次の秋華賞、君にも見てほしい。そうすれば必ず、道は見える」
今のアリアンスにも、そして今の君にも、必要なことなんだ。ユウトレーナーは重ねてそう言った。心配性だなあ、その言葉をぐっと喉の奥に飲み込んだ。
「変わってみせます。変えてみせます」
ドンッッ。雷のように激しい音が響いて、彼女は殻を抜け出した。世界はついに広がったのだ。伸び切った前髪を上げ、背中の半分に到達した後ろ髪をユウの目の前で結んだ。
「どうです?みすぼらしいって思いました?」
「いや。何にも変わっていない、カッコいいウールのままだ」
「あ、そうだ」
みっともない自分を見られる羞恥を隠すため、高速のスマホ捌きで、彼女はとあるスイーツ店のホームページを開き、画面を突きつけた。これ、今度アーちゃんと一緒にお願いしますと、巨大なパフェを押しつけた。
「うん、全部終わったら、いくらでも食べにいこう」
ユウは涙を堪えていた。彼もまた、自分の過去を乗り越えようとしているのだ。自分だって苦しいはずなのに、あたしの説得にはそんな姿見せなかったじゃん。ユウトレーナーは、あたしの思っていた何倍も強い人なんだ。
導かれるままだと思っていた彼女は、等身大のユウの姿に、この人についていこうと改めて決意した。もしくは、むしろ一緒に進んでいこうとしているのかもしれない。背中をいじわるそうにポンと叩き、腕を引いた。
「最後に一個、イイですか?」
打算的ないつもの彼女の笑顔は、今日は純真無垢にも見えた。
「鈍いって言葉、あなたにだけは言われたくないです」
再び、歯車は動き始めた。
長期間空けてしまいました。何とか完結させますので、どうか見ていただけると嬉しいです。