トリプルティアラ最終戦、秋華賞。相変わらず数万人の観客が押し寄せていた。一番人気はオークスの覇者、コープコート。常人離れした閃光の末脚と安定感を武器に圧倒的な一番人気として支持を集めていた。二番人気であるアリアンスは、緊張した様子もなくただ浮ついた様子で長い髪のリボンを直していた。
「ふんふんふふん、あれ、ここのステップはこうじゃなかったような……?」
鏡を見ながらウイニングライブの練習をしていた。軽快な鼻歌でリズムを取って、1、2、3、4。入場の十分前、今日は誰も来てくれないのかなと残念そうにしていたところ、初めての来客があった。
「楽しそうね」
ついに、コープコートがやってきた。何度も刃を交えた二人、これまでレース前に会うことはなかったが、今日に限って彼女は姿を現した。
「いつもは瞑想してるって聞いてたけれど」
彼女の瞳の奥には、確かな闘志と怒りが宿っていた。飲み干したコップの氷が溶け、生温い水が底に残っている。
「私も舐められたものね。コース状態の確認でも作戦でも何でもやればいいのに。ウイニングライブの練習だなんて、もう勝ったつもりでいるの?」
「私には分かるの、コートちゃん」
今日のコートは高飛車だった。アリアンスがレースに集中していないのは明らか、それが許せなかったのだろう。しかし、どこか違和感があった。今の彼女の態度は虚勢にしか見えなかったのだ。アリアンスは一度しかコートに先着していない。しかしそれは一着でもない、桜花賞で勝利したのはフルアダイヤーだからだ。コープコートは確かに、アリアンスの得体の知れない気迫に押されていた。
「分かるって、何が」
「コートちゃんは私に負けるってこと」
口元を歪めて笑った。アリアンスさん、この夏、いったいあなたに何があったの?コートもやれるだけの鍛錬は積んできたというのに、自信はあるはずなのに、不気味で仕方がなかった。
「だって、今の私の方がコートちゃんより強いから……。負けないレースの心配なんていらないかなって思うの」
あははっ、またしてもアリアンスは笑った。冷たい汗をかきながら、コートは反撃した。
「ふん、余裕綽々ね。調子に乗っていると足元を掬われるわよ。アリアンスさん、自信を持つようになったのは成長だけど、それだけで勝てるほどレースは甘くない。
最後の一冠、またしてもあなたは私の前に跪く」
「うーん、それもいいかも」
その一室は真冬のように凍えていた。上目遣いでコートを見つめるその様子は、まさに蛇とカエルだった。
「コートちゃんが、私の影すら踏めないコートちゃんがね、私の前に崩れ落ちるの。それを見て私はやっと実感できるんだよ?」
「な、何をよ」
コートがアリアンスのもとを訪れたのは、本当は確認のためだった。オークスから明らかな変化を見せる彼女に感じていた恐怖の正体を知り、払拭するため。しかし逆効果だった。今のアリアンスはやはりおかしい。何かに憑かれたように笑い、自身の勝利を疑わない。違う、私の知っているアリアンスさんは、もっと純朴にレースを愛するウマ娘だったはず。滴る汗を拭う間もなく、アリアンスは続けた。
『私の最強を』
時間だから、行くね。いつもの優しい調子に戻って、消えていった。
「あ、いた……!よかった、もう試合が始まっちゃうよ。みんなコートちゃんを待ってるんだよ。私はついていけないけど……、応援してるから……!」
「ええ、ヒナ、ありがとう。すぐ行くわ」
アリアンスの控室で一人残された彼女は、途方もない焦りとともに気圧されていた。
「何が、起ころうとしているの……?」
「さあさあ主役のご登場!一番人気はこのウマ娘、樫の女王コープコート!!紫苑ステークスは圧勝、夏上がりの新勢力をものともせず、その実力を遺憾なく発揮しました。インタビューによると今回も正攻法で突き抜けると自信満々でした!」
曇天の京都に栗毛が舞い降りた。恐れを見抜かれないように、思い切り手を伸ばしてピースサインをつくってみせた。入場し、バ場を駆け抜け余裕を見せつけてやった。そして、彼女に続いて、白毛のウマ娘が雪のように舞い降りた。
「女王の二冠に待ったをかけるのはこのウマ娘、紫水の瞳に宿すのは、秋の冠ただ一つ!二番人気はアリアンス!驚異的なレコードとともにローズステークスで重賞初制覇!桜花賞、オークス二着の惜敗に、この秋だけは譲れない!」
会場の熱気に反応する様子もなく、ただ静かにゲートへ向かう。彼女一人の世界に閉じこもっているようだった。
「アン、こっち見てくれない」
「トレーナーさんもどこに行ってしまったんでしょう」
フルアダイヤーとマロンナットは、最前列でアリアンスを見守っている。相変わらず付近にユウの姿はない。人が敷き詰められた会場は、秋の最強を待ち焦がれている。皆を熱狂させる新たな女王の誕生を、もしくは二冠の圧勝を望んでいる。
「うふふ、鳥さんがこっちを見ているわ」
ゲートは八番、コートは十二番、身体を押されて、ゲートは閉じられる。
「私はオークスを勝ったのよ、何を焦っているの。彼女のペースに押されてはいけないわ。ダメ、落ち着かないと……」
観客席の末端にユウはいた。周囲とは浮いたスーツに身を包み、何も持たずターフを見つめている。そんな彼に、後ろから忍び寄る影。
「なーにを上の空になってんですか!」
フードをめくって、ついにウールが姿を現した。アリアンスはもちろん、他の知り合いにも会わないようにこっそり来たらしい。オークスのレイを纏ったコートのデフォルメキーホルダーの付いたカバンからジュースを取り出して、残り半分を一気に飲み干した。
「ぷはぁ、ちゃんとアーちゃんに集中してください」
「こうでもしないと、緊張で潰されてしまいそうになるから。自分が走るわけでもないのに、情けない話だよ」
「何を言ってるんですか。緊張は思いの強さそのものですよ」
はっきり言って、どうにかなってしまいそうだった。ユウはもう、逃げられない。彼が恐れていた絶望に、アリアンスが飲み込まれようとしているのだ。それなのに、この期に及んでまだ覚悟が決まらない自分の弱さにどうしようもなく吐き気がした。一番辛いのは本人のはずなのに、それを受け止める勇気すら持てない自分には、アリアンスに何かを語りかける資格などないのかもしれない。今もこうして、遠い場所から呆然としているだけ。発走が近づくにつれて徐々に青白くなるその様子を見たウールは、濡れた新品のペットボトルを首に押し当ててやった。
「ちゃんと見てください。あたしを連れ出しておいて、自分だけ逃げるのはナシですよ」
担当ウマ娘にまで言われてしまった。震える指を隠してユウは質問した。
「ウールは、怖くないの?」
「うーん。あたしはほら、もう何ヶ月もアーちゃんの走りを見てないですから。何が起こったとしても、レースが終わったら、アーちゃんと目と目を合わせて、キチンと話そうと思います」
「そっか」
バシン。風に乗って鋭い音が響いた。ウールはあれだけ気にしていた人目を気にせず、ユウに強烈な一撃をお見舞いしたのだ。彼の間抜けで弱気な返答は、何があっても許せなかった。何が起こったのか分からなかったユウは動揺し、フリーズしている。
「助けようとか、救おうとか、いい加減にしてください。トレーナーとして完璧に導く大人を演じることがそんなに大切ですか?もっと、もっとあたしたちを信用してよ……!」
自分を暗がりから救ってくれた人間とは思えなかった。怒りと落胆が混ざって、歯を食いしばるしかない。アーちゃんを思うなら、もっと隣で、寄り添ってあげるしかないじゃないか、そう思った。
「等身大のあなたは十分に魅力的です。トレーナーとしてじゃなくて、一人の人間として全部晒してくれたからこそ、あたしはまたここに立てました。この前の言葉、一言だって忘れてません。だから、一緒に歩いていけばいいじゃないですか。一緒に泥に塗れて、怪我をして、ご飯を食べて、アイスを買って、強くなって――。みんなで横に並んで、同じ景色を見たいです」
ここまで言わせてしまう僕は、きっとトレーナー失格なのだろう。病院送りにしなかったのは、ウールの最大限の配慮なのかもしれない。きっと、またしても逃げることで病院の小さなモニターで見る方がよっぽど気は楽だ。けれど、優秀な彼女はそれを許さない。どこまでも見透かされていて、これじゃあどっちが指導者か分からないや。そう考えたら、少しだけ笑えてきた。
「あたしはそんな生活を取り戻すために、今日ここに来たんです。アーちゃんだけじゃなく、あなたの怠けた根性も叩き直してやるつもりなんですよ」
「本当にありがとう、ウール。君はやっぱり、最高のウマ娘だよ」
「見届けましょう、一緒に。勝負はまだ、始まってすらいないんですから」
ぐっと握り拳をつくって、目を大きく見開いて、遠い遠いアリアンスを捉えた。
トリプルティアラ最終戦、秋華賞のファンファーレが鳴り響いた。