「今週は休養だ」
秋華賞が終わって、私はユウさんから告げられました。だからといって真っ直ぐに寮に戻ることもできないので、燃える夕日の下、いつもの練習場所、ターフに来てしまうのです。何かお菓子でも買えばよかったかな、そんな能天気なことを考えて辿り着いた先には、自分の限界と必死に戦うウールちゃんがいました。息切れというには一定で小刻みな彼女の走りはまるで、自分自身を試しているようにも見えてきます。頑張って、そう声をかけるのも憚られるくらい、彼女は一人きりの世界をがむしゃらに進んでいました。
「すごいな、ほんとに」
隣のユウさんの手は汗で滲んでいます。どこか遠くから清涼の音色を鈴虫が運んでくるけれど、ユウさんの心奥の高鳴りはそれをかき消してしまうのです。ウールちゃんの勝利を確信しているようでした。でも私には彼女の今の全力は、とても菊花賞に挑める状態とは思えませんでした。
「ウールちゃんの気持ちは、とても嬉しかったです。でも、それとこれとは話が別です。勝てるわけない、今のウールちゃんじゃトップレベルとは戦えません。実力が、足りてないですよ……」
街に出ると周囲はいくらでも話題にしています。菊花賞の本命は、ナイズやミールラプソディだって。街の人々は皆、ウールちゃんのことは、誰一人として話してはいないのです。退学寸前だった彼女の出走表明は波紋を呼び、その批判も私の耳に届いてきました。本人はきっとそれ以上のダメージを負っているはずです。冷たい視線にブランク、これまでの実績、考えれば考えるほど、敗北の文字しか浮かんできませんでした。
「誰も信じてない……」
「アリアンス、君はどうなんだ」
彼女を一番近くで見てきたアリアンスは、どう思ってるんだ。ユウさんは強くそう言い放ちました。私だって、同じ気持ちです。今のウールちゃんはナイズちゃんやミールラプソディちゃんよりも弱いのは、どうやったって隠すことのできない事実です。私は歯切れの悪い言葉で返しました。
「勝てるわけ、ないです……」
「勝てないからやらないのか」
「えっ」
ズキッ、つまようじみたいな細く鋭い痛みが、私の胸に突き刺さりました。そんなこと言われたって、無理なものは無理です。これは誰がどう見たって無謀で、止めないユウさんもおかしな話でした。実際の彼女の走りを見れば見るほど、不安になってしまうのです。言葉よりも、身体は正直なことを思い知らされてしまうのです。
「だからといって、これは無謀です。こんなに無理をして、故障したっておかしくない!本当にウールちゃんのことを思ってるなら取り消しするべきです……!」
「違う、これは勇気だ。無謀なんかじゃない」
精一杯声を荒げる私に、ユウさんは優しく答えました。
瞳の向こうに、前へ前へと重い足を引きずるウールちゃんが捉えられていました。
「負けそうだから走らない。勝てそうだから走る。アリアンスの中でのレースって、そんな単純なものなのか。
負けるのが嫌だから、怖いから。それを理由に君が出走を取りやめたことなんてないはずだ」
私の方を向き直って、今度は私にその優しい瞳が突きつけられました。今の私を見ているというより、私と歩んできた記録を見ているような焦点のズレがありました。
「君は、応援してくれる全ての人のために、いつだって『勝てない』勝負に挑んできたんだ。何度負けても立ち上がり、コープコートに食らいついてきた。その事実は本当に、弱いの一言で片付けていいのか?弱者と一蹴して、過去の自分を否定していいのか?」
ユウの目には、アリアンスの迷いが映っていた。ウールの勝利を信じてあげられない彼女は、やはり強さに囚われている。それもそうだ、今のアリアンスにはウールは弱く映るだろう。
「ウールが証明しようとしているのは、君が捨ててしまったもう一つの強さだ。重圧に潰されそうになってしまった君が掴んだ
二人は同じ方向を向いているのだと、伝えてあげなければ。
「君が背負い切れない分を、彼女は背負おうとしているんだ。そのためにウールは、『勝てない』勝負に挑むんだ。二人で一緒に歩いていきたい、秋華賞を見た後の彼女は言っていた。だからその言葉、その決意のためにできることを全てやらせてあげたいんだ」
目を覚ます、なんて冷たいことをウールは言わないだろう。むしろこれはチャンスだと憎らしく笑ってみせるかもしれない。アーちゃんがあたしをもっと見てくれる大チャンスだって。そんな彼女だから、僕は応援したいのだ。
「ウールはアリアンスが思っている以上に、ゾッコンだからね」
「ど、どういうことですか……!」
一瞬、ユウさんがウールちゃんに見えました。身長も性別も違うのに、言葉だけは等身大です。もう、変な冗談を言うような人じゃないのに。むず痒くて、身体が熱くなっていました。
「あはは、アリアンスは何も心配しなくていいんだよ。むしろ今回は彼女の得意分野だ。いつだって勝つのは、最後まで諦めなかった者だからね。光明は、見つけるんじゃなくて創り出すものだ。ウールはその方法を知っている」
ハテナを浮かべる私に、ユウさんは気障すぎたと反省していました。その後は言葉も少なく、ただ遠くにいるウールちゃんの影を望んでいました。その、小さな小さな影を。
「あたしはトリックスターだからね」
体力と緊張の限界に張り裂けそうな心臓を押さえて、ウールは唇を噛んだ。全てが変わるあたしの生涯一度の挑戦は、紅葉と共にもうすぐそこまで近づいていた。