今日の淀の舞台は少し肌寒いから、何か羽織るくらいでちょうどいい。そう一年前、アーちゃんが言っていた。それならあたしは彼女の前で、最後の一冠の優勝レイでも羽織ってやろうじゃないか。大きな歩幅で、緊張を誤魔化すためにあたしは必死だった。空いた時間はストレッチをして、作戦を練っていた。いつもは行き当たりばったりで流れに合わせて思いついた作戦がうまくハマっていたけれど、今回ばかりは前日に頭を悩ませて唸っていた。結局何も出なかったから大人しくベッドに潜り込んだけれど、慣れていないことはするものじゃない。
「ウールちゃん、大丈夫?」
彼女の声がして、振り向いた。けれど、そこにはアーちゃんはいなかった。空耳にしては実感があったのに、ちょっと張り詰めすぎてるな、あたし。
「身体が硬いわよ」
気のせいかと落胆していたら、今度は本当にコートがいた。長い髪をかき上げて、腕を組んでいる。
「アーちゃん、どうだった?」
「どうって、強かったわよ」
信じられないくらい、そう俯きながら付け足した。あたしの無理やり動かしていた身体は止まってしまった。
「彼女じゃないみたいだった。鬼気迫る顔で、あっという間に私を攫っていった」
「ああ、違う違う。秋華賞の話じゃなくて、今の様子」
「何よ、私だって結構傷ついてるのよ。まあ、何度もお茶に手をつけてるから、落ち着かないみたい」
「じゃああたしと一緒だ」
教えてくれたコートも少し不安そうだった。なんだよ全く、みんなして。あたしがそんなにか弱く見えるのかな。心配性なんだから、自分も含めて。でも、こんなに心強いこともない。大好きなみんな一人一人が、同じ気持ちなんだ。レースは一人だけれど決して孤独じゃない。あたしの走りは、同じ気持ちのみんなに捧げる勇気だ。
「ナイズ、ミールラプソディ、そのほかにもこの夏を超えて全員が目まぐるしい成長を遂げた。もうあなたが知っている走りはしないわ。どこまでやれるかどうか……」
「どこまでもコートらしいね。でも一つ忘れてる」
「どういうこと?」
「成長したのはあいつらだけじゃない」
夏上がりとか、一皮剥けたとか言うけれど、それは別に身体やタイムだけの話じゃない。一夏超えて、精神的に成長したとするならそれは、何よりも立派なことじゃない。あたしは全てを諦めた夏に、全ての意味を知った。レースの尊さとそれが持つ重大な意味。そして、勝利を捧げたい相手。優劣をつける道具としか見ていない連中に、負けるわけがないんだ。そう考えたら、どっと勇気が湧いてきた。さっきまでの緊張が嘘みたいに、あたしの足は一歩を踏み出してしまっていた。
「あたしだって、強くなったんだよ」
見ていてね、アーちゃん。これは復活でも終わりでもない。あたしの全ての始まりなんだ。
熱狂を切り裂く深緑の瞳が、ターフに嵐を巻き起こす。