「淀に咲くのは3000の花。歴史と貫禄のクラシック最終は長距離G1、菊花賞がついに幕を開けます!」
会場に響き渡る澄んだ実況が、観客の秘めた熱情を誘い出していく。誰が勝つのか誰が勝つのか、実績か夏の上がりか、誰の応援が、思いが実るのか。決して簡単ではない3000m、出走するウマ娘のほとんどが未知の領域で、最後の一冠を奪い合う。一番人気はダービーを勝った十番ナイズ、次点で二番ミールラプソディとクラシック上位勢が順当に出走し、高い評価を受けた。ウールは八番人気と、誰の目にも実力不足に映っていた。しかし、今の彼女の目には不安も緊張もない。自分を律するどころか、秋風に身を委ね、その行くままにレースを進めてやろう、そんな余裕と気概を見せていた。
「昔通りに、そんな悠長なことは言ってられない。やっぱ流れに身を任せるのは趣味じゃない。レースはあたしがつくって壊すんだ」
一人一人丁寧にゲートに運ばれ、緊張の一瞬が近づいてくる。五番のウールも抵抗なく収まって、全員がそのときを待った。
「ウールちゃん、頑張って……」
緊張の絶えないアリアンスがペットボトルのお茶を喉に通らせた瞬間、ゲートは勢いよく開いた。そして十六人は一斉に、深い芝生を貫いていった。
「さあ全ウマ娘揃ったスタートを切りました!3000mの長丁場、どうこなすのか、誰が行くのか、八番九番並んでハナを取りに行きます。その後ろ、一番人気ナイズは下がって三番手、それを見るような形で態勢が決まっていきます」
八番と九番が二人並んで先頭を取る形でコーナーを回っていく。少し間を空いてナイズが陣取り、その後ろにウールは付いた。その周りを他のウマ娘が包むような形でスタンド前までレースは澱みなく進んでいく。歓声に導かれて、全体のが少しずつ速くなり、ほんの少しペースを上げて前の二人が後ろを牽制している。ついてこいと煽っているのか、それとも別の作戦があるのか、九番はハナを譲り、さらに集団は縮まっていった。相変わらずウールは集団の前方に位置し、ただ距離をこなすことにのみ集中していた。周囲の様子を確認する暇はなく、スタンドを過ぎてまたしてもカーブが来る頃には、ナニカの足音が近づいてきていることに気づいた。それはミールラプソディでも他のウマ娘でもなく、自分自身の限界だった。少しずつ、少しずつ、けれど確かに、彼女の足にしがみつき、前へ押し上げようと動く彼女を妨げる。それに抗うように、ただ一定の呼吸とペースで走り続けていた。
「落ち着け、落ち着け。あたしは戦える。今は耐えるんだ。苦しいのは皆も同じはず」
スタート地点から一周回って最後のコーナーに入ろうとしていた。皆セオリー通り、まだ我慢して、ロスなく回ろうと必死になる。と思っていたのも束の間、ミールラプソディは坂を気にせず駆け出し始めた。
「おーっと行った行った!ミールラプソディが行きました!八番を交わして一気に先頭に立つ、最後のコーナーを回っていきます!」
「俺はお前らみたいな虫ケラとは違う!最強は俺なんだ!」
ミールラプソディに稲妻が走る。芝生に纏う土を吹き飛ばして、一足早く飛ばし始めた。一気にレースが動き、最後の一冠はついにクライマックスを迎えた。最終直線に入り、先頭のミールラプソディがさらに突き放し、ナイズがそれを追う。徐々に下がり始める八番を後方集団が飲み込もうとしていた。
「ここしかないっ!」
ここで行かなければ、あたしの道は塞がれてしまう。抜け出すならここしかない。しかし、身体が思うように動かない。身体の硬直と呼吸の乱れを隠せない彼女にはもう、遥か彼方のミールラプソディを交わす体力は残っていなかった。
「違う、あたしはこんなところで負けるわけにはいかないのにっ……!みんなに、アーちゃんに、あたしの全部を捧げるって決めたのにっ……!」
破裂しそうな心臓がもうやめろと訴えかけてくる。鋼のような足があたしの歩みを必死で妨害してくる。あたしの思いを、全てが邪魔してくる。あたしの夢が消えかけている、最後に描いたわずかな希望が潰されてしまう。ダメだ、あたしは勝つんだ、絶対に、絶対に勝つんだ……!
「なにっ……!?」
全てが敵になったその瞬間、世界が歪んだ気がした。あれ、遥か向こうに見覚えのあるウマ娘がいる。そこにはレゾルーラ先輩とアーちゃんがいた。二人とも、笑顔で手招きしている。こっちにおいで、そう言っている気がした。負けたくないなら、勝ちたいなら、最強になりたいなら、私たちのもとにおいで。歪んだ笑顔が、誘惑してくる。
「本当に、勝てるの……?」
あたしは、目の前に最後の希望に手を伸ばしかけた。
「ウールちゃん……!」
「えっ」
あたしの幻想を、スタンドにいるアーちゃんの声が全てかき消した。世界はひび割れ、
「大丈夫だ、ウール、君なら誘惑に打ち勝てる。華麗に勝利してみせて、アリアンスに見せつけるんだろ?」
アーちゃんの隣にいるだろうユウトレーナーの声が聞こえた気がした。相変わらずあなたは最後まで、諦めること許さない。そして、あたしの可能性をあたし以上に信じている稀有な人。でも、華麗になんて無理かもしれない。今日ばっかりは、泥臭く、全てを出し切って、足掻き切ってみるよ。
「あたしが、あたしが勝つんだぁぁぁあああ!」
限界なんてどうでもいい。体力とか骨折とか、全部関係ない。あたしは勝つんだ、このレースは、あたしが生きてきた意味なんだ。アーちゃんとの、みんなとの絆、それを繋げていくために、前に進んでいくために、これからを掴み取るために勝つんだ。その時、ウールの身体中を一筋の稲妻が伝う。
「先頭はミールラプソディ!外からナイズ!最内突き抜けてなんとなんとショートウールが並びかけている!ミールラプソディかナイズか、ショートウールか!三人並んでゴールイン!」
無我夢中で走った、前に何人いるとか、後ろに何人いるとか、誰と競り合っているのか、誰が迫ってきているのか、もう何も分からなかった。最後に意識を取り戻した時には、電光掲示板の一番上にはあたしの番号、「五」の文字が刻まれていた。
「はぁっ、はあっ、あたし、勝ったの……?」
観客席からコールが響いてくる。あたしの名前を、ショートウールと、コールが叫ばれている。固まってしまったあたしの身体に染み込んで、溶かし切って、その心地よさに涙したあたしはその場に倒れ込んでしまった。この感情を喜びなんて陳腐な言葉で表現したくない。アーちゃんに捧げるこの勝利だけれど、ほんの少しだけ、自分一人のものにしたい気もした。
「あぁ、勝ったんだ、あたし。やり切ったんだ……」
頭がフラフラする。いつもはここからでも、アーちゃんのかわいい顔がしっかり視認できるのに。今はボヤけてしまって、よく見えないや。けれど、憎らしいフルアダイヤーの顔も分からないから、ちょっとお得な気分だ。普段は遠いところから見守っているユウトレーナーも、今日はアーちゃんの隣であたしのレースを見ていたみたい。あたしはおぼつかない足取りでアーちゃんのもとに向かった。
「アーちゃん、あたし、やったよ……。あれ……?」
「ウールちゃん……!」
力が抜けて前に倒れたあたしを、アーちゃんが受け止めた。今日のアーちゃんはいつもと違って、強烈にあたしを抱きしめた。彼女の涙があたしの髪を濡らして、優しく甘い匂いが鼻腔をくすぐる。上擦り興奮した声でアーちゃんは言った。
「本当に、本当にカッコよかった……!」
「あたしとアーちゃんが信じた夢は、決して間違いじゃないって……、証明したかったから……。だってほら、あたしを祝福してくれる人々は、こんなにいっぱいいるんだよ……?」
アーちゃんの胸にうずくまるあたしには周囲の様子は見えないけれど、それでも耳に心地よい歓声が響き続けているのは分かった。決してこれは、あたしだけのものじゃない。だってこれは、あたしが目指したアーちゃんの姿に他ならないのだから。
「ウール、本当にありがとう。今の君は誰よりも輝いているよ」
「あれ、ちょっと泣いてます……?今はアーちゃんバリアで何も見えないので、遠慮なく涙を流してもらっていいですよ〜」
「あはは、そうさせてもらおうかな」
鼻を啜る音が聞こえた。この人はいつも強がらない。あなたまでらしくないと、あたしだって我慢できなくなっちゃうじゃん。アーちゃんの胸の中で、あたしは精一杯涙を流した。まぶたはすっかり腫れて、顔は真っ赤だった。何かを感じたアリアンスはさらに強く、けれど優しくウールを抱きしめた。
「みんな、アーちゃんを信じてるから……」
恥ずかしくなったあたしはそう一言告げて、アーちゃんから脱出した。熟れたトマトみたいに朱に染まる顔を見られるのが嫌で、ウイニングライブのためと適当を言って見えないところに走り去った。
「本当にやってくれたわね、あの子」
「ああ、かつてミールラプソディやナイズは彼女を弱いと嘲る。しかし、強さだけを求めていた二人は、過去に負かし、その姿を笑った侮蔑の対象のウールに、ブランク明けの状態で完敗した。彼女の思いが絶対的な強さを打ち砕いた瞬間を、僕は目撃した」
本当に、本当によくやってくれた。ユウの目から我慢できず大量の涙がこぼれ落ちた。