「やっと戻ってきたわね、この騒がしさが」
「ねえアーちゃん、ブロッコリー代わりに食べて、お願い!」
五人で学食を囲む私たち。右隣から私のサラダの上にブロッコリーを乗せてくるのがウールちゃんで、反対側からウールちゃんを威嚇しているのがアイちゃんで、向かいでコートちゃんが上品にカレーを平らげています。お嬢様なのにいつも目を輝かせながら完食してしまうので、よほどおいしいみたいです。
「それにしても、本当に菊花賞を勝ってしまうなんて、ウールちゃんはさすがです!」
「まぁね。あ、サインなら勘弁だよ、まだできてないからね。昨日も取材があってさー、人気者は辛い!」
次から次へと話題が出てきて、まだまだ語り足りないようです。そんな溌剌な様子に私も思わず笑顔になってしまいます。間が空いて伸び切った髪は結っていたのですが、しばらく切らないそうです。なんでも、覚悟の証だとか。
「次はどのレースにするの」
「アンタから聞いてくるなんて珍しい。もちろん出走できるならアリマだよね。あたしのこれまでの総決算、全部をぶつけてやりたい」
固い決意を語るウールちゃんの瞳にはもう一切の迷いも不安もありませんでした。レースを真っ直ぐに見つめる澄んだ眼差しの向こうには、新しい彼女がいるのです。
「私はもちろん、エリザベス女王杯に決まってる。クラシックのウマ娘だからこそ勝ってみせるの。そうでしょ、アリアンスさん?」
突き刺すような視線をコートちゃんが向けてきました。お前も出てこい、そう睨んでいるのです。氷のように無機質に勝ち切った秋華賞の私に、コートちゃんが強く嫌悪感を抱くのは無理もありません。でも、だからといって、舞台が変わってコートちゃんが私に勝つことなんてありえないのです。だって、私の方が――。言葉を返そうとしたとき、ウールちゃんが優しく肩に触れました。
「隣を見て。フルアダイヤーが、マロンナットが、ショートウールが、みんながついてる。今のアーちゃんなら必ず打ち勝てるよ。コープコートにも、そんな力にも」
「ウールちゃん……!」
一度手にした力を捨てるのは怖い。今までの苦痛を知っているのならなおさら。でも、それを支えるだけの勇気を、希望をアーちゃんは皆に与え、紡いできた。だからあたしたちも支えるんだ。
「今度は負けないよ、コートちゃん!」
「今度『は』?」
「うん、今度は!」
ガタン、食事を終えた私は勢いよく立ち上がり、まだ騒がしい食堂を突き抜けて、一目散にユウさんのもとに向かいました。
「私、エリザベス女王杯に出たいです!」
大きな音を立てながらドアは開いて、ヒナさんと二人で談笑していました。匂い立つコーヒーの湯気が螺旋を描いて部屋中に漂っています。
「独りよがりじゃなくて、誰もが笑顔になる強さで、今度こそ、私を信じてくれたみんなに応えるレースをしたいんです。
「ちょうど出走表明をしようとしてたんだ」
アリアンスは覚悟の瞳をユウに突きつける。そうだ、僕は彼女のこの顔が見たかった。ウールの乾坤一擲の菊花賞はお客さんだけじゃなく、アリアンスの心まで震わせたのだ。彼女は奇を衒って変則的なレースをするわけじゃない。秘めたる思いがひたむきで実直だからこそあのスタイルに落ち着くんだ。次はアリアンスの番だと、そう告げているんだ。
「でも、越えなきゃいけない壁はコープコートちゃんだけじゃない」
「も、もちろん私たちだって負けないよ……!」
ヒナさんが念を押します。ユウさんがテレビを点けると、そこには報道陣に囲まれるウマ娘がいました。
『もちろん今年も出るよ、エリ女。あたいには連覇しか見えてない』
あっ。冷や汗が伝いました。そう、エリザベス女王杯は世代戦ではありません。遥か上の高みに到達したウマ娘たちも入り乱れる本物の女王決定戦。去年の覇者が出てくるのは当たり前の話でした。そしてもちろんそのウマ娘は、女王ナタリーさん。いつまでも私を支えてくれた先輩と、やっと初めて戦うのです。勢いだけではなかったつもりですが、改めて覚悟を決める必要がありました。心臓の鼓動が反響しています。私をからかうナタリーさんの飄々とした物言いと、テレビの記者会見の泰然とした眼差しが渦巻いて、私を支配していきました。そうだ、エリザベス女王杯で、ナタリーさんと走るんだ。
状況を理解し始めた私に、ユウさんは告げました。
「僕たちの夢は、終わらない」
そう優しく微笑みました。もしかしたら、始まってすらいないのかもしれません。はいっ、透き通った返答をすると、午後のチャイムが鳴った。
「あ、早くしないと!」
顔を真っ赤にしてそそくさと部屋を出ていった。換気のために窓を開けていると、木枯らしがハンガーに掛かるジャケットを揺らしてきた。もうシャツの袖を捲っていられるほど暑くはない。秋は夏や冬に比べると一瞬だけれども、あらゆる成長を実感し伸ばしていけるのも、この季節だと信じている。まだ少し早い木の葉が一枚、窓から入ってきた。
「僕は本当に、幸せ者だ」
「私たちも負けていられないなぁ」
強さとは弱さの反対なのだと、つくづく思い知らされる。上ばかり見ていても成長はしない。己の弱さに打ち勝つことが本当の強さで、どこまで自分を信じられるかということが結局、強さに繋がるのだろう。ちょうど今、越冬のために食材を探しに来た野鳥が、必死で木々や落ち葉を漁っていた。アリアンスは己の弱さを彷徨い続けて、今越えようとしている。
ーー
放課後、トレーニングが終わって寮に戻ると、ナタリーさんが一足先に休憩していました。見慣れたいつもの光景なのに、レース前のパドックのような緊張感がありました。一歩を踏み出す勇気がありません。自分の部屋なのに、どうしてこんな気持ちになるのでしょうか。
「どうしたの、足がガクガクだよ」
風呂上がりだったのか、パジャマ姿とともに顔が赤くなっています。すっかりお疲れムードのようなので、力なくずるずると這いずって、私の震える足をサワサワと撫でていました。紛れもなくいつものナタリーさんです。シャンプーのいい匂いも、ふわふわのパジャマも、少しいやらしい手つきもそのままでした。ですが、底知れない覇気に満ちているのです。何物も寄せつけない強者のものでした。
「あのっ」
「あたいが勝つよ」
くるっとバク宙をして、不適な笑みを浮かべました。よかった、アーちゃんと戦える、わざとらしく大きな振りで準備運動をしていました。小さな一室で、さっきまで睡眠三秒前のような脱力ぶりだったのに。
「アーちゃんも出るんでしょ、エリ女」
蛇に睨まれたカエルのように私はすっかり動けなくなってしまいました。
「アーちゃんはあたいの最後の夢を叶えてくれた。そのリボンも、ずっと着けてくれていた。全てを一閃したあの秋華賞で、あたいの空白のピースがついに埋まった。本当に嬉しかった。勝手な願いを押しつけてしまったというのに、嫌な顔一つしないで立派に成長し、果たしてくれた」
ライトに反射する涙が、跡を残すように静かに落ちていきました。床にたどり着いた時には飛び散って、もうどこにも見当たりません。
「あたいみたいに色々な人がアーちゃんに願いを乗せ続けて、それに応えようとどこまでも走っていけるから、アーちゃんは誰からも好かれるんだよね」
だからこそ、だからこそ。順番にナタリーさんの声が低くなりました。秘めていたのものが言葉とともに少しずつ、顕になっていくのです。
「そんなあなたに勝ちたい、あたいの中にそんな思いまで生まれてしまった。希望を抱いた相手を求めてしまうのは、どこまでもウマ娘の性かもしれないね。あたいが取れなかったG1を勝ったんだ、もう先輩でも客でもない、一人のライバルとしてアーちゃんと戦いたい」
緊張の稲妻が二人の間に走りました。ずっと感じていた違和感の正体はこれでした。今のナタリーさんは、いつも隣で慰め続けてくれた彼女でも、レースの後に労ってくれた彼女でもないのです。対等だからこそ、全てを剥き出しにしてぶつかってきてくれているのです。もう、甘えることは許されません。
「私も、絶対に負けませんから」
コートちゃん、シニア級の先輩たち、そして去年の覇者ナタリーさん。エリザベス女王杯に向けた巨大な竜巻は、私の不安も取り込んでいきます。ですがそれ以上の決意が、跳ね返してやろうという私の最後の思いも、同時に沸々と煮えていました。