初めてレースに立ったあの日は、影を許さない夏の日差しが眩い煌めきを放っていました。もちろん今日よりはお客さんが少なくて、でもだからこそ、一人一人の声が私の耳に響いていたのを覚えています。その一つ一つが力になって、なんとか勝利することができました。「頑張って!」「今だ、そこだ!」一時も忘れることはない、無名の私に届いた声援です。先頭で迎える景色はどこまでも広がっていくようで、レース場そのものが私を祝福してくれているようでした。初めて挑んだG1、世代の女王を決める阪神ジュベナイルフィリーズでは、コートちゃんの強さに圧倒されて、折れそうな心をナタリーさんが優しく受け止めてくれました。あの日の夜は冷え込んで、すっかり悴んだ手のひらに、ナタリーさんの温かく艶やかな両手が重なったのを覚えています。クラシックでは、何度も挫けて、自分の無力さを何度も痛感させられて、いくら努力を重ねても、現実は何も変わらなくて。
それでも、私はここにいます。全ては今日のための布石だったんだと、今ではそう思います。自分の過去に意味を灯すのは、今の自分しかいないのです。未来は決して、過去の延長ではありません。
「ユウさん、私、行ってきます!」
「ああ、アリアンスの本当の強さ、日本全土に見せつけてやろう」
控え室を出てトンネルの先、光り輝くパドックのさらに向こうの観衆のもとへと、アリアンスは消えていった。
「世代を超えた女王を決めるエリザベス女王杯!今年も豪華メンバーが揃いました。まずは四番昨年の女王一番人気はデュエットナタリー、今年は本調子の意気揚々と参戦です。続いて二番人気、惜敗続きの戦績についに終止符を打った八番アリアンス、重賞三連勝で虎視眈々と女王の座を狙います。三番人気は今年の樫の女王十番コープコート、その鋭すぎる一閃は世代混合でも通用するのでしょうか」
会場を揺らす大音声の先は一つではない。デュエットナタリー、アリアンス、コープコート、それぞれが勝利を願うウマ娘にエールを捧げている。しかし応援だけではない。ただ静かに祈り、無事と共にレースを見届けようとしているファンもいる。アリアンスにはその一人一人が、ゲートを前にしても鮮明に瞳に写っている。この人たちの存在を、胸に焼きつけておきたい、そう思ったのだ。もう二度と、道を間違えないために。何度も深呼吸をして、アリアンスはゆっくりゲートに入った。
「アリアンスちゃん、私のヒーロー。ずっと応援してます」
「アン、どうか無事に」
「だね」
マロンナット、ウール、フルアダイヤー、同じチームで苦楽を共にしてきた三人は、ただ静かにアリアンスを見守る。三人にとっても彼女は希望なのだ。全てを乗り越えてどうか、笑顔のあなたを見たい。
「アーちゃん、あたいは本当に嬉しい。あたいの夢を背負うと言ってくれたあの日から、もう今日の舞台は決まっていたのかも。ウマ娘の女神様は気まぐれだから、もうこんな機会は来ないかもしれない。さあ、始めよう。この2200mだけは、全力であなたを倒す」
乾いた風が肌を貫き、レースの発走を急かしている。そう、あたいも同じ気持ちだ。ゲートが開く瞬間の静寂が好きだ。もうその瞬間から、レースはウマ娘のもの。そしてそれはつまり、あたいだけのものだから。
会場が揺れている。今度は歓声のせいではない。女王ナタリーの纏う覇気が、全てを包み込んでいるのだ。自分のエゴを誇示する強さが、周囲を畏怖させる。
バァンっ!ゲートは勢いよく開いた。
「エリザベス女王杯のスタートです!」
全員揃ってゲートを飛び出した。牽制し合いながら、前へ押し出されたウマ娘たちから集団が形成されていく。
そしてその流れに乗って、アリアンスは前方へ滞りなく位置をとった。周囲を見渡し、ナタリーとコートの位置を確認する。コートは恐らく最後方にいるだろう、しかしナタリーの姿がなかった。ペースは流れることなく固まって進行していく。本命の居場所が分からないことに少し焦りはあるものの、1000mを越えようとしていた。
「大丈夫、みんなの声は届いてる。私は私のレースをするんだ」
「先頭は二番、三番と続いて十六番、そしてアリアンスがいます。その後ろにピッタリつけて一番人気デュエットナタリーがいます。集団はまとまって1000m通過は60秒9、淡々と進んでいきます」
「やっぱり決め打ちしてきてる。あの人、最初からアーちゃん以外興味ないんだ」
アリアンスは気づいていない。その狙い澄ました気迫の姿に。デュエットナタリーは彼女の真後ろ、いつでも襲いかかることのできる場所でその時を待っていたのだ。
ああ、アーちゃん、綺麗なフォーム、迅速な位置取り、そしてペース読み、全てが美しいね。やっぱりG1はこうでなくちゃ。あたいはもう喉元まで来ている、振り切ってみせてよ、さあ。
「向正面を過ぎ去って第三コーナー、坂を登っていきます。集団はまだ動かない、そしてゆったり降っていきます」
下り坂を降り、固まっていた集団は少しずつ広がり始めている。最後の直線に差し掛かったとき、アリアンスは芝生を踏みつける両脚に力を入れた。
「えっ」
ドクンッ。心臓が止まった気がしました。スパートをかけようとしたその瞬間、黒く深いオーラを感じだと思ったら、私のすぐ横をウマ娘が一人、堂々と抜き去っていったのです。刹那に見えたその表情は、呆気に取られた私とは違い笑っていました。
「今まで目標とされることなんてなかっただろう。レースはこういうこともあるんだよアーちゃん」
動揺した一瞬の隙をついて女王は一気に加速していく。
「さあ、始めよう。途中で降りるなんて許さないから」
ほんの一秒、その間にデュエットナタリーは驚異的な速度で彼女を離していった。一バ身、二バ身、必死で追いすがるが、作戦に見事引っかかった彼女の不安定な身体はスパートを無意識に一瞬遅らせ、差は広がっていくばかりだった。砂塵が霧散し、勝負服に絡みつく。不快な動悸が彼女の思考を支配していく。
「待って、待って……っ!」
またこの感覚だ。ローズSと同じ。ダメだ、敵わない。目標が、遠い遠いずっと向こうまで去っていってしまう。周囲の歓声が全部消えて、私の弱みが曝け出される。そして目の前に、レゾルーラさんと私の影が、領域が現れるのです。
「あのボンクラの顔、俺が見てきた奴らと一緒だ。もう手放せない。いくら口でなんと言おうと、敗北の恐怖に負けてしまったアイツは今にでも領域に到達する」
ユウは遠くで親父とともにレースを見ていた。反論することもなく、ただ彼女を信じて。
「アーちゃんは一人じゃない……!あたしの声、届いて……!」
深い深い闇の底へ堕ちていく。今まで負けてきたアリアンスの怨嗟が、前へ進もうとする彼女自身を引きずり込もうとする。お前だけ希望を持つのは許さない、その呪いが彼女の前に、レゾルーラとともに顕現していた。
「私は、私は……」
考えている暇なんてない、ナタリーとの差は瞬きする間に広がっていく。ああ、領域が発動する。否が応でも、彼女は力に手を伸ばす。
『自分を信じろ、アリアンスっっ!』
「ユウ、さん……?」
目の前が光に包まれた。その精一杯の叫びは一瞬にしてアリアンスの闇をかき消したのだ。あれ、みんなの声が聞こえます。みんなの姿がはっきり見えます。応援が、祈りが、勇気が、私の冷え切った心の闇を溶かしていきます。
「みんな、信じてくれているんだ……。そっか、アリアンスを、私を弱いと思っていたのは、私だけだったんだ……」
彼女の瞳から、領域が消えていく。その紫の眼には、支えてくれた人々が色鮮やかに反射していた。ああ、身体が軽やかになっていきます、けれどこれは領域ではありません。レースの重圧を、みんながかき消してくれているのです。大丈夫、あたしがついてる。そんなウールちゃんの声が、ナットちゃんの底無しの笑顔が、アイちゃんの激しいスキンシップが、私の背中を押してくれていました。忘れていた感覚が、蘇ってきます。輝く空と歓声を駆ける『楽しさ』が身体中を巡りました。思えば、レースを楽しいものだと教えてくれたのもナタリーさんでした。そしてウールちゃんも、レースは楽しいものだと私を諭してくれていました。ウマ娘にとって、自分を信じることが何よりも難しいかもしれません。消してしまいたくなるような過去を認めて、それすらも糧と信じることで初めて強さが生まれ、未来に光が差すのです。過去を救えるのは今の自分しかいないのですから。
「まだ、負けない……っ!」
「アリアンス伸びてきた、アリアンスが一気に伸びてきた!大外からコープコートも迫っている!やはりこの三強、やはり三強!デュエットナタリー振り切れるかっ!残り200!」
私の中の呪いが蒸発していきます。未来まで続いていくはずだった呪いの枷はもうありません。私は全てを背負って、もっと多くの人に希望を与えるウマ娘になるのです。だから今は、自分の持つ全てをぶつけて、ナタリーさんを倒します。
「はぁっ、はあっ……、そうだアーちゃん、レースは楽しいものだ、最後まで、最後まで楽しもう!あたいとアーちゃん、二人きりの舞踏会だッ!」
「ううん、それは違うの」
えっ。一瞬、アーちゃんに優しく抱擁されたような気がした。ただ前へと進むだけだったあたいを、光が包み込む。後ろにいたはずの彼女はもう、あたいの目の前にいた。
「二人きりじゃないです。今の私はみんなと一緒だから。もちろん、ナタリーさんも。だから、安心してください」
参ったな、勝てるわけないじゃん。あれ、また錯覚だ。うふふっ、そうアーちゃんが隣で微笑んだような気がした。
「デュエットナタリー苦しいか!アリアンス並んだ、二人並んでゴールイン!ゴール番ギリギリ、突っ込んできたアリアンスが差し切ったようにも見えました!」
同時に倒れ込んだ二人を、荒んだ芝生が優しく包み込んだ。そして二人で顔を見合わせ、大胆に笑い合った。
「ダメだ、負けたっていうのに清々しい!アーちゃんはほんと、どこまでも強くなっていくね!」
「まだ分かりません、ドキドキします」
「いーや、こういうのは感覚でビビッとくるものだよ。あたいの負け、ほんのハナ差。でもこれは一生分の差なのかも」
「うふふっ」
電光掲示板に表示されたのは、上から順に、八番、四番、十番。アリアンスの勝利を告げる実況に会場中が沸いていた。
「こんな楽しいレース、久しぶりでした。全部ナタリーさんのおかげです。本当にありがとうございました」
私は満身創痍のまま起き上がって、深々と頭を下げました。数秒後、何も返事をしなかったナタリーさんが思い切り抱きついてきました。
「あ、ごめーん!つい身体が勝手に!あたいだってこんな気持ちよく負けれるなんて思わなかったよ。ありがとっ、アーちゃん!」
ナタリーさんはしばらく温もりを堪能した後、もう一度笑顔を見せて、去っていきました。残された私はスタンドまで寄って、全力で両手を振ります。
「みなさん、本当にありがとうございました!!!」
私はもう一度、ナタリーさんにやったみたいに大きくお辞儀をしました。ウールちゃんやナットちゃん、アイちゃんの全力の賛辞が耳に届きます。私は思わず三人のもとへ駆け寄ってしまいました。
「みんなの声、聞こえたの。また囚われそうになってた私を助けてくれた……。本当にありがとう……!」
私は涙ぐみながら、大好きなみんなに全力の笑顔を見せました。そしていつのまにかそこには、ユウさんがいました
「本当におめでとう、アリアンス」
「あのっ、ユウさんの声、聞こえてました……!」
それ以上はいいよ、私の言葉は遮られました。大人らしく強い語気で、プレゼンのようでした。
「アリアンスが乗り越えたんだ。誰のものでもない、それは君自身の力だ。だからお礼なんてもったいないさ」
「違いますっ!」
私は今までにないほど強く反論しました。思わぬ反応に喫驚したのか、目を見開いています。
「ユウさんも私の一部なんです。だから、一緒に喜んでください……!」
トレーナーは偉そうに指示を出しておきながら最後には孤独に担当ウマ娘を走らせる。それが苦痛で仕方がなかった。代われるものなら代わってあげたい、共有できるならしてやりたい。しかしどこまでいっても言葉だけなのだ。だから、アリアンスにお礼を言われる筋合いなどないと考えていた。しかし彼女はもうそんな僕の思いまでとっくに受け止めていたのだ。それに気づいた僕はもう、溢れる涙と感情を抑えることができなかった。
「こんな、情けない顔……、みんなに……。ありがとう、アリアンス、本当にありがとう……。君は、君は本当に強い子だ……!」
ユウは人目を憚らず大量の涙を落とした。父に反発し、常に比較され続けることの苦痛が耐え難かった彼は、そのイメージの払拭のために彼女をスカウトした。そう思えばあのクソ親父の子どもであったことも、少しだけ良いものに思えてくるのかもしれない。アリアンスという最大の宝物を、僕に与えてくれたのだから。
「ああ、ユウトレーナーまで。でも今日くらいはイジっちゃダメだよね!アーちゃん、ほんっっとにカッコよかった!」
「うふふっ、私的にはかわいいって言われたいな?」
「それあたしが温泉で言ったやつ!」
「アン、かわいい」
「おいっ、ずるいぞ!」
冬の寒空が消えていくような暖かな光が、そこにはありました。その後、私は優勝レイを身に纏って、みんなを巻き込んで最高の一枚を写真に収めました。
「アリアンスは自分の弱さと戦って、ついに領域を克服した。思いが強さを超えた瞬間だ。アンタの腐った理想論はもう、今のウマ娘たちには通用しない」
「ほざけ、青二才が」
「その未熟にお前は負けたんだよ。いい加減認めろ老害。あ、そうだ、土下座するならウチのチームのコーチとして雇ってやることも視野に入れてやるよ」
僕は溜めに溜めていた皮肉を放ち、気持ちの悪いニヤケ顔をぶつけてみせた。こいつと違って、アリアンスたちはまだ先がある。僕はもう、囚われない。アリアンスが解放してくれたこのチームで、自分の世界を切り開いていくんだ。小さな小さな親父に背を向けて、彼女たちの待つところへと戻っていくのだった。
次回で完結となります。投稿間隔はバラバラで予定通りには全く進みませんでしたが、それでもここまで見てくださった方々、本当にありがとうございました。