「まさかほんとにこっちに来てくれるなんて。まだ実感が湧かないけど、よろしくお願いします、新人トレーナーのユウです」
「そんな畏まらなくていいですよー。気楽にいきましょ?どうも、アーちゃんの親友のショートウールです。アーちゃんのことなら何でも聞いてね。例えば、最近スイーツばっかり食べてたから体重微増だったりします」
「い、言わなくていいから。恥ずかしいよ」
まだ誰にも言っていなかったのに。ユウさんは苦笑いしていました。まだお話ししていなかったので、気まずいです。もう目の前のお菓子に手をつけることができなくなりました。
「きれいな部屋ですね。トレーナーの部屋って、もっと書類とか雑誌で埋まっているものだと思ってました。あ、チェスあるんだ、今度対戦します?あたし結構自信ありますよ」
盤上のルークを指で弾いていました。確かに私も、もう少し慌ただしいお部屋を想像していましたが、まるで社長室みたいで、居心地は良いのですが、少し緊張してしまうこともあります。
「担当ウマ娘を汚い部屋に入れるわけにはいかないからね。それはそうと、アリアンスから聞いてるとは思うけど、再来週、アルテミスステークスに出走する。それで練習のために併走をお願いしたかったんだけど、適任の子がチームに来てくれたから、本当によかった。今日からは、言ってみれば実戦練習をしていこう。もう二人ともレースでの駆け引きを覚えられる程に強いから、色々教えていくよ」
「なるほど、それなら任せてください。アーちゃんのために一肌脱ぎますよ。頑張ろうね、アーちゃん」
お手柔らかにお願いしたいです。ウールちゃんはノリノリでしたが、今の私でどのくらい相手になるのでしょうか。もちろん不安が半分以上でしたが、ウールちゃんと走れるという期待もありました。重賞を制覇したウマ娘と併走だなんて。ユウさんから練習メニューを聞いて、さっそくターフに向かいました。
「次のレースで、逃げを試してみたいです」
先日、ナタリーさんから逃げの提案をいただいて、ユウさんに相談してみました。探偵のように指を顎に当てながら、しばらく考えています。答えは、準備運動が終わると返ってきました。
「めっちゃ良いアイデアだ。アリアンスがいいと言うなら、ぜひそれでいこう。今回のメンバーなら、序盤邪魔されることなく先頭に出れると思う。そして、先頭のプレッシャーとか、ペースをつくるとはどういうことなのか、それを身体で感じてほしい」
ユウさんからの許可が出ました。ウールちゃんは脚質、先行のウマ娘なので、それを考えても良い練習になるだろうとのことです。私は自分では感じていませんが、得意な脚質はあるのでしょうか。今度機会があったら聞いてみることにします。自分で理解できるならそれに越したことはないのですが。今のところはこれが走りやすいというような実感はありませんでした。
「じゃあさっそく走ってみよう。まずはアップで2000を軽く。小休憩を挟んだらもう一周。今度は好きなようにやってみて。もちろん本気でいいよ。アリアンスも、重賞レベルを肌で感じてほしい」
アップで走っているだけなのに、ウールちゃんの瞳は燃えていて、私に火花を散らしているようでした。今までの練習とは違って、既にプレッシャーが鋭くのしかかってきました。本番のレースに似ています。もちろんこれは練習ですが、勝てるとまではいかないまでも、負けるつもりは到底ありません。勝ち負けで悔しいと言える、それほどピリピリとした空気感でした。
「さ、どうぞ。アーちゃんが走り始めた瞬間からついてくよ」
私は走り出しました。ペースを考えて走ろう、そう思った時、蛇に睨まれたカエルのように急に足が重くなりました。いや、それは違います。比喩なんかではなくて、ヘビどころか、ライオンに睨まれているのです。もっとペースを落ち着かせろ、はたまた、もっとペースを上げろ。色々な声が聞こえてきました。後ろにはウールちゃんただ一人しかいないはずなのに。
「はあ、はあ」
肺が締められて、息が苦しいです。全然、まだ行けるのに、体力的には余裕のはずなのに。
「もっと自分に自信を持って、流されちゃったら負けちゃうよ」
途端にウールちゃんが私を抜き去って、それを必死で追いかけているはずなのに、足の反応が全く追いつかず、どんどん離されていきました。走り切っても、鼓動が止むことはありませんでした。息が乱れています。けれどこれは、限界まで走ったことが理由で体力が底を尽きたのではなくて、ウールちゃんが放つプレッシャーによって、体力も精神も疲弊し切ってしまったのです。ウールちゃんが駆け寄ってきました。
「どうだった?その調子を見ると、だいぶ無理してたかな?まあ逃げは初めてだろうし、かなり難しい作戦だもんね」
ウールの言葉にも返事ができず、呼吸を整えていました。私の醜態の一部始終を、ユウさんはじっと見つめていました。逃げがここまで難しいこととは思ってもいませんでした。そして、ウールちゃんとの実力差もここまでとは思いませんでした。
「ごめんね、ウールちゃん。全然相手にならなかったよね。でも次は負けないから、もう一回相手してほしいな。ユウさん、もう一回いいですか」
ユウさんは深く頷きました。何か深い考えがありそうで、難しい表情をしています。さっきはウールちゃんからのプレッシャーに完全に萎縮してしまって、冷静さを欠いてしまいました。今度は落ち着いて、自分のペースを崩さないように。それだけを意識して走ります。
その後も、何回かウールちゃんと併走しましたが、最初以上のパフォーマンスは発揮することができませんでした。ウールちゃんがお手洗いに行っている間、落ち込んでいる私にユウさんが声をかけてきました。
「逃げはなかなか難しかったかな。脚質適性はそれぞれのウマ娘のレースへの価値観によって大きく変わってくるから、こればっかりは落ち込む必要なんて全然ないよ。例えば、圧倒的な勝利を求めていたり、プレッシャーでむしろ活気づくなら脚質は逃げになるだろうし、アリアンスのように、堅実に慎重にいきたいなら脚質は差しになるだろう。つまり、アリアンスの適性は差しになる」
「幅広く対応できるのを強みにしたかったんです。なのに、ここまで逃げに適性がないと、少しショックです」
「僕が変なことを言ったからだ。本当にごめん。そもそもアリアンスの実力なら、どれだけ差しに不利な状況でも抜け出していけるのに。それを信じないで、無理させてしまった。どうか不甲斐ない僕を許してほしい」
深々と頭を下げていました。期待に応えられなかったのは私なのに、ユウさんは叱るでもなく、呆れるでもなく、謝っていました。
「そ、そんな。謝らないでください。できない私が悪いんです」
「克服する必要のない苦手の矯正を強要したのは僕だ。トレーナーならもっと他に担当ウマ娘の実力を上げる方法なんていくらでもあった。だから、アリアンスは全く悪くない。本当にごめん」
「私は全然気にしてないですから。頭を上げてください。ウールちゃんにからかわれちゃいますよ。それに、私はユウさんに感謝しています。少し指示を間違えたくらいなんともないです」
ユウさんはありがとうと、また頭を深く下げました。私はもう一回ウールちゃんとの併走をお願いしました。今度は得意な差しの練習のために、私と少し差をつけてウールちゃんに先行してもらいます。
「お、今度はあたしが前?いいよー。今度も負けないからね」
二人は一斉に走り出して、私は速度を少し落としました。ウールちゃんからしてみれば、伸び伸びと走ることができて都合が良さそうですが、私は、先頭と比較的長めの距離があったほうが走りやすいだろう、とユウさんに言われました。
「このままだと逃げ切っちゃうよ。アーちゃん」
楽な手応えです。私には後ろから狙いを定めるのが似合います。落ち着いて、ただ前を向いて、足を弾ませて、ウールちゃんとの差を縮めていきます。そして、ついに抜き去って、ゴールしました。息は乱れていましたが、今度は全力で走り切った喜びでした。
「やっぱりアーちゃんは速いね。こっちの方が生き生きしててかわいい」
ウールちゃんは優しく微笑んでいました。ユウさんも、私の豹変に驚いているようでした。そして、すぐにまた浮かない顔になりました。
「トレーナーもそんなに落ち込まなくていいんじゃない?逃げを経験したアーちゃんは、絶対もっと強くなったよ。逃げの気持ちがわかるようになったもん。あたしたちのトレーナーなら、それくらい分かってて指示したんだよね?」
さっきの会話を聞いていたのでしょうか、ユウさんを励ましていました。そうです、ウールちゃんの言う通りです。私は今日の練習で、今までより何倍も成長しました。さっきみたいに走ることができれば、私はきっとアルテミスステークスでも良い結果を残すことができます。
「私、勝ちますから。見ててくださいね。ユウさんのミスも気にならないくらい、圧勝してみせます」
「ほんと、かわいい笑顔だなあ。アーちゃんは」
私の初めての重賞挑戦の幕が開きます。