秋の向こうへ、その向こうへ。   作:たいたい35

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阪神ジュベナイルフィリーズ 後編

いざここに立ってみると、どうしても胸が高鳴ります。初めてのG1のプレッシャーは、想像の何倍も大きなものでした。絶好の晴天で、芝の様子も全く異常が見当たりません。まさにG1日和です。何をするのも自由、何が起きてもおかしくない、それぞれの作戦がいくつも飛び交いそうな予感がします。何度も深呼吸を繰り返していると、会場がどっと湧き上がりました。堂々の一番人気、コープコートの入場です。優雅に観客に手を振りながら、こちらへ向かってきました。

 

「今日の私は絶好調。いくらアリアンスさん相手でも、完膚なきまでに圧倒してみせるわ」

 

プレッシャーを味方につけているコートちゃんには、余裕がありました。今の私は誰にも負けない、強い威圧感が私の周りを支配していました。けれど私も、コートちゃんが走った数だけ、貼った絆創膏の数だけ努力してきました。コートちゃんに対抗するように、余裕のある顔をしてみせました。今の私も全く完璧です。後ろめたい要素など一つも残っていません。自信を持って迎えてやればいいのです。

 

「今日こそはリベンジだよ、コートちゃん」

「その顔。やっぱり今日はあなたが一番の強敵になりそうだわ、何をしてきてもおかしくない。そんなアリアンスさんに一つだけいいかしら」

 

私の耳元に顔を近づけて、ささやきました。

 

「女王は正攻法でやってくる」

 

ふふっと笑って、自身のゲートに向かっていきました。その意味は、まさしく宣戦布告でした。直線の圧倒的な切れ味でコートちゃんがぶつかってくることを示していました。少し動揺してしまいましたが、分かりきっていたことです。私は私の走りを突き通す、それだけは変わりません。

 

「ねえルドルフ、あたい、今までにないくらい昂ってるよ。今日をどれだけ心待ちにしたことか。あの二人の極限の戦い、この目に焼きつけとかないと」

「私もだ、誰が勝つのか全く予想ができない。確かにあのコープコートは強いが、レースに絶対はない。君の言うアーちゃんの健闘を期待しているよ」

 

ゲートに入る前、ナタリーさんと目が合いました。この距離では何を言っているのかは当然分かりませんでしたが、落ち着いて、そう言っているように思われました。

 

「ついにこの日がやってきました。ジュニア級最初の聖戦、阪神ジュベナイルフィリーズ!今日の阪神競馬場はかつてない熱気に包まれています!一番人気はデイリー杯の覇者、八番コープコート!二番人気はアルテミスステークスの覇者、五番ビジョンスター!三番人気は十番アリアンス!初G1の舞台でついに悲願の重賞制覇を狙います!」

 

 

気合の入ったアナウンスが響き渡ります。紹介が終わって、少しずつゲートに入っていきます。武者震いなのか、身体が震えています。この気持ちは何でしょうか。こんなに動悸は激しいのに、緊張しているはずなのに、どこか平静があるのです。これはきっと、自信です。私の全てをぶつけられれば勝つことができる、その自信の表れです。皆ゲートに収まって、私の初めてのG1が今、始まります。

 

「皆綺麗なスタートを切りました!ハナを取ったのは三番!流れるように隊列が決まっていきます。八番コープコートはやはり最後方、余裕綽綽、前の出方を伺っています」

 

私は三番手について、呼吸を乱さず、走っていきます。最初のコーナーはスムーズに走り切りましたが、その後でした。身体が違和感を感じました。先頭の動きがおかしいです、まるでやる気のないフォームでした。その瞬間、スローを察知しました。このままではまずいと、身体が言っています。このままペースに持ち込まれれば、体力が削られてしまいます。私が取るべき行動は、一つしかありません。

 

「おっとアリアンスが早くも動いた!なんと先頭に立ったぞアリアンス!今日はアリアンスの逃げ切りだ!」

 

歓声が大きく上がりました。私は逃げが得意ではないです、けれど今なら、自分を信じることができる今なら、やりきれます。少しだけペースを落として、極限まで後ろの子たちの体力を削ってみせます。プレッシャーに怯えていた私が、今日の先頭はむしろ開放感に溢れていて、堂々と余力をいつもより残して走ることができます。後ろの子たちの息遣いが荒くなっていきます。それもそのはずです。マイル戦だからといって、スピードばかり研究している諸刃のトレーニングは、いつかボロが出る、そうユウさんが言っていました。レースは残り半分、私はさらにペースを落として、足を溜めていきます。

 

「これはスローペースだ!この良馬場で、前代未聞の逃げが一人!特にコープコートには厳しい展開になりました!皆辛そうな顔をしています!さあ最終コーナーに差し掛かる!アリアンスさらに足を伸ばした!ぐんぐん逃げていく!これを差し切れる子は現れるのか!」

 

コーナーを過ぎた瞬間、さらに脚に力を込めて、全速力で飛ばしていきます。もう誰にも私の影を踏ませない、勝つのは私です。けれど、これだけ完璧な展開で、私のペースに持ち込んでいるのに、足音は確かに一つだけ、近づいてきました。背後から強烈なプレッシャーを感じます。ここまでの覇気を出せる子は、ただ一人だけでした。

 

「見事にやられたわ。けど勝負はここから。さあアリアンスさん、力比べといきましょう」

 

「なんとなんと内を通って伸びてきたコープコート!何という速さだ!しかし両者とも限界を迎えている!最後は純粋な力比べ!激しい思いのぶつかり合いだ!」

 

残り100メートル、尋常ではない速度でコートちゃんが迫ってきます。圧倒的なスピードは、全てをねじ伏せてしまうのです。けれど負けません、私の全ては、確かにコートちゃんに届くはずです。

 

「絶対負けない!!」

「アリアンス粘る粘る!しかしコープコートも落ちない!差が縮まっていく!アリアンス苦しいか!」

 

足が重い、私を突き動かすのは勝利への執念だけ。あと数十メートル、二人とも限界はとっくの昔に追い越して、思いだけをぶつけ合って。溺れた子どもが必死で前に進もうともがくように、ひたすら前へと進もうとします。けれど、またこの感覚です。届かない、またしても私の思いは届かない。走っても走っても、どれだけ走っても、加速できません。勝ちたいのに、勝ちたいのに。どれだけ鼓舞しても、足りませんでした。

 

「なんとコープコートが差し切った!アリアンスはアタマ差の二着!今ここに女王が誕生しました!コープコート、無敗のG1制覇です!その末脚は、確かに世代の頂点まで届きました!」

 

走り切った私は、ターフに倒れ込みました。たった数十メートルなのに、何千メートルも走らされているような気がしました。自分の身体が思うように動かなくて、力不足を実感させられました。突きつけられるのは、私がコートちゃんよりも弱いという真実だけでした。何回も何回も深呼吸をして、ちぎれそうな心臓と、自分自身をなだめていました。ふらついた足でようやく立ち上がると、歓声に包まれたコートちゃんが目の前に立っていました。

 

「本当に強かったわ、アリアンスさん。私のライバルは、やっぱりこうでなくちゃ。あなたとまた走りたい。いつでも待ってるから」

 

返事もすることなく涙を堪えている私を一人にするため、コートちゃんは去っていきました。何分間か経って、私は死人のように動き始めました。そこには、ナタリーさんがいます。何もかもを諦めた私の瞳を見つめながら、ナタリーさんは言いました。

 

「よくここまで泣かなかったね。本当に偉いよ。あたいがアーちゃんのことを好きなのは、そういうところ」

 

静かに私を抱きしめました。レースの内容に一切言及することなく、ただそれだけでした。私はナタリーさんの胸で、ひたすらに涙を流しました。何分も何分も、ナタリーさんは何も言わず、ただ温もりを与えてくれました。私が少し落ち着いたのを感じて、口を開きました。

 

「アーちゃんに弱いところは何一つなかった。ゴール版を過ぎた瞬間に涙を流さなかったのは、これで終わりじゃないからだよね。アルテミスステークスで敗北を知ったアーちゃんは、今日はここまで涙を堪えたんだよ。だから偉いんだ。だから強くなれるんだ。きっと次流す涙は、ウイニングライブの時だよ」

「ナタリーさん、また負けちゃいました。みんなを裏切ってしまいました」

「少なくともあたいは裏切られてないよ。だってアーちゃんは確かに強くなってたもん。私が裏切られると感じることがあるとすれば、アーちゃんがレースから逃げ出したいって言い出した時かな。もちろんお友達も、トレーナーさんも同じ気持ちだよ。アーちゃんは、背負い過ぎだよ。こんなこと、いつか言った気がするね」

 

いつものように私の頭をぽんぽんと撫でて、それから私に顔を合わせて、言いました。

 

「今日のレース、楽しかった?」

 

単純な質問でした。数秒もあれば考えられるほどの質問です。そしてウマ娘なら誰もがはいと答える質問です。

 

「勝敗の前にはさ、必ずこれがあるんだ。レースを楽しむっていう気持ちが消えてしまったら、そんなレースに価値はないよね、いくら勝利したとしても。アーちゃんは、今日のレース楽しかった?」

 

私が超えたいと思う人が、全力でぶつかってきて、お互いの全てを出し合って、思いをぶつけ合って。勝利に夢中になるあまり、一番大切なものを見失っていました。いつもいつも、ナタリーさんはそれに気づかせてくれます。高め合っている仲間との本気のレースが、つまらないわけがありません。最強であるコートちゃんとの勝負が、平凡なわけがありません。レース前、私の動悸の激しいのは、このレースを全力で楽しみたいという思いが一番でした。私はようやく、それを理解したのです。武者震いよりも平静よりも、単純なものでした。それに気づくと、少しずつ涙は引いていきました。

 

「私、とっても楽しかったです。胸がドキドキして、考えてみれば、これがレースの醍醐味ですよね」

「うんうん、分かればいいんだよ。何事も楽しまないとね。それに、このレースで二着って、本当はものすごいことなんだよ?間違いなくアーちゃんは世代トップクラスの実力なんだから、もっと誇ればいいのに。リベンジの機会なんてまだまだあるわけだし」

「そうですよね、その通りですよね。ナタリーさんの言う通りです!これからの努力が一番大事ですよね。ナタリーさんのおかげで、立ち直れました」

「あたいは何もしてないよ、結局アーちゃんがたくましく、強くなっただけだよ。あれ、アーちゃん、どうしたの?」

 

お小遣いを求める子どものように、すらっと忍び寄りました。ナタリーさんはすっと顔を近づけて、ねだりました。心残りが一つ、あったのです。

 

「がんばった私に、一つだけいいですか?」

「え、何その顔。アーちゃん急にちょっと怖くなってきた。けど内容によってはちょっとだけ考えさせてね?」

「そうですよね、嫌ですよね。私のお願いなんて、ナタリーさんの迷惑になるだけですよね」

「ウールちゃんが言ってたのってこういうことか、こんな顔されたら断れるわけないじゃん!分かった、分かったから!何でも聞くから、言ってみて?」

 

何もかも飲み込まれてしまいそうな夕暮れの下で、今まで流した涙を忘れるような、全力の笑顔で言いました。

 

「まだナタリーさんと写真撮ってなかったです。だから、思い出、つくりたいです」

 

残映に真っ赤に染まった二人の笑顔は、アリアンスの忘れられない思い出として、寮の写真立てに飾られることとなった。

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