「二番がここで出るなら……」
きさらぎ賞当日、控え室のウールちゃんの様子を見にいくと、レースの展開予想をしていました。テーブルの上には温かいミルクとにんじんロールパンが置いてあります。私に気づくと、真剣な蒼の眼差しが和らぎました。
「一個、どーぞ」
鼻腔をくすぐるのは、ほのかなバターの香りです。このロールパンを見ていると、トレセン学園に入学したばかりの頃を思い出します。不安と期待に胸を膨らませ、落ち着きがなかった私を、ウールちゃんの持ち前の優しさが包んでくれました。この匂いは、その香ばしさです。
「とってもおいしい。私とウールちゃんの思い出の味だね」
「えへへ、あたしとアーちゃんが始まった味。初心を忘れないようにね。それじゃあ、行ってきます」
ウールちゃんの温もりを感じる白い手をぎゅっと握って、真っ直ぐな瞳を見つめて。がんばってね、私からの精一杯のエールでした。
まだまだ寒い如月の冬。その名の通り、きさらぎ賞。クラシックに挑むために、まずはここから。戦況に応じて柔軟に対応できる力を身につけたかった。他のウマ娘との差をつくるとなった時に、あたしの一番の武器はそこにあるはず。だから今回は正攻法ではやらない。先行策が少しでも厳しそうなら、差しでも、最後方からでも追ってやる。
「落ち着いていけば大丈夫。周りとの実力差は圧倒的だ」
そうは言うけれど、トレーナーからの視線は落ち着かなかった。順当にレースが動けば勝てる、いつも通り走ることができれば圧勝できる。それはつまり、私が仕掛けを間違えれば、案外簡単に負けることもある、そういうことなのだろう。ならあたしは、圧勝してみせるしかない。
「ホープフルステークスでは二着に敗れましたが、強豪二人と真っ向勝負を仕掛け善戦したショートウールが参戦です。圧倒的な一番人気の前に、他のウマ娘たちはどう出るのでしょうか」
ストレッチはしたつもりだった。けれど、まだ身体は少し震えて、鈍い感じがする。走り出しから速度を上げていくのは危ないかもしれない。とにかく思考を巡らせながら、ゲートにゆっくりと入った。
「全ウマ娘綺麗なスタートを切りました。まずは作戦通り八番が先頭に立って、レースを引っ張っていきます」
予想通り、皆前目についていて、あたしがつけ入る隙は無かった。外から前に上がるウマ娘に防がれるように、あたしは内に揉まれていく。
「四番ショートウールは中団を選択しました。これは少し遅いペースか、第一コーナーを曲がっていきます。少しずつ隊列が決まっていって、集団はかなり固まっています」
あたしから同心円状に広がるように、他のウマ娘が並んでいる。それは、逃げの八番に引っ張られることなく、あたしをマークしているウマ娘が多いことを示していた。かなり厳しい展開で、このまま揉まれてしまえば作戦も何もなかった。あたしの走りは少しずつ乱れていく。
「向正面を過ぎて、先頭との差は四バ身ほど。逃げ切れるのか差し切れるのか、ショートウールはまだ揉まれている!残り600mの標識を通過して、外を回って後方の子たちが動いた!」
どれだけ必死に目を凝らして進路を探っても、前は空かない。そうしているうちに、後ろから外を回って中団に被さるように追い込みの子たちがスパートをかけ始めた。全ては最後の直線、あたしへのマークをズラして、他の子が前を追い始めてバラけた一瞬、そこから抜けるしかない。
「ショートウールは辛そうだ!これは作戦なのか、まだ伸びない、まだ伸びない、残り400!外を回って五番が追ってくる!八番はまだ逃げている、リードは二バ身!」
残り300m、前に立ちはだかる巨大な壁に、呼吸がさらに荒くなっていった。心臓が高鳴り、このまま埋もれてしまう未来が頭をよぎった。けれど、ここで諦めてしまったら、あたしは成長できない。まだ、まだ耐えるんだ。あたしはまだやれる。焦っているのは、あたしだけではないはずだ。残り150m、先頭との差は四馬身。その瞬間、ゴール版から差す一筋の光が見えた、今の今まで恐れていた目の前の壁へ、あたしは迷わず突っ込んだ。
「ショートウールが間を縫って追ってきた!なんという末脚、異次元の末脚!レベルが違う!一気に抜き去る!先頭は、五番が八番を抜き去って、最後の追い比べ!これに加われるかショートウール!」
前四頭の追い比べ、速度はマックス、今までにないくらい身体が軽い。あたしは確かに成長している。けれど、あまりにも遅過ぎた。
「四人縺れてゴールイン!勝ったのは五番か、六番か、これは写真判定です!なんと、圧倒的一番人気ショートウールは、見事に内から伸びてきましたが、少々届きませんでした」
あたしは五着、あと一歩届かなかった。けれどあたしは達成感に満ちていた。一番人気のために大勢からマークを受けてしまったのを、作戦で抜け出した。予想しなかったレース展開の中で、ここまで臨機応変に対応できたのは、我ながらよくやったと思う。そう考えると、このレースで得たのは、とても大きなものだった。呼吸をゆっくり整えるあたしに、キュートな天使が心配そうに駆け寄ってきた。
「ごめんねアーちゃん。負けちゃった。やっぱり重賞ともなると、みんな強いし、作戦もそれぞれあって、一筋縄じゃいかないね」
負けてもなお満足そうに振る舞うあたしに、アーちゃんは安心したような顔を向けた。冷たいあたしの手を握って、静かに言った。
「ううん。ウールちゃんもとっても強かった。私、全部見てたよ。あんなに囲まれてたのに、最後の最後まで耐えて、抜け出しちゃうんだもん」
あの走りはウールちゃんにしかできない、ウールちゃんはやっぱりすごいと、アーちゃんはひたすらにあたしを讃えた。周りからは大きな罵声が時々聞こえてきたけれど、そんな声よりアーちゃんの賛美がひたすら嬉しかった。
「でも、負けちゃったな。アーちゃんとのお出かけ、楽しみにしてたのに」
圧勝して、次の日にはアーちゃんと楽しくお出かけ。そんな夢のプランがあっけなく崩れてしまった。そう思うと内から黒い気持ちが急に襲ってきた。やるせなく俯くあたしの前に、サプライズをするような得意げな顔で二枚のチケットをアーちゃんが見せた。
「誰か友達とどうぞってユウさんがくれたの。明日、ウールちゃんと行きたいな」
頼まれているはずなのに、女神様の慈悲を受けたような気がした。アーちゃんは適当な慰めで言っているわけではなくて、あたしの今日のレースを心から尊敬しているのだから、こんな気持ちになるのだと思う。あたしは負けたというのに、アーちゃんにこう言われてしまうと、嫌な気持ちなんてどこかへと飛んでいってしまう。断れるはずなんてなかった。たとえ明日レースがあったとしても、アーちゃんの誘いなら迷いなくレースを切って了承するし、外国だったとしてもすぐに向かう。この子はどこまでも健気で優しくて、あたしも自然と笑顔になってしまう。
「アーちゃんはほんとに優しいね……。あたしが断るわけないじゃん!もう、アーちゃん大好き!」
「は、恥ずかしいよウールちゃん」
思わずアーちゃんに抱きついた。サラサラの髪がくすぐったくて、制服越しでも体温が温かくて、脳に広がるアーちゃんの匂いが甘美で。とにかく明日が楽しみで仕方なかった。けれど反省だけはしなければ。まずはトレーナーのところへ。集合時間を伝えてからアーちゃんと別れて、早足でターフから去っていった。