「あたし、行ってくるよ」
アーちゃんは強い。昨日の惜敗はこたえているはずなのに、辛い顔一つ見せない。だったらあたしも不安なんか見せてはいけない。満面の笑顔で、勝ってやるぜと、100点の答案を見せびらかすような気持ちで戦ってやればいい。大丈夫、あたしはあいつに勝てる。いつもは調子に乗った発言をしているけれど、今日は少し気障ったらしい雰囲気で、しかし真剣も混ざった表情で、ターフへ向かった。
「頑張って、ウールちゃん」
「ショートウールの圧勝ムードの中、電撃参戦を決めた有力株、サンドルーン。やはり二強の対決になるのか弥生賞。皐月を占う最有力のステップレース、上位三人には、皐月賞への優先出走権が与えられます。最初に姿を現したのはショートウールです。少々顔つきも大人びたでしょうか」
今日はあたしが一番乗り。ちょっと早過ぎたかも。もう少しアーちゃんと一緒にいられたかな。緊張をほぐすため、レースに関係ないことを考えていたら、後ろからツンと鼻にくる匂いがした。良い匂いだけれど、少し強めだった。あたしの頭から足まで、舐め回すように見ている。
「あなたがショートウール?あらあら、思ってたよりちょっとだけ小さいのね」
「あなたも、あたしが思っていたより大人びてました。今日はよろしくお願いします」
「あらあら、畏まっちゃって。同い年よ、これでも。確かに胸は大きいけれど、ふふふふ」
そんなこと言われても、あたしより五歳上でもおかしくないくらいのこの妖気。それに、小さいってもしかして胸の話?あたしの胸が小さいからって子ども扱いされているのでは。ちょっと大きいからって、あたしだってまだまだ発展途上だし。もう絶対に負けない、緊張が一気に解れて、ようやく熱が入ってきた。
「負けませんから」
「私もよ。そんな怖い顔しないでほしいわ」
「ゲート前で二人の睨み合いが続いています。共同通信杯で見せたあの脅威的な末脚は今日も炸裂するのでしょうか。夕陽が眩しい中山で、今年のクラシック戦線の有力ウマ娘たちが揃います」
あたしが一番初めにゲートに押し込まれた。あたしは四番、隣の五番にあいつはいる。絶対に出遅れてはいけない。その瞬間にあたしの敗北は決まってしまう。周囲の情報をシャットアウトして、ただ目の前のゲートが開くのをじっと待った。歓声も、実況の声も耳から離れた瞬間、ばっとゲートが開いた。ふっと力を入れて誰よりも早く完璧なスタートを切った。ここからさらに、全力で逃げる!
「なんとショートウール逃げる逃げる!良いスタートから大逃げを選択しました!最初の坂も軽快に、どんどん差を広げていきます。さあさあ今日もトリックが、マジックが炸裂するのでしょうか」
これがあたしとユウトレーナーの作戦。ただ逃げるだけ。サンドルーンの直線の伸びは凄まじい。だから同時に抜け出したところで絶対に勝てない。今のあたしは体力もついてきた、それならいっそ大逃げで、中山の短い直線にも合っているし、このハイペースに皆がついてくるなら、あいつはきっと体力が持たないはず。レース前も逃げを試すような素振りを見せなかったし、スタートも完璧。全ての歯車が噛み合っていた。
「向正面を過ぎて第三コーナー。依然ショートウールは逃げ続けています。なんという大逃げ、カメラも極限までに引かなければ収まりません。七バ身、八バ身、どこまで行くのかショートウール!」
ただ夕日に向かって走り続ける。完璧な展開といってもやっぱり多少の無理はある。まだ最後の直線まで入っていないのに、いつもの何倍も胸が苦しい。でも、その分解放感があたしの背中を押してくれるからまだ、まだいける。
「まさかスローで流れやすいこのレースで大逃げをしてみせるなんて。やっぱり何考えてるか分からないわ」
「ウールちゃん、頑張って!」
最後の直線は約300m。このまま、このまま逃げ切る。遥か後方の気配が少しずつ音を立てて近づいてくる。満身創痍のあたしに、少しずつ、でもはっきりと大きく膨れ上がって大量のプレッシャーが迫ってくる。歓声もはっきりと分かる。もちろんアーちゃんの声もコートの声もはっきりばっちり分かる。だからこそ、逃げ切るしかない。
「なんとなんと、ショートウールはさらに加速した!最後の直線、後続を突き放しにかかる!サンドルーンは伸びてくるのか、どうだ、どうだ。少しずつ少しずつ差を縮めに伸びてきた!」
「なかなかやるわね。あんなに脚を使ってまだ伸びるなんて。これじゃ、これじゃあ勝てないじゃない!」
「ショートウール苦しそうだ!しかしゴールはもう目の前!サンドルーンも伸びてきているが!三バ身の差をつけて、今日もマジックが炸裂!ショートウールです!皐月も取ってやると、堂々と前哨戦を制しました!」
やってやった。あいつの方が直線で伸びるし、単純にスピードも速い。もしかしたら根性も上かもしれない。でも、それでも勝ったのはあたし。強いのはあたしだ!レースは速いか遅いかだけじゃない。本番も絶対に負けてやるもんか。あたしは堂々と観客席に向けてピースしてやった。負けても堂々としているサンドルーンがこっちに向かってきた。
「胸は小さくても、夢はあたしの方が大きいですよ」
「あらあら、気にしてたの?冗談よ、私は小さい子の方が好みだわ」
「べ、別に聞いてないです」
あたしに負けたっていうのに平気そうな顔をしている。よく分からない冗談まで言っちゃって。なんだかスッキリしない気分だったけれど、彼女の指は少し震えていて、あたしに見えないところで唇を噛んでいたという話も後から聞いた。
「次は絶対負けない。調子乗ってるあの子に今回の勝利はまぐれだって教えてあげないとね。もうクラシックに出れないように、圧倒的大差で勝利して、ボロボロにしてあげる」
拳を強く握りしめるサンドルーンは、敗北のターフで静かに皐月の勝利を誓った。