秋の向こうへ、その向こうへ。   作:たいたい35

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桜花賞の軋轢

放課後、トレーニングのメニューやこれからのことを相談するため、いつものようにトレーナー室に寄りました。ふかふかの黒ソファーとおいしいお菓子もいつものように用意されています。ユウさんはすっかり私の好みを把握しています。お菓子が目当てではないですよ、あくまでも練習の相談です。お菓子はついでです、本当についでです。

 

「授業お疲れ様。ごめん、もう少しだけ待っててほしい」

 

今日は少し忙しそうです。キーボード入力の音がカタカタとトレーナー室に響いていました。ウールちゃんもアイちゃんもまだ来ていないので、お茶を飲みながらゆったり過ごすことにします。それにしても、このソファは何者なのでしょうか。一瞬でも気を抜くと同化してしまいそうです。それくらい気持ち良く私を包んでくれるのです。意識が落ちかけていたところを、ウールちゃんが勢いよくドアを開ける音に救われました。

 

「お疲れ様です!あ、アーちゃんお菓子全部食べちゃったの!?そんなー」

「ご、ごめんね。つい」

「もー、アーちゃんはほんとに甘い物に目がないよねー。そんなところもかわいいけど!」

 

いつのまにか皿一杯のお菓子を全部食べてしまいました。ユウさんの方をチラリと見ると、熱心に作業をしています。あの量のお菓子を全部食べたことをユウさんが知ったらさすがの優しさでもきっと怒られてしまいます。

 

「ユウトレーナー、聞いてくださいよ!アーちゃん全部お菓子食べちゃったんですー」

 

ちょうど良いタイミングでユウさんの作業が終わってしまいました。背中に冷たい感覚がします。今から何を言われるのでしょうか。

 

「分かった、また補充しておくよ」

「ごめんなさい」

 

私が頭を下げると、全然大丈夫だよと笑顔で許してくれました。

 

「そんな、ごめんだなんて。ちょっと食べ過ぎたくらいなんてことないよ。それにアリアンスは僕がわざわざ何か言わなくても大丈夫だと思う。自分でなんとか出来るウマ娘だから。もちろん嫌ならお菓子も出さないから言ってほしい」

 

胸がきゅっと苦しくなって、そして少し温かくなりました。ユウさんの火が灯った眼差しが嬉しかったです。私への信頼が溢れるくらい伝わってきて、なんてことない一言が、すっと身体中へ染み渡っていきました。それと同時に身体が硬くなって、ユウさんの方を見ることができなくなりました。

 

「どうしたの?」

「な、なんでもないです」

 

私はすっかり黙ってしまってしまいました。急に私が黙ってしまったので、自分が何かしてしまったのかとユウさんが慌てています。バタバタと忙しないトレーナー室のドアがまたまた開かれました。

 

「トレーナー」

 

続いてやってきたのはアイちゃんです。いつも通りの無表情で、右手には炭酸水を持っていました。

 

「次走のことなんだけど」

 

アイちゃんの実力なら重賞制覇もすぐ目の前のはずです。ですが、この時期のダート重賞はシニア級のものばかりで、ユウさんも困っていました。地方で行われる交流重賞もしばらく開催がなく、相談が必要でした。ユウさんの言葉を待つことなく、凛然とした態度でアイちゃんは言いました。

 

「桜花賞、出走させてください。もちろん、G1の」

 

部屋中の全員が困惑しています。それもそのはずです。アイちゃんはずっとダートを走ってきたウマ娘です。実力を考えれば確かに出走することはできると思いますが、それでもいきなりだなんて、無茶な気がします。

 

「私はアンと走りたい。アンがずっと目指してきた舞台で一緒に走れば、もっとあなたのことを理解できる気がする」

 

本気の瞳でした。仕事に向かうお母さんが子どもに留守番を言い聞かせるように、いたって真剣に、目線を合わせて。その眼差しに私は応えることができなくて、目を逸らしてユウさんに助けを乞いました。高層ビルを初めて見たハトのように口が開きっぱなしのウールちゃんの隣で、ユウさんは顔をしかめています。僕は彼女の申し出を思い切り否定した方がいいのか、それとも喜んで挑戦しようと練習メニューを組んだ方がいいのか。きっとユウさんは両極端だと思います。中途半端な判断をしたくないから、何も言わず悩んでいるのです。けど動揺している様子ではありませんでした。まるでその発言を待っていたかのように落ち着いています。もちろんこんなに悩んでいるユウさんが予測していたはずもないのですが。私とは大違いです。

 

「分かった。出走登録をしておくよ。今後は桜花賞に向けてトレーニングしていこう」

 

答えを出すまでの時間のわりには、あっさりと言い放ちました。もちろん適当に考えていたわけではなくて、私にはその物言いが余裕にも聞こえました。アイちゃんならきっと良い勝負をするだろう、そう言っているように感じました。

 

「ちょっと待ってください。世代のトップが集まるレースなんですよ?なのにそんな簡単に決めて。確かにこの子は強いかもしれないですが、桜花賞なんて無茶です」

 

アイちゃんがウールちゃんの前に立ち塞がっていつものように冷たい語気で言いました。

 

「私はレースに勝ちたいわけじゃない。アンのことを知りたいだけ。彼女のことが理解できるなら、結果なんてどうでもいい」

 

トレーナー室にヒビが入ったような錯覚に陥りました。空気がピリピリと震えています。その中心には澄ました表情のアイちゃんがいました。

 

「ちょっと待って。レースに勝ちたいわけじゃない?結果なんてどうでもいい?冗談じゃない。さすがにあたしも我慢できない。あんたはレースを舐めてる。みんなの努力を、その思いをバカにするようなその言い方。気に入らない。一度レースから逃げようとしたあんたが、結果に執着できないあんたが、レースに本気で立ち向かうアーちゃんのことを理解できるわけがない。アーちゃんの強さを理解できるわけがない。ユウトレーナー、もうあたしはフルアダイヤーとは一緒のチームでいられないです。せっかく、せっかく仲間が増えたと思ったのに……」

 

最後の一言は掠れていました。ウールちゃんは目に大粒の涙を浮かべて部屋を出ていってしまったのです。鼓膜を破ってしまうくらいの大きな音でドアが閉まりました。

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