「ウールちゃん……」
その小さな声を最後に沈黙が流れました。正直なところ、私も少しショックでした。仁川ステークスのあの日、直線で伸びてきたアイちゃんは間違いなくその場の誰よりも光輝いていたのです。一着の後、私に向けた笑顔は確かに勝利の喜びを噛み締めていました。レースが持つ美しさを理解することができたように感じました。それなのに、今のアイちゃんの発言はその美しさを否定しています。一位じゃなくても、本気じゃなくても、私が喜んでくれればいい、私のことを理解できるならそれでもいい、それは違うと思います。あの日見たアイちゃんの輝きは、レースの楽しさ、尊さを身体中で受け止めて、その価値を理解しているウマ娘そのものでした。それは間違いだったのでしょうか。頭が必死に否定しているのに、目の前のアイちゃんの涼しい態度が私の美化を拒んでいます。聞いてみるしかありませんでした。
「アイちゃん、今の言葉……」
「気にしないで。アンは強い。だからあなたに追いつこうとすればきっと上位争いになる。無様な姿は見せない」
「違う、違うの。アイちゃんは、レースで負けても悔しくないの?」
少しだけ考えて、平坦なトーンで答えました。
「アンの前で負けるのは悔しい。あなたの前で弱い私は見せたくない。私の走る意味はアンだけ。私を見捨てないでいてくれたあなただけのために私は走ってる」
私の期待した答えは返ってきませんでした。私の不安で溢れてしまいそうな情緒を治めてくれる一言はありませんでした。単純なレースの勝ち負けには、やっぱりアイちゃんは興味がないようです。
「あなたが見てくれないのなら、私は走りたくない」
冷静そうに見えたアイちゃんは、少し震えていました。まるで何かに怯えているように。このままではいけない、私はもっとアイちゃんのことを知らないといけない、そう思いました。彼女の瞳の冷たさには何か理由があるはずです。それを知らずに物を言うのはアイちゃんを傷つけるだけだと思いました。
「ユウさん、少しアイちゃんと二人でお話ししたいです」
分かった、ウールは任せて。小さいけれど、それでいてはっきりと聞こえる声でユウさんはそう呟き、出ていきました。少し開いた窓から流れる風で、デスクのコーヒーが揺らめいています。突風で机上のプリントがバタバタと音を立てて暴れています。私たちはしばらく黙ったままでした。私は言いたいことを頭の中で何度もまとめて、ようやく口を開きました。
「アイちゃんは、どうして私をそんなに好きでいてくれるの?」
また責められると思っていたのか、意外そうな顔をしていました。
「あなたは、私を信じてくれたから。どんなに堕落した私でも、見捨てないで最後までその温かい目を向けてくれた。だから……」
少しずつ、少しずつ瞳に涙を溜めるアイちゃんに私は抱きつきました。アイちゃんを見ないようにしながら震える身体を抱きしめて。
「ハンカチ、ありがと。アン、温かい」
アイちゃんの鼻の先が赤くなっていました。照れているのか、耳をピクピク動かしています。十分に涙を流し落ち着いて、コーヒーがすっかり冷え切ってしまう頃でした。
「期待に応えられないのが怖い。周りはたった一回きりのレースで私を評価して、心無い言葉を吐きつける。それ以外の部分なんて見られない。でもアンは違った。私の全てを見てくれた。私を救ってくれた。だからあなたのためだけに走る。外野なんかどうでもいい。気にするだけ無駄だから。その場限りのちっぽけな歓声なんていらない。私を見てくれるたった一人の綺麗な声がいい」
ようやく分かりました。アイちゃんだってレースがどうでもいいわけではないのです。ただ、その着順に至るまでの努力を一切排除して着順だけで罵倒されるのが怖いのです。顔に出なくても、声に出なくても、レースに対して複雑な感情を抱いているのです。やっぱり負けるのは辛くて、努力が報われないのは悔しいのです。そうでなければ、アイちゃんのハンカチがこんなに濡れるはずがありません。クールに見えるアイちゃんでも、耐えられない時があるのです。それなら少しでも苦渋が軽くなるように、私も一緒に背負いたい、そう思います。
「アイちゃんのことを好きなのは、私だけじゃないよ。ユウさんだってコートちゃんだって、トレセンのみんなが、努力するアイちゃんが大好き。もちろん、ウールちゃんだって」
退学してしまうくらい追い込まれてしまったアイちゃんは、今少しずつ立ちあがろうとしています。泥だらけになりながらトレセンのダートを駆け抜けて、CWを駆け抜けて、もう一度だけ頑張ってみよう、そんなひたむきな努力はここにいるみんなが見ています。評価しています。
「そんなこと言ったって観客は酷い。仁川ステークスで私が追い込んできた時、胸が裂けるような声が聞こえた。きっと私以外を応援してた人だと思う。一着を取った時でさえ素直に歓喜されることはないの」
「だから、だからアイちゃんはあんなに喜んでいた、私はそう思うな」
「どういうこと」
腫れ物を見るような顔で私を睨みます。それでも怯まず私は続けました。
「勝ったことが嬉しかっただけじゃなくて、アイちゃんを弱いと思っていた人たちを見返してやれたのが嬉しかったんだよね。私もそうだもん、やっぱりあんた強かったな、見直したよ、観客の人にそう言われた時、とっても嬉しかったの」
観客はレースでしか評価してくれないけれど、レースだけは平等に評価してくれると思います。負けてしまった時の言葉は辛いものかもしれないですが、その後見返してやればいいのです。お前の実力を疑った俺が悪かった、そう言わせてしまえばいいのです。そしてそれに至るまでの努力は、私たち仲間がずっとずっと見ています。
「レース一つでマイナスになってしまうけど、全部プラスに変えることだってできる、私はそう思うの。レースでしか見てくれないからこそ、一着を取った時の歓声は涙が出ちゃうくらい嬉しいな。ウールちゃんはそれを知ってるからこそ、ちょっと冷たくなっちゃっただけだと思うの」
唇は震えていました。アイちゃんも、もちろん私も。感極まって重ねてしまった手のひらも震えています。風はもう止んでしまったので、そのせいではありません。一粒の涙が落ちる音が聞こえました。
「仁川ステークスの時のアイちゃん、とってもかっこよかった。眩しかったの。ウールちゃんもきっと同じこと、思ってたと思うの。だからもう一度だけ、私たちに見せてほしいな……」
アイちゃんは後ろを向きました。見ないで、こんな顔、アンには見せられない。嗚咽の混じった声でそう言いました。今はハンカチも受け取ってくれませんでした。改めて私の方を向いたアイちゃんの制服の袖は濡れています。でも、違う点はそれだけではありません。彼女は笑っていました。
「アンの言葉一つ一つが私の全てを変えてしまった。あなたは私の思っていることを見透かしながら話しているの?そう疑ってしまうくらい。言おうとしたことが何もかもあなたに跳ね返されてしまった。きっと私が桜花賞に出走すれば、大半が笑い飛ばす。だからこそ、私は皆見返してみせる。克服してみせる。もうあんなことは言わない。レース自体の意味を、アンが全部教えてくれたから」
私は涙の粒を浮かべ、うんうんと大きく頷いていました。私の瞳もアイちゃんの瞳も輝いています。そして瞳に溜まった涙が夕陽を反射してさらに強く光っているのです。私の思い、伝わりました。アイちゃんの思い、伝わりました。
「もちろん、一番見ていてほしい人があなたなのは変わらない。何を言われても、私が大好きなのはアンだけだから」
「うふふっ、嬉しい。私もアイちゃんが大好き」
二人とも鼻が真っ赤です。えへへと笑ってごまかして紅茶を淹れるのでした。
先日のリバティアイランドの走り、まさに二歳女王でしたね。大外一気は見ていて気持ちがいいです。こちらでももうすぐクラシック第一戦が始まります。