秋の向こうへ、その向こうへ。   作:たいたい35

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(番外編)十話 コープコートとトレーナー

トレーナー室の雰囲気が相手によってこんなに変わることを、アリアンスさんのトレーナーの部屋に訪れた時に知った。空気は澄んでいて日当たりも良く、清潔感がある。私のトレーナーの部屋も、教育本や雑誌で溢れてはいるけれど、清潔感はあった。でも、ユウトレーナーのようにはいかない。張り詰めた空気が少し苦しくて、落ち着けない。ノックだってなぜか四回。部屋の中から声があって初めて入室を許可される。こんなこと絶対に思ってはいけないのに、ユウトレーナーの元で指導を受けるアリアンスさんたちが、部屋を訪ねれば訪ねるほど羨ましくなっていった。互いを信頼し、ソファで一息安堵できるその空間が羨ましかった。まるで家族といるような心持ちでいられるのに対して、私とあのトレーナーとの壁の厚さといったらどうだろう。どこまでいってもスパルタな教育者とそれに従う私、ただそれだけだった。

 

「失礼します」

「五分二十三秒。これが何を表すか分かるか?」

 

ワックスで鈍く光るオールバックとサングラス。私にはとても似合っているようには思えない。その頬杖も、このトレーナーが行うと見下されているような気分になった。

 

「私が遅刻した時間です」

「そうだ。お前は五分二十三秒も時間を無駄にした。何をやっていた」

「大事な相談を、していたわ」

 

カチ、カチ、カチ。漆黒の壁掛け時計が無機質な音を奏でる。規則的に動き続けるその態度は、まるで目の前のトレーナーのようだった。

 

「この俺との相談よりも大事なことがあるのか」

「アリアンスさんたちとの時間は大切。それに、少しだけよ」

「俺の話より大事なのかって聞いてるんだ。会話もできないのかお前。こんな奴が女王か、世代のレベルも高が知れてるな。まあいい。今日、先輩から連絡があった」

 

私は怒りを必死に抑えた。トレーナーにバレないように、唇を噛んで、拳を握って、床のフローリングを見つめた。私はどれだけ貶されてもいい、しかし簡単に皆を嘲るその卑劣な口が許せない。でも、怒りがバレてしまったら、何をされるか分からない。数々の名ウマ娘を輩出してきたこの人に楯突くことは、自分の未来をぐちゃぐちゃにかき消してしまうのと同義だった。先輩とは、この人をここまでの名トレーナーに育て上げた師匠のことで、同じく天才と呼ばれたトレーナー。そのトレーナーの前では、私のトレーナーもおかしいくらい霞んでしまうと聞いたことがある。そして伝説の天才トレーナーは、ユウトレーナーの父親だった。そんな天才から連絡があったみたいで、きっとまた練習メニューのことだろう。彼は度々助言を私のトレーナーに与えている。それから言われた通りにそのメニューを私にこなさせる。緻密に念入りに組まれたスケジュールのはずなのに、伝説トレーナーからの指示一言でガラリと変えてしまうくらい、私のトレーナーは彼を信頼していた。

 

「先輩はお前に底なしの期待を向けている。さっさと着替えてターフへ向かえ。遅れを取り戻す姿勢を見せろ、お前はこんなところで負けてはいけない。これは命令だ。敗北は許されない」

 

私は今日、話をしにきた。この人に対して、今週末の予定を白紙にしてほしいという相談を持ちかけにきた。到底叶うわけがない。でも、それでも納得させるしかなかった。

 

「今週末、アリアンスさんたちと旅行に行きたいの。その許可をいただきたいわ」

「お前、自分がどれだけ愚かなことを口走ったか分かってんのか。馬鹿もここまでいくと怒りを通り越して呆れるな。分かったらさっさと出ていけ。そして予定通りに行動しろ」

「もし私が、旅行に行かず練習尽くしの毎日で、本番に体調を崩してしまったら、あなたはどうするのかしら」

「今日はやけに強気にしゃしゃるじゃねえか。もしそんなことが起こるなら、所詮お前は俺と先輩のトレーニングについてこれなかった低レベルのウマ娘だったってことだ」

 

心臓が握りつぶされたような気がした。同時に、目の前に巨大な鉄の壁がそびえ立ったような、そんな心の距離を感じた。この人と私は、何も繋がっていない。アリアンスさんたちと違って、心の深い部分では何も繋がってはいない。トレーナーは私を全く信頼していないし、歩み寄ろうともしない。私がどれだけ走っても、信頼していないのだから評価は変わらない。私だって一人のウマ娘なのだから、旅行を選択する権利だってあるはずだ。下がる信頼が無いのなら、いっそのこと反抗期のように全部逆らってやる、そう思った。

 

「そう、じゃあ勝手にさせてもらうわ。私はもちろん旅行に行くし、結果も出す。それでは、失礼するわ」

 

トレーナーの発言なんて気にも留めていないような態度をとっていても、その実は心から傷ついたし、悔しかった。足は震えていたし、後ろを振り返る勇気もなかった。だから前だけ向いて、アリアンスさんたちの笑顔にすがるように部屋を出て、彼女たちのところへ向かった。

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