旅行の前日、私は一人でトレーナー室の前に立っていました。今日はウールちゃんもアイちゃんもいません。扉は静かに開きます。日が長くなってきて、トレーナー室を夕焼けの日差しが強く貫いています。それはちょうどユウさんのデスクに向かって伸びていて、肩を焼いていました。ユウさんは暖かく包まれながら椅子にもたれかかって、静かに寝息を立てているのです。きっと他のウマ娘が来ると予想していなかったのだと思います。大人としての余裕に溢れた普段のユウさんとは少し違って、日差しの心地よさにただ身を委ねるその姿は子猫のように微笑ましいものでした。そんな場面も刹那、私の気配に気づいたのか、機械のようにぱっちりと目を開けました。
「ごめん、すっかり眠ってしまった。何の用事だろう」
「聞きたいことがあるんです」
ナタリーさんが話していたゾーンのこと、もっと詳しく知りたくなりました。私が強くなるには知っておかなければいけないと感じたのです。頂点にいるウマ娘は皆ゾーンを体感したことがあると、ナタリーさんは言っていました。きっとユウさんなら何か知っているはずです。
「ゾーンに足を踏み入れたウマ娘は、その瞬間別人のような強さを発揮する。瞬発力、持続力、パワー、スピード、全部が一回りも二回りも一時的に成長する。でも僕はアリアンスにその話をする必要はないと思ってる。そんなこと気にしなくても、アリアンスは勝てるから」
聞くな、知るなという警告のようにも思われました。珍しく暗い表情で、語気を強めて、そして不安そうに。それ以上の詮索はとうとう叶いませんでしたが、理由が気になります。隠すような内容ではないと思うのですが、きっとユウさんにも考えがあるのだと無理やり納得します。
「大丈夫、僕が絶対にアリアンスを導いてみせる。アリアンスは最高のウマ娘だってことを証明する。ただ強いだけじゃない、速さだけに囚われないアリアンスの強さを皆に伝えたい」
安心して、そう言わんばかりの穏やかな瞳に私は包まれました。ユウさんの真っ直ぐな瞳が私を見つめています。やかんのお水が少しずつ沸騰していってやがて湯気が漏れ出てしまうように、私も顔が少しずつ赤くなっていくのを感じました。気のせいか蒸気まで発している気がします。改めてこんなに期待されてしまうと、どうしても顔を赤らめずにはいられません。
「も、もう一つ、相談なんですけど」
恥ずかして恥ずかしくて、話題を急いで変えました。
「コートちゃん、元気なかったんです。トレーナーさんに旅行の許可を取ることになって別れたんですけど、その後から怯えているようでした。何かあったんでしょうか」
ユウさんの眉が動いた気がしました。何か心当たりがある、そんな感じです。
「大丈夫、安心して行っておいで、そうコートちゃんに伝えておいてほしい。僕が何とかするから。皆の大切な時間を踏みにじるのは許されない」
全て分かっているかのような口振りでした。けれど、ユウさんなら大丈夫だろうという確信もありました。どうかコートちゃんの笑顔を救ってほしい、そう祈るばかりです。私の話を聞いて、ちょっと部屋を空けると言ってどこかへ向かっていきました。
寮に戻る途中、颯爽と前を歩く栗毛のウマ娘がいました。コートちゃんです。行き先はやっぱりトレーナー室でしょうか。声をかけるといつも通りの優雅な所作で対応してくれました。
「あら、アリアンスさん。明日は旅行なのに、こうして毎日アリアンスさんと会っていると、なんだかそんな気がしないわ」
「うふふっ、私も。コートちゃんはこれからトレーナー室?」
ええ、まあ、とやっぱり曇った返事をしました。その弱った顔を見て、すぐにでも伝えたいことがありました。
「ユウさんが、僕が何とかするから安心して旅行に行っておいでって言ってたの」
目を見開いて吃驚の表情が隠しきれないようです。びっくりされるとは思っていなかったので、私も仰天です。どういうこと?その表情がそう訴えてきます。
「私もよく分からないけど、何か心配事があるなら、きっとユウさんが解決してくれると思うの。だから旅行のことだけ考えてほしいな。せっかくなのに、コートちゃんのかわいい笑顔が見れないなんて嫌だもん」
「あ、アリアンスさん……」
さっきの私みたいに頬を赤らめて目を泳がせています。声にならない言葉の後、落ち着かない様子で言いました。
「そんなにジロジロ見られると恥ずかしいわ。それに、かわいいだなんて、アリアンスさんに言われたら……」
「うふふっ、コートちゃんが元気になるまでやめないよ」
「もう、意地悪なんだから」
二人で笑い合って、一緒に寮へと帰りました。いよいよ明日はみんなで旅に出発です。早く寝よう早く寝ようと何回頭で繰り返しても、ちっとも意味がありません。隣でナタリーさんは毛布をどかしてしまうくらい熟睡でしたが、私は興奮が邪魔をして、結局意識が落ちるのは布団に潜ってから何時間か経った後でした。
「ノックもできなくなったのか、お前。なっ、あんたは」
アリアンスからコートちゃんの話を聞いて僕は一目散にここに向かった。彼女が陰りを忍ばせる理由はここ以外にない。こいつの顔はよく覚えている。こいつの方針もよく知っている。馬鹿げた天才の幻想を赤子のようにはいはいと這いつくばりながら追いかけているだけの愚者。それがこの男だった。
「今の言葉、まさか担当ウマ娘に対して言っているのか」
「あんたには関係ない」
「あなたは自分が偉くて偉くて仕方がないみたいだ。あなたが大好きな父とまるで違わない。レースになれば何の手出しもできない無力なトレーナーがウマ娘より偉いだなんて、冗談じゃない」
趣味の悪い紫檀の机を思いきり叩いた。僕の剣幕に少し怯んだようで、何も言い返さなかった。少し強く出られた程度でこの小心振り、何から何まで理解できない。この男は天才の二代目だとか言われているそうだが、劣化でしかない。ウマ娘をいびり尊厳を傷つけることで己の欲求を満たしているだけの卑劣な男だ。
「コープコートちゃんに何を言った。もしかして、自分に従わず旅行を提案したから蔑んだとか」
「ふん、お前に何が分かる。あいつには俺が必要なんだ。俺から離れたら一勝もできない」
「逆だよ、あなたがいるからあの子は桜花賞を勝てない。他のトレーナーなら三冠も狙える。ちっぽけな親父が敷いたレールを走ってるだけのまがい者が偉そうなことを言うな」
黒光りするサングラス越しに僕を睨んでいる。俺は偉い、天才トレーナーだと言わんばかりに。そして身体を乗り出して反論する。
「お前にウマ娘の何が分かる。先輩の何が分かる。全ては結果だけだ」
「あなたにコープコートの何が分かる。あの子と顔を一度でも突き合わせたことがあるのか。そのサングラスを外したことが一度でもあるのか。全てのウマ娘がデータで支配できると思うな。今すぐにでも謝罪の連絡を入れろ、今の彼女には旅行の慰安が必要だ。それをあなたは認め支えるべきだ。一緒に手を取り合って歩いていくべきだ。偉そうにふんぞり返って彼女を否定することがあなたのやりたいことなのか」
言いたい放題言いやがって、さらに身を乗り出して殴りかかってきた。一瞬見えた彼の本当の表情は激しく乱れていて、もう僕の言葉は届かないようだった。その拳は左の頬の骨を抉る勢いでヒットした。怯んではいけない、怯えてはいけない。真っ赤に腫れ上がる頬でその拳を受け止めたまま、その腕を掴んでさらに睨みつけてやった。僕のその根性に気味悪さを感じたようで、振り解いて少し後ずさった。頬の一部は黒く変色している。あとで絆創膏を貼らないといけない。事実を突きつけられたら暴行に走るなんて、どこまでも救えない。彼のトレーナーとしての資質はゼロではないゆえに、こんなことしかできないのはいささか残念だった。
「早くしろ。あんたの態度次第ではこの拳はなかったことにしてもいい。こんなんでも天才の息子だ。あんたが尊敬してやまない天才の子どもだよ。それを傷つけたとなったらあんたの立場はないだろう」
次の一発はもう飛んでこなかった。血が溢れるくらい唇を噛んで、プライドをズタズタにされながら彼は手紙をしたためた。第一に、自身の態度を改めてウマ娘と真摯に向き合うこと、そしてウマ娘の健康のための努力を惜しまないこと。最後にコープコートへの今までの言動全ての謝罪と旅行に対する快い許可。それを約束させた。
「お前、調子に乗るなよ」
「好きに言えばいい」
黒檀の扉を開いて自室に戻った。これまた趣味の悪いドアを開けた瞬間、背後から何かを投げつけ破壊する音が聞こえた。あの男が物にあたっているのは明らかだった。コートちゃんは本当に自分にはあのトレーナーしかいないと思っているのだろうか。そんな疑問がしばらく頭から離れなかった。それでも一応これで彼女は心置きなく旅行を楽しめる、帰ったらまたトレーナーに怒られるかもとか、そんないらない心配をする必要はない。しかし、僕にはどうしても納得がいかない。あの男では彼女の能力を潰してしまうだけだ。手紙には書かせたものの、実践するかどうかは怪しい。彼女が帰ってきたらまたいつものように傲慢な態度で接するかもしれない。しかし、彼女に合っているのは僕ではない、そんな気もする。いったいどうすれば彼女を救ってあげられるのか。それだけを一日中考えていた。