秋の向こうへ、その向こうへ。   作:たいたい35

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高級旅館

実はウールちゃんから旅行のプランを聞かされた時、旅館の情報はほとんど伏せられていました。せっかくみんなで泊まるんだから、できるだけ場所にしたい。お金の話はユウトレーナーに土下座するから大丈夫。そう言っていたのです。そんな、ほとんど知らない状態でバスに揺られた私たちが辿り着いた先は、旅館でした。バスから降りると、どこからかジージーと虫の音だけが耳をくすぐり、周囲の灯籠には蛾が集っていました。そして目の前には、遊郭のような雅と、歴史ある厳かさを兼ね備えた旅館が仁王立ちしていたのです。少し後ずさってみても、全体を視界に収めることは叶いません。開放感のある木造建築で、檜のツンとした香りが漂っています。入り口に飾られたのれんをアイちゃんが怪訝そうに見つめていました。

 

「こんな高級そうな場所、本当に大丈夫なの?」

「心配ご無用。みんなから徴収した代金にちゃーんと含まれておりますよ!ユウトレーナーが色々助けてくれて、常識的な金額に収まったんだー」

「また感謝を言わなきゃいけないことが増えてしまったわ」

 

満を辞して中へ入ろうとする三人に対して、私は旅館の雄大さに狼狽していました。

 

「こ、こんな素敵な場所、入ってもいいのかな」

「緊張するなら、一緒に行こ」

 

駆け寄ってきたアイちゃんが私の腕を組んで、そのまま流れるように中へ入っていきました。戸に手をかける瞬間、灯籠の光で見えたアイちゃんの白いはずの肌は、赤く染まっていました。

 

 

長い廊下を通って案内された先は、入ってみると清涼な和室でした。開かれた縁側の向こうには月に隠れた漆黒の世界が広がっています。そこに目印のように散りばめられた星々の下で、ただ一つ、提灯を灯した遊覧船を漕ぐ音が、風に乗ってここまで届いてきました。

 

「なんて静かなの……。快適過ぎてそのまま眠ってしまいそうだわ」

「窓の景色もいいでしょ。パンフレットで見た以上の美しさだね。あー、なんだかあたしも眠くなってきた。ちょっとだけ仮眠とらせて……」

 

 

大きな正方形をつくるように並べられた四つの布団が私たちを誘っています。その一角に向かってウールちゃんが倒れてしまいました。

 

「ちょっと、まだ色々とやることあるじゃない。全く、ほんとにこの子は。私も少し休憩してからにしようかしら。外の様子も見たいわ」

「それなら私、先入っちゃうね」

 

目を擦りながら荷物を整理していると、肩をつつかれました。

 

「アン……、お風呂、一緒にどう……?」

 

アイちゃんの黒尾がムチのようにしなっています。そのか細い声は、寝息を立てているウールちゃんはもちろん、縁側で遠い景色を見つめるコートちゃんにも届いていませんでした。ど、どうしよう、友達とお風呂だなんて。そう心の中の私が暴れ回っています。そんな経験が全くなかった私は、戸惑うことしかできませんでした。

もちろん、嫌ではないのです。旅行に来ているのですから、一緒にお風呂に入るということも想定はしていました。それでも、胸が熱くて仕方がありませんでした。

 

「ま、待ってね。心の準備が……」

「大丈夫。私がエスコートするから。行こ、アン」

 

慌てる私の手を引いて、檜の匂いを導線に廊下を進んでいきました。

 

 

竹柵で仕切られた向こうには、いったい何があるのでしょうか。月が映す透き通った水が流れ入る檜風呂に、二人は今浸かっています。空を見上げていると、背景に同化したカラスが一匹月に向かって飛んでいきました。

 

「檜、ずっと香ってたけど、嫌いじゃない」

「私も、なんだかクセになっちゃいそう」

 

あれだけ感じていた恥じらいも、いつのまにか湯船と目の前の静寂に溶けて無くなっていきます。専属のマッサージ師に身体をほぐされるような心地になって、すっかりリラックスしていました。

 

「アンの肌、髪、全部全部フィギュアみたいに綺麗……。あなたはどうしてそこまで美しいの……?」

 

水飛沫が飛んで、アイちゃんの人差し指が私の頬を撫でました。まるで大切なものを扱うかのように、ゆったりと指は移動して、腕まで這っていきます。アイちゃんの恍惚としたその顔は、湯気に包まれて赤く染まっています。そんな顔のアイちゃんと顔を突き合わせて談笑だなんてできるわけがありません。ああ、緊張します。ドキドキドキドキ、ただでさえ友達と一緒のお風呂は初体験だというのに、たった布一枚にしか守られていない私をそんなに注視されてしまっては、もう言いようがないくらいに恥ずかしいのです。

 

「あ、アイちゃん、そんなに見つめられたら恥ずかしいよ……」

「あなたは優しくて、強くて。誰よりも真っ直ぐ。あなたの、天使のような清らかな精神と、悪魔が嫉妬してしまうような美しさに、私はすっかり救われてしまった」

 

私とアイちゃんは見つめ合っているはずなのに、彼女は別の何かを見ているようでした。私を透視して、もっと遠くの何かを。

 

「その日から、私を信じてくれたアンのために練習を重ねるようになった。あなたに成長した私を見てほしい、あなたに褒められたい。その笑顔でもっと私を貫いてほしい。もっともっとアンに近づきたい」

「アイちゃん……」

 

顔以外も真っ赤になっていました。もう何十分も浸かっていたので、当然です。ですが、理由はそれだけではない気がしました。私は何も考えることなく、アイちゃんの心からの言葉をただ受け止めるだけでした。白星を映すアイちゃんの純真な瞳に、どこまでも吸い込まれてしまう気がして、目を離すことができません。

 

「桜花賞、ついにアンと走れる。あなたと全力でぶつかり合って、もっとあなたのことを知って、近づきたい。

だから、本気。ウマ娘なら、大好きな人を走りで魅了したい」

 

頬を緩ませ、満面の笑みでもって言いました。アイちゃんの本気が、静寂に乗って伝わってきました。今も身体中を駆け巡っています。大好きだからこそ本気だ、そう言ってくれたアイちゃんに、私も応えないわけにはいかないのです。

 

「うふふっ、嬉しい。私もアイちゃんが大好き。桜花賞、絶対に負けないよ」

「そ、その笑顔は反則……」

 

私も負けじと笑顔で対抗しました。アイちゃんはもうすっかりのぼせています。今度は私がアイちゃんの手を引いて、少しずつ少しずつ、露天風呂を後にしたのでした。もちろん、巻いたタオルが落ちないように。今度は四人で一緒に浸かりたい、そんなことを考えていました。

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