その夜、アイちゃんの言葉が血液のように体内を循環していました。布団に潜ってから一時間ほど、桜花賞のことを考えていました。旅行の間は一人の女の子として、大好きなみんなと一日中京都を観光していましたが、トレセンに戻ってしまったら、もうライバルなのです。ついさっきまで笑顔で語り合っていたウマ娘たちと、身体をぶつけ合い、互いを抉り合うようなレースを演じなければいけない。今に始まったことではないのですが、不安になってしまったというのも嘘ではありませんでした。できれば、もう少しだけこの時間が続いてほしい、そう思ってしまったのです。はあ、眠れないなあ。すっかり睡魔が消失してしまった私は、数時間前コートちゃんが腰かけていた縁側の椅子に座って、闇夜に凛然と輝く月を見つめていました。その月は、まるで自分以外の光を許さない女王のようで、孤独なのです。そんな彼女を見ながら、目の前の小さなちゃぶ台に湯呑みを置いて。不安はさらに募っていきます。桜花賞は、泣いても笑っても一回勝負。これまで、何回も、何十回も、その頂に立つ夢を見てきました。生涯一度の挑戦が終わってしまったら、もうそんな夢を見ることさえ許されなくなります。その事実を頭に浮かべた時、湯呑みを持つ手が震えているのに気がつきました。結果によっては、夢も友人も失ってしまう可能性がある、言葉を失うような絶景の前なのに、ため息しか出ないのも仕方のないことかもしれません。
「あら、アリアンスさん。もしかして、眠れないのかしら。ふふっ、私と一緒ね」
縁側にはちゃぶ台を囲んで二つの椅子があります。もう片方にコートちゃんが音も立てずに腰をおろしました。
「手、震えているわ。何があったのか、私でよければ聞かせていただけないかしら。きっとアリアンスさんの力に」
白月が二人を覗いています。もしかしたら、優しく見つめているのかもしれません。左肩に下ろした栗髪をコートちゃんがかき上げると、ふわりと柔軟剤のような柔らかい匂いが鼻に染み込んでいきました。お風呂に入って数時間しか経っていないからでしょうか、いつもの艶かしく優雅な香りとは少し違います。けれど、その匂いに包まれると、自然と私の震えは引いていきました。良かった、コートちゃんの匂いだ――。その時飲んだ一口の緑茶は、淹れたてのように温かく、風味のあるものでした。
「少しは安心できたようね。そうだわ、こんな時だから、私の話も聞いてくれないかしら?」
「もちろんだよ。聞かせてほしいな」
「旅行に出発する少し前の話なのだけど」
小さな我が子におとぎ話を語り聞かせるようなゆったりとした口調で、言葉を紡ぎ始めました。一瞬、月を見上げるコートちゃんの紅瞳がそれを染色したような錯覚に陥ってしまったのです。そう勘違いしてしまうほど、この空間はコートちゃんの温もりに満ちていました。
「実は私、トレーナーに止められていたの。アリアンスさんも知っての通り、余暇を許さない人だったから。
そんな暇があるなら俺が組んだトレーニングをしろと言われ、さらに色々と罵られたわ。お前は弱い、俺に従え、お前は俺のおかげで強くなれたのに、恩を仇で返すつもりかって」
でも、私が至らないのだからしょうがないわ。そう言ってため息を漏らしました。コートちゃんはあまり自分のトレーナーさんの話をしません。貴重な話に私は耳を弾ませていました。
「あの子の旅行のプランを聞いていたら、どうしても行きたくなってしまって……。ついに、反抗してしまった。世代の頂点に立たせてくれたトレーナーに対して、否定の言葉を吐いてしまったの。そんな状況で、今度は何を言われるのか、内心はビクビク震えながら接していた……。もしかしたら殴れられてもおかしくない発言だったのかもしれないわ。でも、出発の直前になって、メールが一通届いたのよ」
漸次的に語りの調子が上がっていきます。コートちゃんのトレーナーの話が私の耳に入ってくることはほとんど無く、そんな酷い言葉を言われ、傷ついていたことを今初めて知りました。けれど、些細な調子の変化だからといってそれに気づくことができない自分に呆れるばかりでした。コートちゃんはいくらでも私を励まして支えてくれていたのに、私は大事な親友の心境一つ十分に察してあげることができなかったのです。
「私、コートちゃんが辛い思いをしているのに全然気づいてあげられなかった……。ほんとに、ほんとにごめんね……」
透明な涙が落ちる音は、隣の部屋まで聞こえてしまうほど、大きな音でした。湯呑みの水面では、不甲斐ない私がゆらゆらと揺れて。その私の反応にコートちゃんは目を見開いて、違う違うと否定しました。
「まさか、アリアンスさんは気づいてくれたじゃない。どうしたの、相談に乗るよって、心配そうに、ね。口にはとても出せないけれど、心の底では、とても嬉しくて、救われたのよ、その優しさの言葉一つに」
「そんな、大袈裟だよ。私は言葉ばかりで、何もしてあげられなかったの」
「ううん、そんなことないわ。あなたは確かに私を救った。話を戻すわ。そのメールは、トレーナーからだったのよ」
そんな怪訝そうな顔しないでほしいわ、私はアリアンスさんに感謝をしたくてこの話をしているの。私が今にも泣きそうな顔をしていたので、なだめられてしまいました。
「俺は今まで、お前に酷いメニューばかりを強制し、罵詈雑言を浴びせてきた。もうそんなことはしない、旅行も楽しんでこい、そう書かれていたの」
ドキッ、思わぬ展開に、嘘がバレてしまった時のように胸が弾みました。目の前のコートちゃんは、清々しそうに伸びをしています。きっと今まで、私の想像もつかないような過酷なメニューと侮言を与えられてきたのだと想像できます。そんな相手がとうとう謝罪の言葉を述べてくれたのですから、当然です。
「もちろん全て勝利のためだと思って我慢してきたわ、でも辛いものは辛いもの。仮にもG1を勝たせてくれた名トレーナーだし、全てを否定する気はないけれど。それでも、やってやったと思ったわ」
ガッツポーズと共にぴょんと飛び跳ねて、身体全体で当時の喜びを再現しています。
「それと同時に、アリアンスさんとユウトレーナーの顔が浮かんだの。すぐに理解したわ、アリアンスさんが私の身を案じてユウトレーナーに相談したんだろうって。
そして、ユウトレーナーの巧みな話術に丸められた。あの人が尊敬していたのは、ユウトレーナーのお父様だったはずですし。私は、またしてもアリアンスさんに救われてしまったわ」
コートちゃんは全て分かっていました。私がユウさんに相談したことも、ユウさんが説得したことも。ユウさんが説得しただなんて、今初めて聞いたのですが。さすがユウさんです。尊敬の眼差しを向ける目の前の麗しき令嬢に、私は顔を赤らめることしかできません。でも、救われたというのは違うと思います。私は相談しただけで、話をつけたのはユウさんです。コートちゃんの英雄は、ユウさんなのではないでしょうか。
「私は、何もできていないよ」
「そういうところもアリアンスさんらしいと思うわ。本人が救われたと言っているのだから、素直に受け取ればいいのよ。そもそも、私の異変に気づいたのはアリアンスさんだから、あなたは私を救ったのよ。もちろんユウトレーナーもかっこよかったけど」
私に迷いの言葉を紡がせないために、コートちゃんはまだまだ続けます。
「アリアンスさんと初めて食事をしたあの日、去ろうとした私を止めてくれたアリアンスさんのおかげで、孤独にメニューを積むだけだった私に大切な友達ができたわ。アリアンスさんは私から孤独を消してくれたの。そして、いよいよトレーナーの心境まで変えてしまった。アリアンスさんは一度ならず二度までも、私というウマ娘を救ってみせたのよ」
その話を聞いて、脳裏にはアイちゃんの言葉が浮かびました。アン、私はあなたに救われた。私は本当に、大切な人の力になれているのでしょうか。うつむく私を見逃さず、
「情緒豊かな優しさ、とでも言えばいいのかしら。誰にでも手を差し伸べられる心の広さと、感受性の強さによって、他者の気持ちを理解し、思いやれる気持ち。まるでその人になったかのように心に寄り添ってくれる。そんな魅力的なあなたに、きっと何人も救われてきたの。もちろん私も含めて、ね」
まるでさっきのアイちゃんのように、コートちゃんの顔もりんごのようでした。コートちゃんのようになりたい、そう思った回数は両手では数えられません。その堂々たる態度、レースの強さ、とても同い年とは思えません。私が克服したいと感じていたものを、彼女は全て持っていたのです。だからこそ、そんな尊敬の対象であるコートちゃんに、自分の弱みを称賛されたことが嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。魅力的、その単語が頭から離れません。
「アリアンスさんは、ずっとそのままでいてほしいの。私が心から尊敬しているアリアンスさんだからこそ、本気のレースで思いを伝えたい、そう思うわ。レースの結果は怖いけれど、レースで気持ちをぶつけ合えるのはウマ娘だけだもの。私からのお願い、聞いてくれるかしら?ふふっ、すぐに涙をたくさん流してしまうアリアンスさんも素敵ね」
そのままでいてほしい、そう言われたことは今まで一度ありませんでした。今の私を肯定してくれるコートちゃんに、もう涙は止まりませんでした。大嫌いなゴキブリが顔に止まった時だって、こんなに泣いたことはありません。大好きなソフトクリームが丸ごと床に落ちてしまった時だって、こんなに泣きじゃくっていません。こんな私でも、魅力的だと言ってくれる人がいる、優しいと言ってくれる人がいる、救われたと言ってくれる人がいる。私は改めて、自分の恵まれた環境を強く意識しました。それと同時に、レースへの不安も、月を横切るカラスに盗まれてしまったのです。コートちゃんやアイちゃんに私からの感謝を伝える方法は、レースだけなのですから。
「うん、うん……!約束するね……!コートちゃん、大好き……!」
瞳に涙を溜めながらアリアンスさんは笑顔をつくる。彼女が落とした透明の粒が、白髪へと絡め取られて月光に鈍く光った。そんなシンデレラのような彼女を前にして、私は胸の高鳴りを抑えることで必死だった。嫉妬すら忘れてしまう彼女のキュートに、今宵は月明かりが助長して、私はつい見惚れてしまった。今の彼女が京都の都で振り向けば、たちまち舞妓のスカウトやナンパが殺到してしまうだろう。ああ、どうしてアリアンスさんはこんなに魅力的なの?
「そ、その、アリアンスさん。せっかく旅行に来たのだから、一つ、聞いてもいいかしら?」
「もちろんだよ。なんでも聞いてほしいな」
りんごのようだったコートちゃんは、さらに朱を強くして、今はもういちごです。そんなに聞きにくいことなのでしょうか。口を開いては閉じてを何回か繰り返した後、目を合わせないようにしながらコートちゃんは言いました。
「アリアンスさんは、その、好きなタイプとか、あるのかしら……?」
「好きなタイプ、それって……」
「も、もちろん、好きなというのは、恋愛対象としてって意味よ。だって、アリアンスさんのような素敵な方、世の男性は放っておかないと思ったから……。わ、私だってそういう話は興味あるんだから!」
私もコートちゃんも、まるでさくらんぼのように仲良く顔が真っ赤です。突然そんなことを聞かれて、私の頭は大パニックです。何も考えられなくて、深呼吸、深呼吸とどこからか聞こえてきます。はわわ、どう答えればいいのでしょうか。私が好きな人、この人となら一緒にいたいと思える人。思考が止まった私の脳内に咄嗟に浮かんだのは、コートちゃんの影でした。
「私のタイプは、コートちゃんみたいな人、かな……」
「あ、アリアンスさん……。ほ、本気にしちゃうじゃない……」
フランベのような豪快な音がして、コートちゃんが蒸発してしまいました。肩を叩いたり、寝ている二人が起きないような声量で声かけを行うと、なんとかコートちゃんはこちら側に戻ってきてくれました。意識を取り戻した彼女は、顔を両手で覆い、悶えるように足をバタバタと震わせています。真っ赤な自分を見られたのが恥ずかしくてたまらないようです。けれど私は、そんな姿も愛おしい、そう思いました。
「アリアンスさんはほんとに冗談が上手なんだから……。ほ、ほら、明日も早いわ。もう寝ましょう」
一部始終を眺めていた月はもう、とっくに頂上を過ぎていました。