アリアンスたちはついさっき、駅に向かった。桜の季節には似合わない枯れ葉が、かろうじて枝にへばり付いている。何度も春風に吹かれては耐え忍ぶその姿を、僕はコーヒーを飲みながら意味もなく鑑賞していた。一難去ってまた一難、あの傲岸不遜なトレーナーを黙らせ、コープコートちゃんを引き剥がしたからといって、コープコートちゃんの実力をもっと伸ばすにはどうすればいいのか、その問題が部屋中を駆け巡っている。僕は彼女のトレーナーではないから、お前が干渉する問題ではないだろうと言われてしまえば心苦しいのだが、デメリットだけではない。レースの実力は言わずもがな、それならば、精神的成熟を完了させた彼女はアリアンスたちにとって超えるべき大きな障壁となるだろう。そしてそれを越えようと努力することで、コープコートちゃんに続くように飛躍的な成長を遂げるはずだ。そう、コープコートちゃんにとってストレスの少ない環境づくりは、僕にとっても大きなメリットがあるのだ。世代最強のウマ娘がさらに実力をつけたとき、それに続く者たちの実力も、右上がりの関数のように否応なく上昇していく。そんな理論ばかり捏ねてはいるが、実際は全く前に進んでいないばかりか、思案ばかりパソコンばかりで、体調を崩しかけていた。彼女が現れたのは、そんな時だった。
「あの、その、ここに、ユウトレーナーがいるとお聞きしたのですが……」
深夜、冷蔵庫の食材で腹を満たそうと、親にバレないようにこっそり台所に忍び込む子どものように音も立てずに扉を開いた女性がいた。一目見た途端、僕の記憶の鍵付き書籍の山が次々に音を立てて開いていった。バタ、バタ、バタ、何冊も何冊も。蘇った記憶の彼女とはまるで異なっていたが、その自信なさげな応対だけは変わっていなかった。まだ小学生だった頃、熱心に夢を語る僕の隣で、口元に手を当てて笑ってくれた女の子。一緒に馬にも乗ったし、家まで遊びに来てくれたこともあった。それが彼女、ヒナだった。
「私のこと、覚えていますか……?昔、たくさん一緒に遊んだよね。突然いなくなっちゃったから、私、どうしてももう一度会いたくて……」
その泣きぼくろ、どこまでも長い黒髪と頂点のくせ毛。変わってなんかいない、当時の面影はそこら中に散らばっていた。記憶の中の彼女の一つ一つのパーツが、パズルのように目の前の彼女にがっちりと当てはまっていく。ああ、君は本当にヒナなんだ……。彼女には数えられないほど言いたいことがあった。けれど、自分が逃げ出した負い目から、記憶に蓋をし、考えないようにしていた。だからこそ、ここで出会えたことに僕の情緒はめちゃくちゃにかき乱されていた。
「この見た目なら、覚えててくれるかもって思ったの……。ほら、ユウ君昔、派手じゃない女の子がタイプだって言ってたから……」
「どうして、どうしてここに……」
「ユウ君なら絶対、トレーナーになってるって確信してたの。私にいっぱいお話ししてくれたよね。私もトレーナーになれば、きっとユウ君と一緒に働けると思ったの。だからたくさん勉強して、少し前にトレセン学園の試験に合格したんだよ……!」
そんな、そんなことが。理解が追いつかなかった。冷えたコーヒーをちびちびと飲んでいたさっきまでの僕はどこに行ってしまったのか。高級そうな鞄から証明書を取り出し、嬉々として私に突き出してきた。分からない、どうしてそこまでして僕に会いにきてくれたのか。
「ごめん、少しだけ整理させてほしい」
「そ、そうだよね……。いきなり来られて迷惑だったよね。ごめんね、ほんとにごめんね」
「そんなに謝らないで。少し気が動転しただけだから。ほら、そこのソファに座って。ヒナには、たくさん話したいことがある」
ソファに腰かけ、ヒナは部屋を見渡している。どちらも声を発することはなく、コーヒーメーカーの虚しい機械音だけが響いた。
「はい、コーヒーどうぞ」
「お部屋すっきりだね……。ユウくんは昔から綺麗好きだったよね……!」
「ヒナ、どうしてトレーナーに」
正直なところ、めまいがするほど混乱していた。もう二度と会うことはないだろうと思っていた彼女が、記憶の底に閉じ込めていた彼女が、取るに足らない今日、今目の前にいるのだから。
「も、もちろん、ユウくんに会うためだよ……!トレーナーの試験は難しかったけど、どうしてもユウくんに会いたかったから……」
「そういう、ことか」
「でも、目の前にユウくんがいると思うと、ドキドキしちゃうね。とってもカッコよくなってたから、びっくりしちゃった……!ちょっとつり目になったかな……?」
僕の顔色を伺う彼女は、クリスマスプレゼントを我が子の枕元にセットする親に似ていた。弱々しい物言いに再会の喜びを包含している。敵意など微塵も感じられないというのに、僕は後ろめたさから肩の力を抜けなかった。
「ユウくんが担当してる子のレース、見たよ……!みんな信じられないくらい強くて、さすがユウくん……!」
「彼女たちの努力の賜物だよ」
「でも、ユウくんがトレーナーになって結果を残してるって分かって私、とっても嬉しかったよ……!昔、たくさんお話ししてくれたよね!」
こんな無垢な笑顔を向けているというのに、痛いところを突かれたような気がしてならない。彼女はやはり、僕が何も言わずに学校を辞めて街を出ていったことが許せないのだろうか。
「ユウくんならきっと、お父さんみたいに素敵なトレーナーになれるよ……!ううん、もっと凄いトレーナーに!だから、その……。あの、あのね!私にそのお手伝いを……」
パリン、マグカップが指からするりと落ちていった。来る、来ると分かっていた、親父の話。いざ語られると、身体中が震えて止まらない。どうして彼女は顔を赤らめているのだろう。僕はこんなに震えているのに。真っ青な顔で親父の話を拒絶しているというのに。心臓から得体の知れない何かが送り込まれ、喉までやってきた。艱難、喫驚、慚愧、あらゆる負の感情が喉元までやってきて、気づいた時には、机を叩いていた。
「親父の話はするな!」
つい数秒前までりんごのような鮮やかな赤を頬に宿らせていた彼女の顔が、途端に青白く変色していく。まるで殺人鬼とばったり出くわしてしまったかのように。自分でもどうしてここまで激情したのか分からない。彼女は、ヒナは、こんなに怯えているのに。もう一言彼女から言葉を発せられたら、どうにかしてしまいそうだった。
「ご、ごめんね……。そうだよね、嫌だったよね……」
何が起こったのか彼女には理解できていないことくらい、容易に想像できた。それでも、反射的に謝罪の雨ををユウへと注いでいる。その姿を見て、ようやく自分がしていたことの愚かさと虚しさを彼は理解した。自分を求めて遠路はるばるやってきてくれたヒナを怒号でもって拒絶したこと、八つ当たりに等しい背徳行為を行ってしまったということを、鈍器で殴られるような衝撃と共に理解した。彼は音も立てずにソファへと深く座り直した。
「もう、昔の話はしたくないんだ。悪いけど、出て行ってほしい」
「――ごめんね、ユウくん」
乾いた音を立てて、扉は開いた。