エイシンフラッシュの娘。   作:ソースケ2021

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偉大な母親を持つウマ娘・アデリナが、自身の実力と母親の実績、その親子関係に葛藤しながらも競争生活を全うしようとするお話です。

※オリウマ娘注意です。

登場人物
フラッシュアデリナ

【挿絵表示】

誕生日:4月28日
体重:おおよそ理想
身長:159センチ
スリーサイズ:87・58・86

フラッシュアデリナの秘密1:実は母に教えてもらったポーカーが趣味。

(ドイツでは結構、テキサスホールデムと呼ばれるポーカーがさかん)


第5話

あの日からスターちゃんとは同じ空間で生活していながら、必要最低限の会話とおやすみの挨拶以外しなくなった。

お互いに手の内をバラしたくない、とか気まずくなったというわけではなく、ちょっと変な言い方だけど、自然とそんな空気になったという感じだ。

 

当然だけど、朝スターちゃんがトレーニングに行く前にあたしを起こしてくれる、ということもなくなった。

今あたしを起こしてくれているのは、スマホのアラームである。

 

 

ピピピピピピ……。

 

今日もスマホが1秒の狂いもなく朝の5時にあたしを叩き起こしてくれる。

ベッドからもぞもぞと腕を伸ばし、スマホを取って停止をタップしてやかましいアラームを止めた。

 

まだ意識が朦朧としている上半身を起こし、眠い目をこする。

元々寝起きはそれほど良い方ではないのだけど、アラームで起きるようになってからそれがさらにひどくなったような気がする。

なにかもっと目覚めが良くなるような、他の音に変えてみるかな……。

 

なにはともあれ。

 

「あと一週間……」

 

そう、勝負の日までとうとう一週間を切った。

あたしはいつものように重たい体をベッドから引きずり下ろすと、とりあえず髪としっぽの手入れをしはじめた。

 

スターちゃんはあたしを起こすとすぐにトレーニングに行ってしまっていたから、一人で身だしなみを整えるのは前と変わってないはずなんだけど、どういうことだか、ちょっと『寂しいな』と感じてしまう。

 

っと、いけないいけない。

いまスターちゃんはあたしの親友というだけでなく、現役続行への最後の切符を賭けて戦うライバルなのだ。

 

芽生えかけた人間らしい感情を修羅の心で押し殺して、あたしはしっぽの手入れに集中することにした。

 

 

トレーニングは順調そのものだった。

例の事件のお陰で心が晴れた、ということもあるのだろうが、ここ2週間ほどのタイムの伸びはまるで別人のようだった。

 

あたしの父親でもあるトレーナーいわく、『たぶん君は【超晩成型】のウマ娘なんだろう。こういうタイプはクラシック級の4月辺りから急激に力をつけて、ようやく本来の実力を発揮できるようになる。この成長型の特徴は、努力が実を結ぶのにすごく時間がかかってしまうという点だ。トレーニングを重ねても結果が出にくいから、【本格化】するまでに心が折れてしまう娘も多い。俺自身はそういう娘を担当したことはないけど、実例は何回か見たことがある』らしい。

 

お母さんはジュニア級の10月には初勝利を挙げてクラシックで大活躍したのに、全く不思議なものである。

いつも思うんだけど、ウマ娘って一体どれだけの競走能力を親から受け継ぐのだろう。

エアグルーヴさんとかダイイチルビーさんのように【母娘でG1制覇!】みたいなのは目立つけど、実はああいうケースの方が珍しいんだよね。

お母さんはあんまり活躍してなかったけど、その娘がG1ウマ娘になった、というパターンのほうが圧倒的に多い。

もちろん、あたしみたいにその逆のケースもけっこうある。

まぁ確率的にそうなることの方が多いのは当たり前なんだけど、このへんのことは科学的にもよく分かっていないらしい。

もう一つ言うなら、お父さんの職業とか運動能力は生まれてくるウマ娘の競走能力にほとんど影響を与えないと言われている。

大活躍したウマ娘のお父さんが世界的なアスリート、という文字通りサラブレッドという場合もあれば(しかしこのサラブレッドって言葉はどこから来たんだろうね?)、私の父は普通のサラリーマンです、って娘もたくさんいる。

どんな生まれのウマ娘が強くなるのか?という疑問は、科学的にも生物学的にも分かっていることがほとんどない、というのが現状だ。

 

 

ミーティングのためにトレーナー室に行くと、神妙な面持ちでトレーナーがタブレットを操作していた。

 

「来たか、アデリナ。次のレースに出走するメンバーが発表されたぞ」

 

トレーナーが差し出してきたタブレットには、URAの公式ホームページから見られる出走メンバー表が表示されていた。

 

あたしは無言でそれを受け取り、ざっと出走メンバーを確認してみる。

 

……1枠2番に【スプラッシュスター】、6枠11番に【フラッシュアデリナ】の名前を確認して、ようやく『ああ、本当にスターちゃんと戦うんだ……』という実感が湧いてきた。

 

「正直今の君の力なら、大きな不利を受けなければこのメンバー相手に負けることはないだろう。要注意なのはここのところ連続2着に来ているローズフレイアくらいかな」

 

ローズフレイアさんという娘とは直接の面識はなかったが、出走メンバー表で直近のレース結果を見る限り、結構良いタイムで2着に食い込んでいるようだ。

ただ……。

 

「実績から当日は彼女がおそらく1番人気になるだろうが、ここのところかなり無理してレースに出走しているみたいだし、彼女が当日を絶好調で迎えるのは難しいと思う。本調子でない彼女さえ競り落としてしまえば、あとの娘は君に追いつけないだろう」

 

この時期、引退を回避するために強行スケジュールでレースに出ている、という娘も少なくない。

担当しているトレーナーも本当は良くないことだ、と分かってはいるだろうけど、本人が出たいといえば出走の許可を与えないわけにもいかない。

懸かっているのは、そのウマ娘本人の進退なのだから。

一般的には連続でレースに出られるのは体力的にも気力的にも2週ぐらいまで(URAでは毎週土日にレースが行われている)、と言われているが、ローズフレイアさんは3週連続出走で最後の勝負に挑むようだった。

 

「……スターちゃんは、どうかな?」

 

お父さんもスターちゃんがあたしと同室で、しかも仲が良いのを知っているから気を使ってあえて話題に出さなかったのだろう。

でも、まったく彼女のことについて触れないのはむしろ不自然な気がしたので、あたしから話を切り出してみることにした。

 

「彼女も頑張ってはいるんだろうが……。前走は3着に来ているとはいえ、先団に取り付いて自分のレースができていたにも関わらず、勝ちきれなかったわけだからな。彼女には申し訳ないが、俺はそれほど意識しなくていいと考えている」

 

こういうところはさすがにプロで、客観的な事実だけを淡々と語ってくれているはずなんだけど。

あたしから彼女の話を出したくせに、その事実がまるで親友の悪口を言われたように感じられて少し腹を立ててしまった。

 

……きっとあたしは、本質的なところで勝負に対しての執念が甘いのだろう。

 

トレーナーはあたしのそんな心境に気づいたのか気づいていないのか、「ミーティングは以上だ。何か質問は?」と聞いてきたので、あたしは黙って首を横に振り、トレーニングに出かける準備をし始めた。

 

 

5月30日の日曜日。

あたしは目をさますと、天気を確認するためにまず部屋のカーテンを開けた。

降り注ぐ朝日。

今日はどうやら、快晴のようだ。

 

「よし」

 

あたしは小さく、ガッツポーズを作る。

雨の日のダートも抜き足が良くなって嫌いではないが、あたしの脚は一瞬の切れ味を活かすというより、いい脚を長く使うタイプなので、パワーが要る良バ場のほうがありがたい。

 

スターちゃんは、部屋にいない。

彼女は『最後にトレーナーさんとみっちりミーティングしたいから』という理由で、寮に届け出を出した上で昨日の夜から外出して、東京レース場の近くのホテルに泊まっている。

 

そういう理由ももちろんあるのだろうけど、本当の理由は言うまでもない。

 

いつものようにクローゼットを開け、姿見を見ながら髪にくしを通す。

 

変わったことをする必要はない。

いつものように、いつものレース場を走るだけ。

こういうことを意識している時点で平常心ではないのだろうけど、『自分は今、平常心ではない』と認識していることが大切だ。

自覚していれば、対策が打てる。

あたしの場合、多少の緊張感はむしろパフォーマンスにいい影響を与える、という心理学の研究結果を信じることにしていた。

 

 

「おはよう、アデリナ」

 

集合場所のトレセン学園正門前に行くと、すでにトレーナーが待っていてくれていた。

これもいつも通りで、あたしは約束の時間ギリギリに行くけど、お父さんはだいたい10分前には待っていてくれているらしい。

『そんなことでは社会に出てから困るぞ』っていつも言われるけど、そんなことは社会人になってから考えればいいや、とあたしは思っている。

 

「うん、おはよう」

「緊張してるか?」

「さすがに、少しね」

 

大勝負前独特の雰囲気を感じ取ったのか、そう声をかけてくれたトレーナーにあたしも無理に気張ることはせず、苦笑いを浮かべてそう答えた。

トレーナーもそのへんは分かってくれているようで、変に励ますようなことはせず、「そうだろうな。じゃあちょっと、しゃべりながら歩くか」と言うと、駅に向かって歩き始める。

 

道すがらの話は昨夜の学食のメニューやトレーニング後の体調のような、いつも雑談として話すようなことばかりだった。

トレーナーも意識してそうしてくれているのだろう。

今日のレースのことが頭から完全に離れるようなことはなかったが、おかげで少しは気が紛れて余計なことを考えずに済んでいた。

 

「そういや、お母さんからの連絡は?」

 

あたしはその雑談に乗っかるような感じで、少しばかり気になっていたことを聞いてみる。

お母さんは定期的にお父さんと連絡を取っているので、レースの日程などは把握してるはずである。

ちなみに、あたしのほうにはお母さんからは何の連絡も来ていない。

 

「あ~……レース見に来ないかって一応、誘ったんだけどな」

 

父はちょっと困ったような表情を浮かべ、それ以上は言おうとしない。

まあG1を勝った母からすると、娘が未勝利のレースを勝とうが負けようが、どうでもいいことなのだろう。

例えそのレースで負けて、引退に追い込まれたとしても。

 

ま、いっか。

あたしの方からも『見に来て』みたいな連絡は入れてないしね。

 

「いつも思うんだけど。お父さん、よくあんな偏屈女と結婚したね……なんで結婚したの?顔が良かったから?」

 

母親の悪口を言って緊張といらだちをほぐそうとしているあたり、あたしも本当にまだまだ子供だな、とちょっと自分が嫌になってしまう。

 

「母親のことをそういうふうに言うもんじゃないぞ。いや、確かに多少は偏屈だし、美人なのは認めるが」

 

妻へのグチとノロケを父から同時に聞かされたあたしは、自分で話のきっかけを作ったのにもかかわらず、少しうんざりしてしまった。

 

「確かに偏屈に見えるときもあるだろうがな。お母さんはただただ、頑張り屋さんなだけなんだよ」

 

それは知ってるよ。

お店でもクリスマスの時期なんかは一日に2時間ぐらいしか寝ないで、従業員さんたちとひたすらにケーキを作っている。

反抗期真っ盛りの中2の冬休み、たまたま厨房の前を通りかかると、そこから1gがうんぬん、とかいう母の独り言が聞こえてきて、『そんなもん海原雄山でもない限りわからんでしょ』と思わず心のなかでツッコんでしまった。

……それでいて26日には必ずあたし達家族のために手作りケーキを用意して、ちょっと遅いクリスマスをお祝いする。

疲れた顔を隠しているつもりなのか、普段は薄化粧なのに、その日のファンデーションはいつもよりすこし厚めだ。

 

「そりゃもう誰かが止めてあげないと、どこまででも突っ走ってしまうぐらいのがんばり屋さんだ。フラッシュは何でもできるし、手先は器用なのに、性格はとことん不器用っていう放っておけない女(ひと)なんだよ」

「ふーん」

 

知ってることを言われても、それぐらいしか返す言葉がない。

ま、夫婦は夫婦の間にしかわからないことってあるのだろう。

 

「頑張り屋のところと、最後まで諦めない気持ち。そういうところはアデリナもお母さんに似たんだろうな」

「あたしはお母さんに似てないよ。……似たのは、顔とおっぱいぐらいかな」

 

ヘンなことを言うお父さんにバカなことを言いながら呆れ顔で手を振ったけど、それが照れ隠しであることぐらいは、子供なあたしでもさすがに自覚していた。

 

 

道中トレーナーとバカ話(そう、あれはバカバカしい話なんだ)をして多少は緊張がほぐれたつもりでいたが、控室に入って体操服に着替えると、さすがに心も体も張り詰めてきた。

 

負けたら、引退……。

 

その言葉が頭の中を無限に反芻する。

 

「toi,toi,toi……」

 

脳内の反芻を打ち消そうとするように、呪文みたいな言葉が勝手に口をついて出た。

母がいうには、ドイツに古くから伝わるおまじないらしい。

 

確か小学校二年生の時、生まれて初めて本格的な模擬レースに参加することになって、あまりの緊張に泣き出しそうなあたしに、お母さんが『心が落ち着くおまじないですよ』と言って教えてくれたのだと思う。

 

でも、小さい頃は夢中で遊んでいたお気に入りのおもちゃも、大きくなるにつれいつの間にか自分の部屋からなくなってしまうように、そのおまじないもいつの頃からか使わなくなってしまっていた。

 

今のあたしは、基本的に占いやおまじないなどのたぐいは一切信じない。

それでも今だけは、それにでもすがりたい心境だった。

 

『アデリナ、時間だぞ』

 

着替えている最中外に出ていてくれたトレーナーが、扉をノックしながら定刻を告げる。

 

「分かった。いくよ」

 

あたしは気合を入れるためにパン!と頬を叩くと、用意してあったミネラルウォーターを手にとってグビッとひとくち喉の奥に流し込んだ。

 

体は緊張しているが、頭の中は引退の文字ではなく、なぜか先ほどの呪文がリズミカルに繰り返されている。

 

心理学やら脳科学の方から見ると、単に覚えやすくてリズミカルな単語が頭の中を支配した、ということなのだろうけど……。

ひねくれ者のあたしも今回ばかりはそんな小賢しいことは考えず、小さい頃このおまじないを教えてくれたお母さんに心のなかで感謝した。

 

東京レース場・ダート1600Mの未勝利戦。

そのレース前のパドックは、静かな熱狂に包まれていた。

普段の未勝利戦では、感じることのない感覚である。

 

人は、今日の午後から行われるダービーのような、偉大な栄光や名誉を競う者たちに大きな声援を送る。

 

しかし逆に【進退を懸けた勝負】というものにも、深い興味を覚えるものらしい。

毎年この時期の未勝利戦は【負けたらあとのない】ウマ娘たちの深刻な戦いを見守ろうと、一種の野次ウマ根性でたくさんのひとが観戦に訪れる。

もちろん、推しているウマ娘を最後まで応援しようと駆けつけている熱心なファンも大勢いるけどね。

 

慣れない雰囲気の中あたしがパドックに出ていくと、ひときわ大きな歓声が上がった。

今日のレースの一番人気は前走・前々走と2着が続いているローズフレイアさんかな、と思っていたけど、なにがどうなっているのやら、あたしが一番人気に推されているらしい。

一番人気なんて【あのエイシンフラッシュの娘】というだけで期待されていたメイクデビュー以来である。

 

トレーナーにその疑問をぶつけると、苦笑を浮かべて『金曜日のトレーニングを乙名史さんに見られたからだろうな……』と答えてくれた。

乙名史さんはお父さんとも古い付き合いがある月刊トゥインクルの名物記者で、彼女のウマ娘を見る目は確からしく、彼女が厚い印を打つとその娘は人気になるそうな。

 

パドックの中央に出てペコリ、と頭を下げると(派手なポーズを取ったりする娘もいるけど、あたしはあまりそういう目立つようなことはしない)、『がんばれよ!』『応援しています!』という声が、いつもの倍くらい飛んでくる。

 

応援してくれる人がいる、というのはそれだけで心強いものだ。

あたしは笑顔で観衆に手をふると、そのまま彼らに背を向けて地下バ道に向かう。

 

……途中スターちゃんとすれ違ったが、彼女はあたしと目を合わせようともしない。

傍目にも、彼女がピリピリしているのが分かった。

 

だからあたしも、話しかけるようなことはしなかった。

 

 

ゲートに入ってからの心境はそのウマ娘によって違うのだろうけど、あたしの場合は案外落ち着いてしまうことが多い。

幸い今回のレースも同じような感じで、もちろん胸は高鳴っているんだけど、緊張で呼吸が乱れるなんていうことはなかった。

 

もうすぐ、スタートだ。

勝っても負けても、これがあたしの戦う最後の未勝利戦である。

 

(toi,toi,toi……)

 

あたしはもう一度、お母さんの教えてくれたおまじないを声を出さず口の中だけで唱えてみる。

うん。

あたしは、落ち着いている。

大丈夫だ。

 

ガチャン!

 

運命のゲートが、開いた。

 

スタートはいつも通りだった。

あたしの脚質は後方からレースを進める【差し】なので、大きな出遅れさえしなければロケットダッシュのようなスタートは必要ない。

 

できれば道中は中団より少し後ろに位置して、レース展開を見守りたいところだ。

 

ただ、今日のレースは逃げの戦法を得意とする娘がいないのでスローペースになるはず。

二番人気のローズフレイアさんは先行だし、いくら東京の長い直線があるとはいえ、あまり後ろの方だと最後に届かない可能性が……。

 

「!?」

 

あたしの予想を裏切るように、一人のウマ娘が単独で先頭に立った。

バ群に押し出されて仕方なく、と言った感じではなく、自らの意思でハナを奪いにいったようにみえる。

 

(スターちゃん?)

 

先頭を奪ったのは、なんとスターちゃんだった。

彼女の脚質は典型的な先行型で、今まで一度も逃げという戦法を取ったことがないはずである。

焦って掛かってしまったのか。

 

……なにか、秘策があるのか。

 

周りの娘たちも不思議そうな顔をしていたが、そのうち平静さを取り戻し、余裕の表情さえ見せる娘もいる。

あたしには、彼女たちの腹の中が透けて見えるようだった。

 

【放っておけば、あの子の脚ならどこかで逃げツブれる】

 

正直なところ、あたしもそう思った。

スターちゃんの地力では、長い東京の直線を最後まで先頭で走り抜くことはできないだろう。

むしろ逃げが一人いることで、彼女を良いペースメーカーにすることができる。

あたしはレースを作っているスターちゃんのペースに合わせて、レースを組み立てることにした。

 

 

第二コーナーを過ぎ、レースは淡々とした流れで進んでいる。

 

……おかしい。

 

このレースがハイペースで流れているのか、スローペースで流れているのか、どうも判然としない。

いつもならこのあたりを過ぎれば、体が勝手に判断してくれるのだが。

 

基本的にはハイペースの時はあたしたちのような後ろから行くウマ娘が、スローの時は逆にスターちゃんのように前にいるウマ娘が残りやすい展開になる。

 

もちろんそのあたりはみんな承知しているから、前の娘はハイペースすぎるな、と思ったらペースを落とすし、後ろの娘はペースが遅いな、と思ったら心持ち早く仕掛けに出る。

 

周りを伺うと、他の娘達も少し困惑したような表情で走っている。

彼女たちも、レースのペースが掴めていないのだ。

 

こういう時は、だいたい2つのケースであることが多い。

レースの流れこそ凹凸があるものの、タイムそのものは平均ペースで進んでいて、意識しても仕方ない場合。

もうひとつは……逃げている娘にレースを支配されていて、こちらのペースをぐちゃぐちゃに乱されているという場合。

 

ただ、後者の場合は逃げている娘が実力的にかなり上位で、彼女のペースを意識しすぎて、もしくは意識しないということを意識しすぎて他の娘は自滅する、ということが多い。

セイウンスカイさんや、古くはカツラギエースさんなどがそういうレースを得意とした。

スターちゃんが逃げの戦法を取るのは今日が初めてのはずだし、そんな彼女がレースを支配するほどの試合運びをしているとは思えない。

ということは、レースは平均ペースで流れていて、意識したって仕方ないのだろう……。

そうは思うが、どうも脚と頭のどこかが引っかかるような感じがする。

 

言語化できない、レース中のウマ娘だけが感じる違和感。

 

 

ペースが掴めないまま、第三コーナーを過ぎた。

いっとき二番手を走る娘がスターちゃんに追いつきそうになったが、また少し引き離して変わらず彼女が先頭で逃げている。

まだ誰も、彼女を捕まえに行かない。

 

周りの子達は平均ペースだと割り切ってレースを進めているようだ。

 

みんな、逃げているあの娘にレースを支配するほどの力はない、と考えているのだろう……。

 

でも、あたしはどうしても、さっきからおかしな感覚が拭えない。

なんだ?

なんなんだ?

むしろいつもより楽に走っている感覚すら……。

 

楽に?

第三コーナーも過ぎているのに、楽に走っているということは……。

 

!!

 

あたしは、スローペースで走らされているんだ!

 

どこでそんな術を学んだのかは知らないが、スターちゃんは完全にこのレースを支配していて、あたしたちの体内時計をメチャクチャにしてくれていたらしい。

 

あたしがそれに気づけたのは、彼女がレースで勝つために、どれだけの努力をして工夫を重ねていたか、そのことを彼女の身近で見てきたからだ。

 

それを知っててなお、ナメていた。

あたしは親友を、スプラッシュスターというウマ娘をナメてかかっていた。

 

……そのツケを支払わせられる前に、気づいたのは幸運だった。

 

第三コーナーの1/4を過ぎたあたりから、あたしは加速を開始する。

これはスローペースでレースが流れた時の仕掛けと、ほぼ同じだ。

 

罠は気づかれないからこそ、効果を発揮する。

見つけた罠に引っかかるバカはいないからだ。

 

そしてあたしは、彼女が仕掛けた罠を見事にかいくぐった。

 

このレースは、もうあたしのものだ!

 

 

>>

(来た……!)

 

スプラッシュスターは後方から迫りくる強烈なプレッシャーを感じとっていた。

 

おそらく、アデリナだろう。

最後のレースが決まってからの、トレーナーとの日々が頭の中に蘇る。

 

(スプラ。レースメンバーが正式に発表されました。このメンバーなら怖いのはフラッシュアデリナ、ただ一人です。彼女にさえ競り勝てれば、勝利は間違いありません)

(私もそう思います。それだけのトレーニングをやってきたという自信がありますから。ですが、今の私の実力でアデリナちゃんに勝てるでしょうか……)

(あなたも近頃力を付けてきているのは確かですが、正直な所、このまま真正面から今の彼女にぶつかっても勝つことは難しいでしょう。ですから……)

(この動画は?)

(もう古いものですが、カツラギエースというウマ娘がジャパンカップを逃げ切った時のレース映像です。同じ東京レース場、参考になることもあるかと思って用意しました)

 

(ダートとはいえ、スピード勝負に持ち込まれたら話になりません。ですがあなたには、尋常ではない努力で積み重ねてきたスタミナがあります。他のウマ娘たちを徹底的に混乱させ、消耗させ、泥沼のスタミナ勝負に持ち込めば、勝機は必ず見えてくるはずです)

 

(どんなにうまくレースを運んでも、最後はおそらくフラッシュアデリナとの叩き合いになるでしょう。今の彼女には、多少不利なレース展開をひっくり返すだけの力があります。ですが、それは望むところです。根性勝負の競り合いになれば、あなたに勝てるウマ娘なんていないのですから)

 

(スプラ、どうしたのです!立ちなさい!勝ちたくないのですか!?レースで負けるのは仕方ないですが、自分に負けてあなたは競走生活を終えるつもりですか!?立ち上がって、もう一本走るのです!)

 

(……よくこのトレーニングに耐えてくれました。今までもあなたは、私の厳しいスパルタメニューに文句一つ言わず、こなしてくれていましたね。私も何人かウマ娘を担当しましたが、あなたほどハートが強くてガッツのあるウマ娘はいませんでした。大丈夫です。当日は必ず、あなたが勝ちます。あなたは、私の誇りです)

 

自分の方こそ、トレーナーさんには感謝しかない。

こんな時期まで未勝利のウマ娘なんて、見捨てられても仕方なかったのだ。

でもトレーナーさんは諦めず、自分を徹底的に鍛え上げてくれた。

 

今までの努力を、苦労を、水の泡にするわけにいかない。

勝つことでしか、トレーナーさんに恩を返すことなんてできない。

 

私は、絶対に負けない!

 

スプラッシュスターは栄光のゴールを目指して、ギアを5速に切り替えたのだった。

 

 

>>

スターちゃんの背中が見えたのは、第四コーナーの入口だった。

あたしはその時点で、2番手まで位置を上げていた。

あたしより後ろの娘たちはペースをとことん狂わせ続けられ、心身ともに疲労困憊でコースを回ってくるのが精一杯という感じだろう。

 

これでほぼほぼ、あたしとスターちゃんとの一騎打ちになった。

 

彼女とはまだ4バ身ほどの差があるが、あたしはまだ、脚を十分に残している。

 

……結局頼りになるのは、母親から譲り受けたこの末脚か。

そう思うと少しばかりうんざりしたが……。

 

捕まえられる。

 

もう、見くびらない。

もう、油断しない。

 

勝つのは、あたしだ!

 

あたしはトップスピードに持っていくために、さらに脚の回転を上げた。

 

みるみるうちに、スターちゃんとの距離が縮まっていく。

あちらも慣れない逃げの作戦で、相当に消耗しているはずである。

 

その証拠に体幹はヨレヨレで、脚色もどんどん悪くなってきている。

あたしとまともに競り合うだけのスタミナはもう残っていないだろう。

 

あたしはその手負いのウマ娘をあっさりかわそうとしたが……。

 

「う、うおぉおぉおぉおおぉ!」

 

彼女はありったけの叫び声をあげ、こちらをにらみつけ、あたしを突き放そうとする。

彼女は決して、先頭を譲ろうとはしなかった。

 

……なんてやつだ。

 

スタミナなんて、とうに使い果たしたはずじゃなかったのか。

 

まだ、このレースに勝てる気でいるのか。

 

>>

「よし、よし、よし!!」

 

いよいよ最後の直線、レース場の観客席に若い女性の大声が響き渡った。

 

レースも大詰めということもあり、観客席は大声が飛び交っているが、その中でも彼女の声はひときわ大きかった。

 

「応援にも熱が入りますね。園田トレーナー」

「あなたは……」

 

園田と呼ばれた女性が声を掛けられた方に顔を向けると、そこには直接の面識はなかったが、最近意識することの多かった一人の壮年の男性が立っていた。

 

「フラッシュアデリナさんのトレーナーさん」

「僕のこと、ご存知でしたか」

「それはもう。あのエイシンフラッシュを育て上げた名伯楽ですもの。で、今は彼女の夫でもあらせられる」

 

彼女の言葉に、彼は思わず苦笑する。

実はエイシンフラッシュの幻影に囚われているのは、娘だけではない。

彼にも、【エイシンフラッシュ以降、G1ウマ娘を担当していない】という現実があった。

そもそもG1ウマ娘を担当すること自体が難しいことなので(それまでの実績やら人脈やら運やらが絡む)、それ自体は恥ずかしいことでもなんでもないのだが、未だに【エイシンフラッシュを担当したトレーナー】と言われるたびに、少し心がじくりとする。

 

「……まったく、トレーナーというのも因果な商売ですな。こういう残酷な勝負も、見届けなければならない」

 

彼の言う【因果】には別の意味もあったが、話の後半に現在の状況を説明することで、うまく話題をすり替えた。

 

「それを覚悟で選んだ道です。それに」

「それに?」

「今回に限って言うなら、残酷な結果になるのはフラッシュアデリナさんのほうですから。叩き合いになったら、相手がナリタブライアンでもスプラは絶対譲りません」

 

なんと気の強いお嬢さんだ。

相手がナリタブライアンでも、というのはさすがにフカシすぎだと思ったが、それだけのことをやってきた自信があるのだろう。

 

そして自分が担当しているウマ娘を、深く信頼している。

 

それはそれとして、言わせっぱなしではベテラントレーナーとしてもカッコがつかないし、なにより自分の担当ウマ娘でもあり、娘でもあるアデリナがナメられたようで面白くない。

 

かといって、怒鳴り返すのも大人げない。

 

なので彼は、

 

「叩き合いになれば、うちのアデリナも相当なものですよ。まあ、見ててください」

 

と余裕たっぷりのニヒルな笑顔でそんなことを言うのにとどめておいたのだった。

 

 

>>

とうとう、残り200のハロン棒が見えてきた。

比較的余裕があったあたしの脚も、そろそろ限界に近づいている。

並びかけては突き放され、並びかけては突き放され、なかなかスターちゃんを捉え切ることができない。

 

わずか半バ身の差が、果てしなく遠く感じる。

 

彼女も慣れない逃げという作戦とレースの展開作りに、相当苦心したはずである。

 

そんなレースを走ってきた彼女だからとっくに限界を迎えていてもおかしくないと思うのだが、微塵も脱落する気配を感じさせない。

 

こんなに強いウマ娘だったのか……。

 

もちろんあたしは彼女がどれだけの努力を積み重ねてきたか、それはよく知っている。

 

でも、あたしは彼女の努力量だけを見ていて、その努力によって培われた【実力】を軽視していたのではないだろうか。

 

それは、とても失礼なことではないのだろうか。

 

ごめん、スターちゃん。

スターちゃんは、やっぱりすごい娘だったよ。

 

……あたしは、そんなすごい娘に勝ちたいっ……!

 

あたしは、最後の力を振り絞る。

 

あたしだって、やれるだけのことはやってきた。

あたしを支えてくれた人も、たくさんいる。

 

お父さん。

学園に務めるスタッフの方たちや先生方。

……それに、お母さん。

 

偉大で、偏屈で、わからず屋で、大好きなお母さん。

 

そういう人たちのことを考えると、限界だと思っていた脚に力がみなぎる。

 

「うおぉおおぉおぉおおぉぉっ!!」

 

こういうことは結局、最後は根性勝負だ。

 

あたしは考えなしに大声を出し、最後の気力と根性を振り絞る。

 

半バ身あった差がすぐに縮まり、あたしはそのまま彼女を追い去ろうとする。

彼女も、あたしを突き放さんと更に脚を伸ばす。

 

あたしは、必死に食らいつく。

 

負けない。

負けない!

ぜっったい、負けないっ……!

 

お互いの存在を視界に入れながら、距離も、時間さえも超越したように感じる空間を、あたしたちは駆け抜けていた。

 

ゴール板が見えてくる。

 

まだ彼女を振り払えない。

彼女はまるで幽鬼のような表情であたしを睨めつけ、あたしの隣を走っている。

 

スピードも、スタミナも、パワーも、末脚も、スキルも、作戦も、気力も、根性も、精神力も、自分を支えてくれた人たちへの感謝の気持ちさえも使い果たしたあたしたちにできたことは、ただただ脚を動かすことだけだった。

 

そのまま二人、もつれるようにゴールイン。

 

その場で突っ伏したいところだったが、後にゴールしてくる人たちのことを考える理性はかろうじて残っていたようで、あたしはそのまま外ラチに向かってヨロヨロと歩き、後続の人たちの邪魔にならないところまで移動してからばたん、と仰向けに倒れ込んだ。

 

空は、憎々しいほどに青く澄み渡っていた。

 

どうやらスターちゃんも同じような判断をしたらしく、あたしの隣に寝っ転がって激しい呼吸を繰り返している。

 

「……ねえ」

 

スターちゃんの声を、久しぶりに聞いたような気がする。

 

「……なに?」

「……正直、私が勝ってると思う……」

「いやいや、あたしが勝ってるって……」

 

睨み合うか、笑い合うかしたかったところだけど、あいにくあたしたちにそんな力は残っていなくて、あとはゼイゼイ肺が赴くままに呼吸をしているぐらいしかできなかった。

 

しばらくそうしているとお互いのトレーナーが小走りにやってきて、二人の口に酸素を当てはじめる。

しばらく肺に酸素を送り込んでいると、多少は呼吸が落ち着いてきた。

 

「……あたしが勝ってるよね?」

「と思うが……」

 

あたしの問いかけに、お父さんは確信を持てない表情を隠そうともせず答えてくれた。

あたしはお父さんの肩を借りてなんとか立ち上がると、少し顔を上げて掲示板を確認してみる。

3着にはローズフレイアさんが入ったみたいだったが……。

1着と2着には何も表示されておらず、確定のランプも点灯していない。

 

少し離れたところではスターちゃんもトレーナーの肩を借りて立ち上がり、不安げに掲示板を見上げている。

 

5分。

10分。

 

その間、レース場の観客席には大勢の人が詰めかけているにも関わらず、奇妙な沈黙がその場を支配していた。

 

未勝利戦でこれだけの時間、順位が確定しないのは珍しい。

……いやむしろ、これからの進退を決定してしまう勝負だからこそ、慎重に審議しているのかもしれない。

 

そして、15分後

 

1着 11

2着  2 ハナ

 

2つの数字が無機質に表示され、確定のランプが点灯した。

 

それを見た観客が、割れんばかりの大歓声を上げる。

 

「……勝ったんだ、あたし」

 

勝ったらものすごい嬉しさとか感動が押し寄せてくるのかな、とあたしは想像していたが、襲ってきたのは圧倒的な脱力感だった。

 

あたしはまるで重力に引きずられるかのように、ダートのバ場にへたり込む。

 

「大丈夫か、アデリナ!?」

「大丈夫……ちょっと、疲れが出ただけ……」

 

そうは言ったものの、脱力感がひどすぎてしばらく立ち上がれる気がしない。

 

立てた膝に頭を乗せ、呼吸を整えているあたしの耳に、東京レース場全体を揺るがすほどの慟哭が響いてきた。

 

それは一人のウマ娘のやるせない感情の渦であり、断末魔でもあった。




今回も長文読了、本当にお疲れさまでした。

レースシーンの描写に力が入ってしまい、ついつい長くなってしまいました。
親友同士の少し切ない激闘を、少しでも楽しんでいただけたのなら幸いです。

重ね重ねになりますが、長文読了、本当にありがとうございました。
書きたいだけ楽しく書いていますので、次回が短く済むかは完成させてみないとわかりませんが……。
よかったら次回作もまた、ぜひ読みに来ていただけると嬉しいです。

それではまた近いうちに、次話のあとがきでお会いしましょう!

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