数々の
今日は日曜日。
普通ならただの日曜日のはずである。
しかし今日は、【十月の第一日曜日】である。
勘の良い者、知識のある者、そして、ウマ娘に夢を持ち続けているものであればすぐに気付くだろう。
そう、あのレースが今年も開催される。
それは世界中から、唯一の栄光を求めて国士無双のウマ娘たちが集まる、最高峰のレースの一つ。
そしてそれは、一つの呪いでもあった。
勝てないことが、相手にすらならない事が、次第に鬱屈とした思いと共に、見果てぬ夢、叶わざる願いと呼ばれた代物。
しかし…いつか希望が現れるかもしれない。
それは羽ばたける英雄かもしれないし、黄金色の暴君かもしれない。
まだ見ぬ夢が、いつか現れるかもしれない。
これは、その前日譚、そしてIF。
数々の
どうか、さいごまでみとどけてほしい。
『さぁいよいよ第83回、凱旋門賞が賞始まります!』
『…解説の安部さん、今回の出走ウマ娘もまた強豪ぞろいですが…我が国日本からも選りすぐりのウマ娘が参戦します!どうお考えですか?』
『そうですね…!今年の海外勢もまた強豪ぞろいですが、彼女達ならあるいは…と夢を抱いてしまうあのウマ娘も参戦しますからねぇ…!もしかしたらもしかするかもしれませんよ!』
『実況解説陣も期待と夢が膨らむばかりですが、ここでパドックに移りましょう!ゲート番号1番…
精鋭のウマ娘たちがアナウンサーによって紹介されていく。
相手の殆どがG1レースに勝っている事が当たり前の超一流のウマ娘。
それも何回も、連勝なんてできて当然という修羅のような魔境に身を置き続けた歴戦の猛者しかいない。
でも、ウチのウマ娘の方が強い。
私はそう信じてる。
今からそれを証明してくれると、信じてる。
『さぁ…日本からの挑戦者、実績はなんと現在無敗でG1を4連勝!日本の夢を背負い、満を辞して登場です!ゲート番号8番!
色めき立つ歓声を聞きながらトレーナーの私は彼女を見る。
自然体ながらやる気に満ち、にこやかに軽く手を振ったりする姿にはファンや観客、彼女を知らないトレーナーにはそう見えるかもしれない。
でも違う。
身体、心はそうかもしれない。
でも、あれだけ取り上げられて緊張しないなんてことはない。
少し大人びたあの娘だって、年齢だけでいればただの女子校生なのだから。
ただ、緊張を覚悟に変えて瞳に携えるだけだ。
トレーナー契約を結んだあの時以来の瞳だ。
私が一目惚れした、美しい瞳。
パドックステージから彼女が戻ってくる。
肩に乗るくらいに伸びた綺麗な栗毛に所々鹿毛が差し込む髪が靡く。
よく締まった四肢に無駄は見えず、肌色の艶が煌めいていて、紫基調にフレッシュグリーンの差色が映えるように彩られた、ヴァイオリン奏者をコンセプトにしたハイロースカートの勝負服によって、肌はより白く見える。
カノンクインテット。
強くてか弱い、私の初めての担当ウマ娘。
静かに尋ねる。
「脚はどう?」
「絶好調ですね…全力が出せそう」
「……そう」
全力が出せる…意味をかみ砕いていたせいで少し会話が途切れる。集合の声が互いの耳に聞こえる。
「…そろそろ移動だね、エスコートは必要?」
「…よければ」
要望に応えて手を差し出し、カノンの包むように握って、ゆっくり歩き出す。
「…いよいよ、だね」
「…はい」
「…ありがとね」
「なぜ?」
「私、新米のトレーナーなのにさ…初めて尽くしで慌てたり焦ったり、いっつも足引っ張ってた。なのに、カノンはずっと着いてきてくれた。たまに私のペースに合わせてくれた。そんな状況、普通ならトレーナーとして失格レベルの状態なのに、ずっと。だから、ありがと」
「…こちらこそ」
「こちらこそ…私を受け入れてくれて、ありがとう」
「あの家生まれで、じゃじゃウマ娘な私を担当してくれる、心の広い…無知だった貴女が担当してくれたから。だから、ありがとう」
…そんなことないよ、って謙遜出来たらよかったのに。
いよいよ彼女たちだけの世界が近づいてくる。
ここからの主役は彼女たちウマ娘だけ。
だから、握った手を前に引っ張りながら言う。
「いってらっしゃい」
「…いってきます」
振り向いた素敵な笑顔を見て、手を離した。
三女神様、お願いします。
どうか、さいごまで、あの子らしく駆け抜けられますように。
……思えば、ここまで短かった気がする。
それもそうか、なんせ一番多くの記憶が残るような出来事であるはずのレースを6回しかレースを走っていないからか…。それもこれも、この強靭にして虚弱な体のせいだ…なんて、口が裂けても言わないようにしてきたつもり。
私の生まれは昔から続いている、知る人ぞ知る“呪いの一族”だ。担当したトレーナーは、一度必ず名声を挙げるが、後に必ず絶望が訪れる…なんてまことしやかに言われ続けた一族。
だから、トレセン学園に入って私を担当してくれたトレーナーには絶対にそんなことさせない、そう自分に誓った。
でも。
私の骨が、爪が、肉が許してくれなかった。練習すれば、トレーニングすれば、どこかが必ず怪我をする。割れたり、欠けたり、ズレたり、離れたりして、私を五体満足に走らせるのを許してくれなかった。
だから走れる体になれように頑張った。
同じくらい爪の弱い同級生、
長い間同じ病院で通院友達である先輩、
入院先のベットでたまたま隣同士だった後輩、
かかりつけ医にいた学園OGの看護師さんと主治医さん、
そして、私の一番の理解者である…姉さん、
…まぁとにかく、色々聞いて回った。たまに傷を舐め合ったり励まし合ったり罵り合ったり色々あったけど。
そして…本格化すら迎えてないようなひよっこだけど、同じくらい…もしかしたら私以上に才能にあふれた可愛い中等部の娘たちがいた。
でもそれら全部が、私の走る理由になったから、それもいい思い出だ。
さぁ、切り替えだ。
相手は世界。
百戦錬磨の強者たちが勢揃い。
こちらは、バ場もレース場も初めて尽くし。
そこそこ人気があるせいでマーク、潰し、塞ぎ、物理攻撃の可能性大。
そして、私自身という欠陥。
結論:圧倒的不利。
でも、勝てないワケじゃない。
周りが次々とゲートに入っていくので、私もつられるように入っていく。
狭いゲートの中で頭を冷やし、血肉を踊らせる。
心は冷やせ。そこは最後の起爆剤。
私らしく走るだけ、たったそれだけで私は勝てる。
「だから見てて、たづな姉」
ゲートが開く。
『さぁ!大きな夢と栄光を目指して!第83回凱旋門賞スタートです!
全員揃った綺麗なスタートダッシュです!
まず最初に飛び出たのは17番!その後に追随するのは、16番・3番・2番その横には11番さらに外めには15番内に4番追走、それをマークする形で18番と9番が並んでいます!
少し離れて10番ここにいた。それを横目に7番がそこにいて13番・6番、そして12番・14番が並んで追走…半バ身右後ろに20後方3番手にカノンクインテットここにいた!
大きな夢を乗せて、カノンクインテットは後方3番手に位置しています!そして1番に最後方に位置して…全体として12バ身ほどの隊列が完成してここから坂を登ります!』
…よし、うまくいった。スタートダッシュさえ上手くいけば正直言ってあとは息の入れ時さえ間違えなければ大方問題ない。
囲まれないように、抜けるように若干外側へ向かう。前を壁にして、いつでも抜けられるように…!
「『初めてのロンシャンはどうかな、センパイ?』」
…狙われた。
「『脚に優しそうで嬉しいくらいよ、
現状はとっても嬉しくないけどね、貴女の目論見通りかな?
「『へぇ…ずいぶん気楽そうだね…まさか』」
…!
押しつぶされる錯覚に囚われかける。
ヨーロッパのクラシック
周りの熱が上がる感覚、ぬぐえない圧迫感から逃げ出したくなる!
落ち着け…坂で焦るな、周りの鼓動に惑わされるな…!
目線を左右に振って周りを確認する。
…哀れにも釣られてしまったウマ娘達を見る。
あぁ、あんなことしたら絶対怒られるなぁ…
…うん、一夏の地獄を思い出してなんとか落ち着いた。
「『……生憎と、
「『ふぅん…いい先生じゃないか。せいぜいセピア色の素敵なフライトを楽しむといいさ』」
性格悪いね、貴女。
言い返したいところだが、この後が重要なポイントなのだ。
第一の仕掛けは3コーナーの直後、登りが降りに変わる場所。
それまでは、雌伏の時。
まだ、坂は続く。
『以前坂を登り続ける各ウマ娘、先頭集団は依然としてペースをキープしているようです!しかし18番の脚に陰りが見えるが……
おぉっとどうしたどうした!?9番、13番、14番が少し前に行こうとしているか?まだ坂は登り切ってはいないぞ!?
9番は先行集団に仲間入り、13番は19番と並走、14番は6番を追走する構えとなりました!!最後方にいますカノンクインテットは5番のマークにまだ落ち着いている!1番は依然として不気味な様を見せている!
さぁ、高低差10mの坂を上り切る各ウマ娘はこれから坂の降りに入っていきます!』
機が来た。
坂を登る余力で少し前へ行く。やることは簡単だが、タイミング次第で全ての結果が変わる非常にシビアな一瞬。
これを制すれば、勝ちへの一歩が見える!
登りが降りに変わる場所まで3……2……1……
ここ!
「『お先に失礼♪』」
「『…!!』」
親切な“小娘”に一言添えて、顔を見ることなく前へ行く。
坂を下る直前の一瞬の減速の瞬間を狙ったことで、一団の中で私の位置だけが少し前に出られたことで隊列の中から抜け、見える景色が大きく変わる。
先頭付近も良く見える。なにより、先行集団の意識が一気にこちらに向いた気がした。
それでいい、私を意識しろ。
後ろも前も気にしないといけない板挟み状態を思い出しなさい…!
『さぁ、正真正銘これが最後の、500mの直線に差し掛かる!
ここで仕掛けたカノンクインテットが早くも先頭に並びかけようとしている!しかし内を掬って待ったをかける5番!そして大外からついに1番が襲い掛かってきた!
少しづつ近づいてきている!逃げきれカノン!依然先頭はカノンクインテット!』
残り、500!
本気の速度を出して見せる…!
今までの全てを、ここに!!
弾けるように前に出る。
人影すら見えなくなるくらいに進もうとして。
その時に、聞こえてきた。
「『やらせるかあああぁぁああ!!!』」
自分からじゃない地響き。
その荒々しい踏み方、知っている!
雷のような怒号と共に、にじり寄ってくる。
振り向くまでもない…!
…あいつ!
「『アタシは勝つ!!』」
「『アタシの、プライドに懸けて!!!!』」
「『なんとしてでもなぁ!!!』」
「私だって!」
「『…私だって!!!!』」
「!?」
そのときに気付いた。
私を視ていたのは彼女だけじゃなかったことに、今更気付いてしまった…!
あの子は…一番後ろにいた…!
「『やっと来たんだ…!』」
「『ここまで来たんだ!!!』」
「『ここにいる、意地があるんだ…!!』」
「『勝つんだ!!ここで!!』」
芦色の亡霊が顕現する。
『内を5番!外に1番!2人近づいて三つ巴の400mの決戦となるのか!!
先頭はカノン!5番が一伸びしてきた!外の1番もまだ諦めてはいない!カノンは先頭!カノン先頭か!!?』
残り400m
暴虐の圧力が、亡霊の恐怖が、近づいてくる!!
ジリジリと、でも確実に!!
まだ、まだ!!
諦めるな…!
私にだって、譲れないものがあるんだ!!!
「!負けるわけには…いかないんだあぁぁあ!!!!」
義務じゃない!
責任じゃない!!
「ただ!!勝ちたいんだあああぁぁぁ!!!」
脚の踏み込みをもっと強くする。
全力で後ろを引き離す。
後先なんて考えない!!今だけの全力を出し切ってやるんだ!!
まだいける!!私ははもっと速く走れるはずだから!!
もっと、前に!!!
『さぁ残り300mまで来たぞ!5番1番脚色が光るが詰め寄れない!!カノン引き離す!!!カノンクインテットいまだ先頭!しかし5番1番まだ加速を残していたか!!』
残り300
来てる…!
確実に近づいている!
「『そこをどけぇぇええ!!』」
「『私が!!勝つんだああぁぁああ!!』」
「譲らない!絶対に!!!!」
『日本の悲願まであと200!!残り200!世界の意地とプライドがじりじりと詰め寄ってきているが!まだ先頭か!まだ先頭かカノンクインテット!!』
残り200
前が見えているはずなのに、目がチカチカしてよくみえない
気にしていられない
いまはもう叫ぶことしかできない
グググッ
解ってるから!!
お願い!
今しかないの!!
その後ならどうなってもいいから…!
だから…堪えて!!
『あと100!!!
最後の末脚勝負!!カノンクインテット先頭か!!しかし世界の意地とプライドが競り掛けてきている!カノンクインテット並ばれたか!?』
残り100
ピキッ
いよいよ限界なのは理解できてる!!
でももう考えるな!!
ただ、前へ!!!
『カノン引き離す!世界が詰め寄る!』
解ってるから!
あともう少しだから!!!!!
ビキッ!!!
その程度なら…!まだいける!!!
『日本か!?世界か!?』
「あとぉ…二歩おおおぉぉおおお!!!」
思いっきり右脚を踏み込む!!!
大地を潰すくらい、思いっきり!!!
バキッ
「あと、一歩おおおおおぉぉおおおお!!!!!」
最後の踏み込み。
これさえ耐えれば!!!
進めてる!!
これで、勝て
ボキッ
『日本の夢か!世界の意地とプライドか!!』
「…ぁ」
『どっちだあああぁぁぁぁああ!!!』
『 届いたか!?
ついに日本は世界に届いたか!
それとも世界の意地とプライドが待ったをかけたのか!
最後の直線並んでのゴールイン!
400mの鍔迫り合いを制し、世界一の栄光に輝いたのは一体誰なのか!!』
『ここで審議のランプが灯っています!』
二つの響き声の後、一つの事務的な声が、ロンシャンに、日本に、全世界に届けられた。
「「『どうなった(の)!?』」」
ターフビジョンの方を向く。
そこにはさっきまでの私たちの姿がパラパラ漫画を一枚ずつ捲るように、ゆっくり進んでいく。
「『(最後の最後…ゴール板の直前、確かに
スリットを掛けられ、最後、ゴール板前を通過する。
ワアアアァァァアアアア!!!
観客席から響き渡る。
無理もない。だってどう見てもアタシと
要は、
「『あ~あぁ…敗けちゃった』」
そう言ったのは
だから、決戦はアタシ達のどちらか。
結果は何となくだが分かっている。
「『なぁセンパイ、あんたはどう思う?』」
ちょっと煽ろうかなと思いながら、あのいけ好かねぇ
…その姿が見えない。
あいつ、ドコにいやが
キャアアアァァァアアア!!!
「すみません!!どいてください!!彼女のトレーナーなんです!!」
再び観客席から響き渡る。
それは、とても喜びの声には程遠くて、
そっちの方を向いて、
ターフの上で丸まったように見える紫
そして
瞬く間に広がる
朱
赤
紅
そんな景色を、見てしまった。
「大丈夫!?ねぇカノン!?聞こえる!?」
「『誰か!救急車を呼んで!!早く!!!」
アタシは、フワフワしたまま、ただ突っ立ってる脚をゆっくり進めるしかできなかった。アイツに近付いてる間にも、たくさんの人間があいつに寄って、いろんなことをしている。
眼から零れるものすら意に介せずに必死に呼びかける
ようやく、アタシは
片目を開けて、息苦しそうに、口だけがビクビクと動いている。
サイレンの音が近づいてくる。
コイツは、ゆっくりと震える手をこっちに向けてきた。
何してる無理するな、お前は何もせずに寝てろ!
口に出したいが、固まった喉によって拒まれた。
跪いて体を寄せると、襟首を握って引き寄せてきた。
「おい!?なにを!?」
―――"The last curse" with me―――
その言葉を最後に、何も言わなくなったアイツはアイツのトレーナーと共に乗せられていった。
ふと、後ろを向く。
Ⅱ 8
Ⅲ 1
Ⅳ 9
Ⅴ 19
その後、勝利者のインタビューがあったらしい。
アタシは、何を言ったのか思えていない。
着順を見た後のことを、私は何も覚えていない。
ただ、ものすごく、虚しかった。
『
『
『
『
『
A few years later...
待合室にて、一人のトレーナーが勝負服に身を包んだウマ娘の脚をずっと触っていた。
股下・腿・膝・脛・踝・足の甲・爪先と…細部まで、丁寧に、じっくりと、慈しむように。
「トレーナー」
「…あぁごめんね、いつも時間かけちゃって」
「…ううん、理解しているつもりだから」
「……ほんとに、ごめんね」
それからは、女性らしい程よく艶のある手が肌を擦る音のみが聞えるくらいに静まる。
あのトレーナーは今、彼女の愛弟子であり、新しい担当ウマ娘と共に史上二人目の栄光、その最後の一冠を手に入れようとしている。
「緊張してる?」
「…分かりますか?」
「うん。新米とはいっても、貴女とも3年くらいの付き合いになるからね」
触診しながら答える。
「…トレーナー」
「なに?」
「私は強いですか?」
手を止めて、その顔を見る。
まだまだ幼いが、強者の風貌を携えつつある。
さしずめ翼を広げ始めた鳳雛といった所か。
「うん、強いよ」
「先輩よりも?」
口を一瞬縛るが、また開けて苦し紛れに答える。
「……まだ、比べられないかな」
「分かりました」
それからしばらく経って、
「よし!これなら大丈夫かな」
「ありがとうございます」
そう言ってソックス・特別製の蹄鉄がはめ込まれた靴を履く。
鏡で身だしなみを整えて鹿毛の尻尾を揺らしながら外に出ようとする。
「それでは、行ってきます」
「えぇ、行ってらっしゃい」
ドアの前で立ち止まって、トレーナーの方を向くことなく言う。
「今日、必ず勝ちます。勝って、無敗の三冠ウマ娘になります」
「来年、トレーナーと一緒に行きたい所があります」
「もう来年の話?」
「はい」
「…どこ?」
「10月の第1日曜日に、フランスへ」
絶句。
「…私は、先輩を超えて見せます。先輩が取りこぼしたものを、私が獲って見せます」
「そうしたら…先輩と、会ってくれますか?」
視線は合わせてくれない。
「会わせる顔なんて…どこまでも未熟な私にはないよ」
耳が少し傾く。
「でも」
ピクン
「…本当にできたら、考えるわ」
耳先が天井を向く。
「…!約束ですよ」
「えぇ、約束。もうそろそろでしょう?」
「はい、行ってきます」
そう言ってドアを開けて外に出る。
菊の、三冠の栄光を、この淀で掴むために。
「…えぇ、行ってらっしゃい。あの子の…カノンの愛弟子。そしてもう一度、私に歩む権利をくれた…私の小さな英雄」
『さぁ題66回菊花賞!一番人気はもちろんこのウマ娘!』
「…あ、今日だったっけ?」
一人の病衣に身を包むウマ娘は、SNSを見ていた。
後輩一号が今日走るのをいまさらに知った。
「ふふっ…あの子、前よりもっと強くなってる」
「うまく夏を使ったな?さすが私のトレーナー」
パドックの中継を見ながら、その姿を愛おしそうにちょっぴりまぶしそうに見る。
可愛いくて強くて、まだまだひよっこな後輩ちゃん。
「ついにタッパだけは変わらなかったんだね…」
「結果次第じゃ…ドクターストップを破っちゃいたくなりそう」
少し体を伸ばす。
「…さて、いよいよレースだね」
「気張りなよ、プイ」
遠くからスラックスタイプの白衣の女性がやや駆け足で近づいてくる。
「あ!見つけましたよ!!今日という今日は受けてもらいますからね!」
怒りと小走りによる血圧の上昇のせいか、少し顔が赤い。
「イ ヤ で す ~」
「観念してください!今日こそ全身MRIの後に両脚のX線取らせてもらいますからね!!」
MRI。X線。それまではよかった。
無駄に長くなりそうでもなんとか耐えられるからだ。
「それとエコーは覚悟してくださいよ!!」
しかし、その後に続く三文字で彼女の決心は早かった。
「いやだ!エコーは嫌だ!」
「なぜですか!?」
「あの変に冷たいジェルでヌルヌルになるのはイヤ!!」
「あれこそが重要なんですから絶対に検査します!何が何でも受けてもらいますからね!」
「いや!私は逃げる!」
駆けだそうとしたら一歩先へ進めない。
何かに引っ張られる感覚のする原因を目で遡る。
「…なぜ手首を持ってるんでしょうか?」
「逃がさないためです」
「…」
耳を絞って、美しい、宝石のような桃色の瞳と桔梗色の瞳が睨み合う。
看護師が溢すように、
「今日は“テン”ちゃん先生にお願いしてますから」
ピクッ
「…ほんとに?」
「えぇ、私ですよ?」
「ほら、行きますよ」
病人は、看護師が引っ張られる片手に逆らうことなくついていく。
「“桜”の瞳は…ズルいですよ」
収監される受刑者のような面持ちで、トボトボとついていった。
―――全世界生中継にて―――
その様相は、とてもじゃないが勝利者の持つものではなかった。
これが世界一になったウマ娘などと、いったい誰が信じるだろうか。
「『…優勝おめでとうございます』」
「『…おめでとうございます、じゃねぇよ』」
俯いたまま、か細い声でそう言うとすぐさま立ち去ろうとする。
「『バゴさん!?』」
「『アタシは負けたんだ!!』」
振り返らずに呶鳴る。
「『何を言おうが負けたんだ!!!』」
「『あの500mはアイツが勝ったんだ!アタシは負けたんだ!』」
「『あいつもアイツで『
「『そんなフザケタことをぬかすなよなぁ!?!?』」
それは、まるで復讐心を抱き始めた狂人のようで…
「『こんな・・・こんな・・・』」
「『こんな勝ちなんて、欲しくない!!!』」
慟哭とも、怨嗟ともつかない叫びを最後に、
チェリーミックス
血に濡れた三 着 の ウ マ 娘と共に。