春先の乾いた風が吹き抜ける石造りの路地を、二つの小さい影が駆けて行く。
一人は、しめ縄みたいな三つ編みの、十かそこらの女の子。もう一人は、砂漠の植物みたいなモシャモシャ頭の、四つ位の女の子。
顔立ちが似ているから姉妹なのだろうが、二人とも西風の集落では異質な、象牙のような白い肌をしている。
「おぉい、ファーにミィ、何を急いでいる? 転ぶぞ」
曲がり角で、身体の大きな男性が呼び止めた。
姉妹は振り返って大声で叫んだ。
「スオウせんせ! ファー達それどころじゃないの」
「ナイノ!」
「何かあったのか? また規則を破って里の外で遊んでいたんじゃないだろうな」
「何でもナイナイ――!」
「ナイ――」
姉娘は砂ぼこりを立てて、あっという間に駆け去って行った。
修練所の主任教官に対して随分な態度だが、今の西風にとっては、ああいう子供達の明るさが数少ない救い所だなと、スオウは肩をすくめて砂ぼこりを見送った。
「エノシラ師匠、患者さんは今の方でおしまいです」
「そう、貴女も今日はこれでお帰りなさいな」
桶の塩水で手を洗いながら、エノシラは見習いの女の子に声を掛けた。
たまには早い時間に帰してあげないと、ここの所残業続きで休みもあげられなかったもの。
「ご苦労様でした」
弟子を見送り、エノシラはほうっと息を吐いて、診療台に腰掛けた。
西風の里が外に対して閉ざしている今、診療所は暇になりそうな物なのだが、里内の患者が増えた。
ストレスを溜め込んで胃腸を悪くする者、不安が不注意を呼んで怪我をする者、そういう重い空気が伝播して、普段快活な女将さんまでもがそっと不眠治療の薬を貰いに来たりした。
外科治療以外はエノシラの専門外なのだが、そんな事は言っていられない。
何せ今は、頼りの蒼の里のオウネお婆さんに指示を仰ぐ事が出来ないのだ。
修行時代に習った記憶を便りに、毎日懸命に薬草を採って、薬を練っていた。
「ふう……」
エノシラはもう一度ため息して、目を上げた。
彼女の目の下に隈があるのは、診療所の仕事が忙しいせいだけではない。
その視線の先、古い机の隅に貝殻模様の文箱がある。
近寄ってそっと蓋を開く。
一番上はカラびた羊皮紙で、元気な子供の文字が黒々と踊る。
『かねてから勧められていた蒼の里へ留学に行こうと思います。カノンも一緒です。カノンのお母さんを宜しくね。
僕の誇るべき両親は、追い掛けて来て連れ戻すなんて過保護なマネはしないと信じています。次にお会いする時の僕を楽しみにしていて下さい』
丁度三年前の春の朝、十一になる息子が残して行った置き手紙。
エノシラは、何度も読み返したピンピンと癖のある文字を、飽きる事なく見つめた。
「わあっ!」
子供の悲鳴にエノシラは我に返った。
前庭に駆け込んで来た二人の娘が転んだのだ。
「ファー、ミィ!」
裸足で家を飛び出して前のめりに走って来る母を見て、ファーは、シマッタという顔をした。
「母さま、大丈夫だよ」
「あああ! 二人とも擦りむいてる! すぐに消毒しなくちゃ!」
「大丈夫だってば、それより、母さま、神殿遺跡に来て!」
「え? 貴女達、また里の外で遊んでいたの?」
「お説教は後で聞く。それより大変なの。ハブサソリに噛まれた子がいるの」
「イルノ――」
「ええっ! 誰、お友達?」
「知らない子、えっと、名前何だっけ」
「タゥト――」
「!!」
***
酷い吐き気と焼けるような脚の痛みに、タゥトは意識を戻した。
まぶたが貼り付いたように重くて目を開けられない。
「一回は意識を戻したんだけれど、馬の上でどんどん熱が上がって」
聞き覚えのある声…… ああ、さっき砂の上で水をくれた男の子だ……
「母さま、大丈夫? この子」
「ダイジョブー?」
「命は大丈夫、アデルの処置がしっかりしていたから。でも脱水症も酷いわ。ファー、しっかり日陰を作って」
「うん!」
「アデル、薬を飲ませるから頭を支えて」
「おう」
何人かのわちゃわちゃした声…… 口の中に苦いのが広がって、吐き気が更に強まった。
・・
・・・・
次は、ひんやりした空気で意識が戻った。
いや、戻っているのかな、夢なのかな、もう分からないや……
今度は周りは静かで、刺すような陽射しもない。
首を動かすと、額から濡れ手拭いが滑り落ちた。
タゥトはそろそろと目を開けてみた。
今度は開いた。
薄暗い中に、石の壁と高い天井。建物の中だ。
ピンと張られた清潔なシーツに、香の匂いがかすかに漂っている。
どこだろ? さっきの苦い薬のヒトの家かな?
枕元に水差しが水滴を付けて光っている。
ゆっくり身を起こし、コップを掴んでキョロキョロしたが、ヒトの気配はない。
水を注いで口に含むと、今までに経験のない美味しさだった。
ベッドから足を下ろして、そろりと立ち上がった。
先刻までのクラクラは消えている。
それどころか、何だか不思議に気持ちが良かった。
あんなに苦しかったのに? やっぱり夢なのかな?
目が慣れてくると、その部屋の壁はすべて書棚だった。
一角に、墨壺とペン立ての乗った机。木戸の閉まった大きめの窓。隙間から覗くと、外は夜だった。
窓の反対側の扉を細く開けると、廊下だったが、シンとしていて先が真っ暗だ。
何だか怖くなって引き返し、窓を開いて、木枠を乗り越えて外に出た。
裸足の足に地面の冷たさがジンと染みる。
あ、生きてる、と、急に思った。
四角い白い建物が、あちこちにぼんやりと見える。
どこかの集落なのだろうが、灯りの付いている窓はない。
静けさの中、凍った空気がヒリヒリする。
ヒト気のない砂漠より、ヒトがいる筈なのにヒト気のない所の方が怖かった。
「起きたのか?」
不意な声にタゥトは飛び上がった。
声は後ろからではなく、ささやくように頭の上に響いた。
「ここだ、ここ」
振り返って見上げると、今出て来た建物の屋根に、月を背景にヒトが立っている。
逆光でよく見えないが、ウェーブのかかった長い髪の、ハーフマントの女性……
「あ、あの、僕、どうなって……」
慌てるタゥトに構わず、女性はフワフワと歩いて屋根の縁に来た。体重がないみたいな動きだ。
「良い月だぞ、お前も来い」
「え? えっと?」
女性は手を開いて伸ばしたが、背の高い建物の屋根だし、届く訳がない。
しかし女性が空間を掴んで振り上げると、タゥトの右手もグンと引っ張られた。
「ひゃっ」
びっくりしたけれど痛くない。
水に浮かぶみたいに当たり前に身体が持ち上がり、ふわりと屋根に放り上げられた。
「こっちだ」
そのまま女性に手を引かれて、屋根のてっぺんまで誘(いざな)われた。
「わああ」
青い月がすぐ目の前に大きく閃(ひらめ)き、地平まで続く規則的な風紋にくっきりした影を作っている。
「あの砂の模様は、誰が描いているの?」
「西風だ」
耳元の声に振り向くと、女性の顔がすぐそこにあった。
瞳が夕陽みたいなオレンジ色。
その女性がタゥトの後頭部に手を回して、額をコンと当てて来た。
「熱は引いたみたいだな、どこか痺れるか?」
「う、うぅん、元気だよ」
ドギマギしながら何とか答える。
「そうか」
女性は額を離しても、タゥトの頭に手を添えたままだった。
その手は柔らかく、不思議に心地がよかった。