約十年前、当時高校二年生だった廣井きくりは心の底から今この場から立ち去りたい気持ちで溢れていた。
授業が四限までで終わっていて、部活に入っている訳でも無く居残って駄弁る友人も居ない彼女にとって学校に残るという事は無意味な時間なのである。家に帰ってすることがあるかはさておくとして。
「名前何だっけ?」
「廣井きくりです。二学期にもなるのにクラスメイトの名前忘れたんですか?」
「生憎、記憶力は良くなくてね」
廃部になったばかりの軽音部の部室から楽器の音が聞こえて、足を止めたのが運の尽きだった。
部室から出てきた男子生徒と鉢合わせになり、聴くなら部屋に入れと言われるがままに部室に入ってしまい今に至る。
きくりは彼と同じクラスであるものの会話をしたことはないが、彼のことをクラスの女子の間で話題になっていることをたまたま耳にすることもある。愛想が良い方でもないのにそういう話になるのは彼女としては理解は出来なかったが。
「とりあえず一曲聴いていきな。損はさせない」
「あ、いや、別に──」
ギターの音が部室の中に響く。
きくりに音楽の知識は無い。だけど、その音には何故か惹かれてしまう感覚に襲われる。同時に疑問が一つ浮かぶ。たまに音楽番組をテレビで見るくらいの興味しかない彼女でもこれだけ楽器が上手いなら、部活でバンドを組んでいそうなのに何故廃部になった部室で演奏していたのだろうか?
「……うん、初めてでも本当に弾けてしまうもんだな。我ながらびっくり」
「えっ、初めて弾いたの? そんなに上手いなら練習とかしてないの?」
「うーん。今の俺は初めてだけど、今までの俺は上手かったらしいというか……」
要領を得ない様子で彼は手に持ったピックをお手玉のように転がす。
きくりからしたらほぼ初対面の相手の何かしらの事情に踏み込むほどの興味もない。適当にお茶を濁して何とか部室から脱出した。
この日、廣井きくりという人間が狂わされたことは本人にも自覚がなかった。
(今日はギター持ってきてないのかな?)
翌日、きくりが登校すると彼は窓側にある自分の席から空を眺めていた。今日はギターを持ってきていないらしい。昨日どころかギターを持ってきている日を見た事が無いとなると、演奏に使っていたギターはあの場に放置されていたものなのか、彼が持ってきて使っていないのを良いことに物置にしているのか。
(まぁ、もう関係無いか)
どうせ、あの一時だけの関係である。気にしたってきくりにはどうしようという感情もない。特に何もなくその日の授業も終わり、いつものように帰宅する。
翌日、特に何もない。
翌々日、特に何もない。
一週間経っても、特に何もない。
ただただ、日々が過ぎていく。これまでの人生と変わったことはない。それで良いはずなのに何か物足りない。自然と軽音部の部室へと足が向いていた。
「……あれ?」
きくりが部室の戸を開けると中にベースが置いてあり、ギターはどこにもなかった。彼女の記憶が正しければ彼は楽器を学校に持ち込んでいた様子は無かったのにどうしてここにベースがここにあるのだろうか?
「何やってんの?」
「あっ……ごめんなさい」
気付かない内に彼が背後に立っていた。少しだけ席を外していただけらしい。そのままきくりの事を気にする様子もなく、ベースを手にして演奏を始めた。
ベースの音というものを意識して聞いたことは無かった。けれども意外とベースの音が気に入った、気がする。
「ベースも上手いんだ」
「らしい。家でドラムも上手く叩けたし、どうやら色々楽器出来るっぽい」
どこか他人ごとっぽい彼も何か物足りなさそうな調子でベースを鳴らす。上手いことには上手いが、きくりが聞きたかったのはギターの方なのだ。満足出来ないのは彼女もだった。
「ギターはもう弾かないの?」
「やりたい時にやりたいことすれば満足なんだよ。明日は楽器やるつもりないし」
楽器に執着しているわけではないらしく、ここ一週間は色んなことをとっかえひっかえ試していたらしい。
「バンドとか組まないの?」
「興味ない、組む相手も探してない」
それだけ言って彼は無言でベースを弾いていた。会話もなく、最終下校時刻まで楽器の音を聞いているだけのきくりは目当ての音が聞けずにモヤモヤした状態で帰宅することになった。
「……私が楽器始めたらギターやってくれたりするのかな」
本屋で音楽系の雑誌を買って読み漁ったものの、実際に演奏しないとわからないことだらけで、どうやったらあの時のギターをもう一度聞けるのか。色々考えてしまう。
教室の隅でじっとしているだけの人生は、面白くない。
また次の登校日もきくりが軽音部に顔を出してみると彼の姿は無かった。きっと違う趣味を見つけてそちらに熱中しているのであろう。
友人でも恋人でも無い彼女が彼の行動にとやかく口を出す権限はないことはわかっている。一時の夢として胸の内にしまうことにした。
またしても何もない日々が繰り返される。いつの間にか軽音部の部室も他の部に明け渡されていて、足を運んでももう、あの演奏は聞けない。
きくりはいつの間にか、教室で彼を目で追っていた。あの空間で何かが満たされていた。なのにその何かがわからないままであるのは気持ちが悪い。あの音が聴きたい。なのにもう場所がない。だからか自分の隣がその居場所になれば良いと考えた。
(物凄く上手くならないと多分一緒に演奏なんてしてくれないよね)
その日からきくりはベースと必要なもの一式を買い揃えて必死に練習をした。進路の事も考えなければならない時期ではあったが、今まで縮こまって生きてきた甲斐あってかベースを練習している姿を見た親は特に何も言わずに居てくれた。
一応は真面目に授業を受けていたおかげでイージーに入学出来そうで家から近い大学に狙いを付けて、練習の合間に勉強をして、成績は維持出来た。
そんな日々を繰り返すこと早一年。それなりに演奏に自信が持てるようになった頃にアクションを起こした。
「もう、楽器ってやらないの?」
学年が上がっても同じクラスになり、彼の隣の席を確保出来たのは僥倖であった。しかし、問題はまた別にある。
「楽器? 俺楽器やってたの? てか、誰さん?」
「えっ? どういうこと?」
彼の反応がおかしい。まるで記憶喪失になったかのように何も覚えていない。廃部になった軽音部の部室の話をしてもまるで覚えていない。
「……もしかして記憶喪失か何かだったり?」
「するらしいんだよな。これが」
冗談半分で聞いたことが彼からは肯定の言葉が返ってくる。
嘘だ。記憶が無くなってしまったのなら、もうあの音が聴けないのなら、何のために自分は楽器を始めたのか。
(いや、そういえば初めて会った時……確か初めて弾いたって言ってたな?)
きくりはある事を試すことを考えた。
「あのさ、今日家にお邪魔していいかな?」
「なんでまた」
「ちょっと話したいことがあるんだけど、良いかな?」
まぁ、良いけど。と彼から了承を得たきくりは下北沢にある彼の自宅まで上がり込む。リビングに通された彼女は違和感を覚えていた。
(さっきから靴とかも一人分しかないし、こんな立派な高層マンションに一人でって……複雑なご家庭なのかな?)
行儀がよろしくないが、リビングを見渡すと様々な物が一人分しか用意されていない。まるで、一人暮らしを始めて誰も家に上げる気もない人間の家にしか見えない。
「で、話って?」
「あ、いや……その、ギター弾いてみてほしいなぁって……多分上手に弾けると思うから」
「ギター、とか楽器、とかそんなに音楽好きだったのかね。前の俺は」
きくりがそう言うと微妙に納得していない様子で彼は物置らしい部屋からギターを持ち出してきて、軽くじゃんじゃか鳴らす程度にギターを演奏する。
曲というには些か雑なメロディーではあるものの、おおよそはあの時、軽音部の部室できくりが聴いた音と相違ない。
「……いや、うまっ」
「でしょ? だからさ。ば、バンド組んでみない……?」
意を決して提案をしてみる。そうすると彼はほんの少しだけ考えた後に口を開く。
「いいよ。どうせ、受験とか既に終わってるっぽくて、やる事もないし……あー、ただ条件が一つ」
彼は年に一度、夏休み期間くらいを目安に記憶を失うらしい。事実として去年までの記憶は一切なく、きくりのことを覚えていないことや自分の楽器の腕を把握していなかったこと、それを証明する書類を見せて貰ったせいで摩訶不思議ではあるが、真実であると飲み込むしかなかった。
「自分でもビックリな体質だけど……まぁ、要するに俺が辞めたくなったらきっぱり辞めるって条件を飲むなら良いよ」
「じゃあ……それで、メンバーもろくに集まってないけど……よろしくお願いします」
◇ ◇ ◇
「んぁあれ? ここどこだっけ?」
時間は戻り現代。廣井きくりはスマホと衣服以外の全てを居酒屋に忘れて名前も知らない街の駅で目が覚める。
(ひとりちゃんに対バンやろーぜーって言ってその後飲みまくって……あー、いつものか)
よっこいしょと腰を上げて地図を便りにタクシー乗り場でタクシーを捕まえる。
「お客さんどこまで?」
「新宿のFOLTまで」
FOLTに到着するまでかなり時間がある。志摩かイライザに来てもらい、きくりが居酒屋に忘れた物は既に銀次郎に確保してもらっている物を受け取ってから対バンの内容を詰めていくことを考える。
(どうせ正面からやったら絶対負けないしなぁ。頼むぜー結束バンド)
作者が死ぬほど忙しくて滅茶苦茶短くて申し訳ないです。
それはそれとして感想や高評価貰えると嬉しいです(承認欲求の獣)